第3話 嵐の前も、それなりに

 トウカはそわそわしていた。


 定位置であるソファーから立ち上がり、弾けもしない楽器を次々に触っていく。無駄に楽器の揃っている防音ルーム――通称サー室に、雑な音色が不規則に響いた。


 明日で公式な勧誘期間が終わるというのに、この部屋を訪れる一年生は未だ一人もいないのだ。いや、この際一年生でなくとも問題はないのだが、できることなら一年生に入ってきてもらいたい。せっかく二年生になったのだから、後輩が欲しかった。


「トウカ。少しは落ち着いたら?」

「かいちょー。だって、一人も来てくれないんだよ? 落ち着けないよ」


 会長と呼ばれたメガネの青年は、ノートパソコンに目を向けたまま溜め息をついた。


「うちじゃそれが普通なんだよ。二年生が二人もいるっていうのがおかしいの」

四年生かいちょーたちだって、二人いるじゃん! ねぇフジサキ?」

「まぁ……」

「でも、三年はゼロ。おれらの上も、いなかった」


 同意を求められて曖昧に頷いた、これまたメガネの青年と、言葉を短く切る話し方が特徴的な青年。今この場にいる四人が、作曲サークルの全メンバーだ。


「そういえば、さっきブツブツ言いながら扉にポスター貼っていたな。新入生がくるか?」

「フジサキぃ……恥ずかしいから、そういうことバラさないで」


 トウカは軽くフジサキを睨んだが、彼は小さく肩を竦めただけだった。はは、と笑ったのは会長だ。


「お、誰か待ってるの?」

「いや、来るかどうかはわからない、けど……」


 口ごもるトウカを前に、会長は、ははーん、とわざとらしく笑い、くいっとメガネをあげる。それに合わせて、ベベン、と乾いたベース音の合いの手が入った。これは岸だ。


「さては、この前興奮してたときに会ったっていう子かな」

「あぁ、すごい勢いだったな」

「う……」


 ベンベベン。米が炊ける匂いがする。


「それならCスタを見てくれば良いじゃん。いるかもよ?」

「だからっ! それができないからポスター貼ってるんでしょ!」


 今度は会長を睨むが、彼もフジサキと同じように肩を竦めた。

 できることなら、トウカだってそうしたかった。しかし、あまり現実的な方法ではないのだ。それをわかっているから、これ以上は誰も、何も言わない。

 かと言って代わりに確認してくれるような人はいないのだが、その距離感をむしろ、トウカは心地良いと思っていた。


 だが今は、知りたい。


(……だって、アオが来てくれないんだもん)


 実際のところ、トウカはアオが来るのを待っていた。後輩ができるからとか、女の子が増えるからとか、そんなことはどうでも良かった。何なら、有名人のアオでなくたって良い。


(またあの歌を聴きたいな……)


 たった四小節ほどの、短いフレーズ。

 魅力的な旋律と楽しげな歌声を、今ここで聴いているかのように思い出すことができる。しかしそれとは対照的に、ビニール傘に透けて見えた彼女の笑顔は、とても儚いものだった。


 ソファーの上であぐらをかいている会長の隣に座り、そこに置いてあったノートを開く。


「ん? 何か聞こえた?」

「んーん、思い出してるだけですー」


 片手で首に掛けていたヘッドホンに触れながら、ノートのページをめくる。あの雨の日、急いでサー室に戻って書き殴った言葉が並んでいた。


「音いるか?」とフジサキ。

「あー、じゃあ岸さんに頼もうかな。アコギで、雨っぽいの」

「わかった」


 頼まれた岸は、抱えていたベースをスタンドに立てかけて、アコースティックギターに持ち替えた。

 何かを考えるように少し空中を見てから、おもむろに弾きだす。指で一弦ずつ爪弾くそれは、アルペジオというらしい。トウカは、このサークルに入ってから知った。


 雨の匂いがする。温かく滑らかな音と、時折キュイッと混ざる金属音。それは柔らかな春の雨を連想させた。

 アオの歌声を思い出せば、するすると言葉が出てくる。


 岸の弾くアコギの音。

 トウカがペンを走らせる音。

 会長のタイピング音。

 フジサキが優しくピアノの鍵盤を叩く音。


 これが、彼らにとっての日常だ。


 それとない日常の時間は、今。ガシャン、という扉のレバーが引かれる音によって、非日常へと、進むべき道を変える。


「失礼しま……」

「アオっ!?」


 数年ぶりに訪れた五人目の入室者は、まさに今、トウカが待ち望んでいた人物だった。

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