第8話 ささやかな夜

 ふぅ、と息を吐きながら、アオはヘッドホンを外した。

 会長は満足げに、パチパチとキーボードを叩いている。


「うん、やっぱり君が入ってくれて良かった。今年は活発に活動できそうだ」


 その言葉に、アオは小さく笑う。

 悪い気はしなかった。過去のことなど何も知らない彼に褒められるのは、本質的に認められたような気がしたから。自分がこうしてまた音楽をやれている状況に、そこに余計な感情を挟まなくても済むことに、温かなものを感じていた。


 ロビーに戻ると、「お疲れー」とトウカに労われる。それに頷いたアオの横を、会長がふらりと抜けた。


「岸、酒買って来てくれない?」

「種類」

「任せるよ」


 岸は頷くと、椅子の背もたれに掛けていたパーカーを羽織りながら立ち上がった。


「さて。じゃあここ使おうかな」

「はーい。フジサキこっち来なよ。お菓子もこっちに寄せちゃお」


 さっきまで岸が座っていたところに会長が腰を下ろすと、その隣にいたフジサキはトウカの横へ移動した。手にはお菓子の袋がいくつか。アオがレコーディングをしている間に買い足していたらしい。

 トウカは、フジサキが座った方とは反対側の隣をアオに指し示す。


「アオはここ。子供はお菓子パーティーだよ」

「い、今から?」


 もうかなり遅い時間だ。アオは普段、二十二時以降に何かを食べることはしない。バンドをやっていた頃でさえ、ライブが終わったらそのまま帰っていた。


「あれ、アオの家、門限あった? もう帰る?」

「……そういうわけではないわ。することがあるのなら、残る」


 しかし考えてみれば、今のアオがそんな風に食事に気を遣いすぎる必要はないのだ。二十二時以降に食べないという自分ルールは、健康のためでもあるが、やはり一番は、見た目を気にしてのこと。太らないように、肌が荒れないようにという、芸能人ならではのものだ。


 もう、大勢の人前に、カメラの前に立つことはない。それなら良いのではないかという思考が生まれ、そのままトウカの隣に座る。


「何かするのはかいちょーだけなんだけどね。わたしたちはお喋りするだけ」

「必要なら録り直すこともあるけど。ま、今日は大丈夫そうだ」


 どうやら、これからミックスをするらしい。驚いたアオに、「鉄は熱いうちに打てって言うでしょ」と、的を射ているのかいないのか、微妙な発言をするトウカ。

 同じことを感じたのか、フジサキは溜め息をつく。それから何かに気づいたかのようにアオの顔を見た。


「アオ、自転車じゃなかったか?」

「……」


 フジサキのその言葉に、アオは一瞬、ぽかんと口を開ける。同時に、何だか今日は驚いてばかりだと、恥ずかしさが襲う。

 それを誤魔化すように軽く咳払いをして、「そうね、自転車よ」とだけ答えた。


「そうだった! 危ないよね」


 世間一般的に言えば、女子学生が深夜に一人、自転車で家に帰るというのは確かに危険なのかもしれない。先のフジサキの発言にも、そういう意味が含まれていたのは明らかだ。

 しかしそれ以上に、こうやって誰かに心配されるということが、アオには新鮮だった。ゆえに、断りの文句が口をつく。


「そんなに遠くないし、大丈夫よ」

「駄目だよぅ。ね、今日はうちに泊まりなよ」


 今度こそ、アオは目も口も大きく開けて固まる。たっぷり五秒ほど黙ったアオの手をトウカが握った。


「ね? どうかな?」


 揺らされた手に、アオの思考が戻る。トウカのその勢いと期待するような表情に、初めて出会った日を思い出した。

 アオは結局、勢いに負ける。


「……トウカが構わないなら、そうさせてもらおうかしら」

「良かった!」


 誰かの家に泊まるのは小学生以来だ。内心のわくわくを隠しながら、親に連絡を入れるため、携帯電話を取り出した。


『今夜は、サークルの先輩の家に泊めてもらうことになったわ。明日帰ります』


 メッセージを送信する。すぐに既読通知が来て、間を置かずに返信のメッセージが送られてくる。


『そう』


 たったそれだけの返事をしっかりと確認し、アオは携帯電話を鞄にしまった。




 しばらくの間、会長を除く四人――と、渡辺――は他愛のない話をしていた。話題は主に大学に関することで、食堂のおすすめメニューや、一般教養科目の講義についての話で盛り上がる。


(……一番の、つまみだ)


 先程買ってきた酒を片手に、岸はそう思った。

 彼にとっては何度もしてきた話だったが、新入生のアオや、そういった話が好きなトウカは楽しそうだ。フジサキもその楽しそうな二人を見て、心なしか楽しそうにしているように見える。


 岸はほっと息を吐いた。何よりも、サークルのメンバーが穏やかに過ごせることが嬉しかった。


 アオに聞かれて、それぞれの学科についても話す。会長とトウカは同じ国文学科、フジサキは哲学科、岸は超感覚学科だ。アオは社会学科と言っていたので、岸だけ学部が異なることになる。


「あまりにも偏りすぎね。ほとんど文学部じゃない」

「作曲サークルって昔から理系が少ないんだよね。岸は珍しいよ」


 超感覚学科は理学部に属する。渡辺の言葉に、岸は頷いた。

 これも岸たちが一年生の頃から聞かされてきた話だ。文系でも理系でも関係なさそうなサークルではあるが、傾向というのは存在するらしい。


「そうだ! 渡辺さん、あれ撮ってよ」


 話が落ち着いたところで、トウカが受付に向かって声をあげた。人差し指と親指で大きな四角を作り、右手の人差し指をぴょこぴょこと動かす。


「あぁ、チェキ? ちょっと待ってね」


 一瞬、渡辺の姿が消え、次に出てきた時には白っぽい箱型のインスタントカメラを手に持っていた。

 ちなみに、その手には軍手がはめられている。岸は、渡辺の素手を見たことがなかった。


「んー、渉も入れるならもう少し寄って」


 会長が座っているテーブルに集まり、トウカとアオはピースサインをした。岸とフジサキは棒立ちで、会長はヘッドホンを外し、パソコンの前で顔だけ、カメラの方へ向ける。

 はい、チーズ、という声とともにシャッターが押され、その下部から写真が出てきた。それを傍にあったテーブルに置き、また一枚撮る。


 その手つきはとても軍手をしているようには見えず、毎度のことながら感心する。出てきた写真を同じように置いてまた一枚。


「そんなに何枚も撮るの?」


 シャッターが押される度にポーズを変えていたアオは、少しばかりうんざりした表情になっていた。くす、とトウカが笑う。


「だってみんなで持っていたいもん」

「携帯で撮って送るのじゃ駄目なのかしら」

「風流じゃないよ!」


 テーブルに置かれた写真を見てみると、初めの方に撮った写真は色が出てきていた。トウカはそれをアオに手渡す。


「それに、全く同じ瞬間がいくつもあるのは変でしょ?」

「お、哲学的だねぇ。フジサキとしてはどう?」


 作業に戻ろうと首元のヘッドホンに手を当てていた会長が、話に加わった。トウカの、期待の込められた瞳がフジサキに向けられる。


「まぁ良いんじゃないか」

「えー! ちゃんと答えてよ」


 また始まった、とでも言いたげに溜め息をつくフジサキ。それでも真面目に答えるのが彼の良いところだ。


「いくつも、というところをキーにするなら、平行世界が考えられるというのが一つ」

「パラレルワールドってやつね」

「そうだ。それなら複数あってもおかしくないだろ」


 全員が頷く。


「瞬間、というところをキーにすると……そうだな、一番短く区切った時間をプランク時間というんだが……」

「トレーニングだね」

「……」


 一瞬だけ固まったフジサキは、無表情のままアオに視線を向けた。


「写真はそれよりもずっと長い時間を写している」


 無視されたトウカはふくれっ面になった。勿論誰もフォローしない。


「同じ写真が複数あったとしても、その瞬間、というのは大した瞬間ではないんだよ。瞬間と言うには多すぎる時間を含んでいるから。コピーしていても、ブレくらいあってもおかしくなさそうだろ。……だから、良いんじゃないか」


 わかるようなわからないような難しい話に、全員が黙り込んだ。


 ――無言、無音。


 そういえばこのスタジオは、BGMを流していないのだな、と岸は思った。今更ではあるが。


「あと俺は、時間を瞬間の連続ではなくて、もっとこう……持続的なものとして捉えている。こんな風に言ったが、そういう感覚はわからないというのが正直なところだ。そもそも、時間は物理学の領域だと思っているしな」

「……うん。さすがフジサキ」

「あんたが聞いてきたんだろうが」


 へへ、と笑うトウカの横で、アオが「ふーん」と頷いた。

 もしかすると、彼女はこの話を面白いと感じていたのかもしれない。フジサキとトウカの、絶妙なやりとりによって生まれたこの空気感を崩さないために、何も言わなかったのかもしれない。


 岸はそう思って、心の中でアオに感謝した。

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