第2話 誘惑の新歓
四月の半ばを過ぎた頃、大学公認のサークル勧誘期間が始まる。
今年も多くのサークルが、正門からメインの校舎に続く道や、人が多く集まる広場にブースを設け、新入生の勧誘を行っていた。
メガホンを使って宣伝文句を叫んだり、着ぐるみを着た学生がチラシを配ったりしている様子は、さながら大型ショッピングモールの新年初売りセールのようだ。どのような仕組みか、空中でパフォーマンスを行っている者もいる。
アオは講義が終わったあと、入学時に配られたサークル紹介の冊子を手に、いくつかのブースを回っていた。
冊子にはすでに、何枚かのチラシが挟まっている。今日手に入れた、音楽系のサークルが配っていたものだ。より詳しい活動内容や、新入生歓迎ライブの文字に、アオは心が踊るのを感じていた。
(良い、私? 見るだけ、見るだけよ……?)
あの雨の日、トウカにすごい勢いで迫られた時はああ言ったが、あれからよく考え、サークルには入らないと決めている。
アオはもう、歌をやめたのだ。
しかし、音楽が好きだという気持ちは変わらないし、久し振りにあのライブの空気感を味わいたい。そんな考えから、いくつかのサークルで予定されている、新歓ライブに足を運ぶつもりだった。
チラシの中には、今日の日付が書かれているものもある。そこに記された場所へ向かうため、アオは軽やかな身のこなしで人混みをかき分けていった。
「テニスに興味ありませんか?」
「一緒にダンスやらない? ストレス発散にもなるよー!」
時折かけられる勧誘の声を、やんわりと断りながら進む。そのどれもが体を動かすタイプのもので、アオの顔に思わず苦い笑みが浮かんだ。
(おとなしく見えるように切ったのに、効果はなかったみたいね)
顎のところで切り揃えられたボブスタイルの黒髪を揺らして、そう結論づける。
以前のアオは、長い髪を後ろで束ねたポニーテール姿が特徴だったのだ。対照的な髪型にすることで、本人は心機一転のつもりだったが、周りから見た印象はさほど変わらないようだ。
トウカが驚いていたのも、そしてすぐに気を取り直した様子だったのも、もしかしたらこの髪型に反応していたのかもしれない。そう思った。
サークルが使用できる防音ルームは、どうやら三号棟地下室に集結しているらしい。
AからEまであり、そのうちのAは学内最大の軽音楽サークルが、Bは押し付けられたポスターにあった通り、作曲サークルが使用している。残りの三つは、いくつかのサークルで順番に使っている、というのが階段脇にかけられたホワイトボードから得られた情報だ。
案外、力のあるサークルなのだろうか? とアオは首を傾げる。
それなりの数のサークルが順番に活動している中で、人数の少ない作曲サークルが毎日防音ルームを使用しているということには違和感があった。しかし、窓もなく分厚い扉に阻まれた室内を見ることはできない。仕方なく、「防音ルームB」と書かれた扉の前を通り過ぎる。今日の目的地はCだ。
ガシャン、とレバーを上にあげてから扉を引く。すぐに中へ入り扉を閉めると、その暗さに一瞬目が眩んだ。
すでに演奏は始まっていて、観客もかなり集まっている。ステージは一段高くなっているようだが、そこまで背の高くないアオには演奏者の姿が見えなかった。それでも、耳に入る演奏は心地良く、すぐに体がリズムをとり始める。
そのまま少しだけ人の間を抜けると、ステージの奥に配置されているウッドベースのヘッド部分が見えた。
手元の冊子から、「ジャズ音楽研究会 カランド」と書かれたチラシを探す。
(……何の曲をやるかは、書いていないのね)
どこかで聞いた曲のような気がしたが、曲名が思い出せなかった。ジャズの曲には明るくないのだ。アオは少しだけ残念に思いながら、演奏に聴き入る。
「……」
フルアコースティックギターの甘い音色を聴きながら、やはり自分は音楽が好きなのだと、アオは実感していた。
やわらかく鼓動を撫でるようなリズムも、ふわりと体を浮かせるような旋律も、誘うように五感を刺激する。興味に逆らうことはできない。途中で空いたパイプ椅子に座り、結局、最後まで残ってライブを楽しんだ。
次の日も、アオは三号棟地下室に来ていた。防音ルームDとEで二日間、いくつかの軽音楽サークルによる合同ライブがあるのだ。
廊下に張り出されたタイムテーブルによると、ライブは交互に行われるらしい。片方のステージで演奏している間、もう片方のステージで準備をする。常にどちらかで演奏が行われている状態だ。なるほど、とアオは感心した。
最初の演奏が予定されているDに入る。講義が終わったのが早かったからか、今日はまだ始まっていない。ステージ上でそれぞれのパートが音出しをしていた。
奥のPA卓では、マイクを握った男子学生がステージに指示を出している。その様子を見て、アオはふっと頬を緩めた。
(……この感じ、懐かしいわ)
ここよりもずっと大きなライブハウスで、同じようなやり取りを何度もしたのだ。しかし、そのことを覚えているのは世界でたった一人だけ。
また虚無感に襲われる前に、アオは集まっている学生に目を向けた。昨日のライブよりも、ずっと多い。合同ライブということで、新入生は勿論、サークルに所属している学生も大勢いるのだろう。
程なくしてライブは始まった。男性ボーカルの、最近人気のあるフォーピースバンドのコピーだ。トップバッターを飾るだけあって、技量は勿論、観客を引き込むパワーがある。
最前列を揺らしたその波は、あっという間に部屋いっぱいに広がった。
全身に音を浴びて曲に乗るアオは、自分の中でひとつの思いが湧き上がってくるのを感じた。
そして、それを無視した。
次の日も、また次の日も、別の軽音楽サークルの新歓ライブに足を運ぶ。
ドラムが、ベースが、ギターが、キーボードが、そして何よりも、人の歌声が。目の前で鳴っているバンドサウンドが、アオの記憶ごと感情を震わせて。
ついに、最高潮に達する。
「――っ!」
イントロに入る前に鳴らされた、ジャラーンというギターの音。間違えるはずがない。特徴的なコードで始まるその曲を、何度聴いたことだろうか。
曲が始まると、観客は一段と盛り上がった。
「あ、COLORFULだ!」
「この曲好きー」
「ねっ! 良いよねー!」
隣にいた女子二人組の話し声が聞こえる。アオは睨むようにしてステージを見た。
そこにいるのは四人の男女。ベーシストの前にマイクが置かれている。本家の配置までそっくり真似たそのセットに、ハンドマイクのボーカルは想定されていなかった。
ベースを弾きながら、女の子がうたいだす。
この曲は、アオがバンドを抜けてから作られたものだ。少しでも自分の痕跡が残っていないかと、縋るようにして聴いた曲。
そして、辛い思い出の曲でもある。しかし今、堰を切ったように溢れた感情は、ひとつの衝動となってアオを支配した。
(歌を、うたいたい……!)
この伴奏なら、もっと良い旋律をつけられる。もっと馴染むような声でうたえる。
何度もそうしたように、ぐっと唇を噛んでそれを抑えて。目の前で演奏している学生たちの向こう側に、アオはかつての仲間たちを見ていた。
この思いは決して傲慢なんかではない。それが、あのバンドにとっては丁度良いバランスだった。
けれどもアオは、もう歌えない。
改めてそのことを実感し、よろよろと扉へ向かう。廊下に出ると、演奏の音は聞こえなくなった。大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
(私はもう、歌えないわ。……でも、そうしたら、この感情はどうしたらいい……?)
ぼんやりと、階段の方へ歩いていくアオ。
その階段の下、扉に貼られた見覚えのあるポスターが、手招きをしているように見えた。
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