かき集めた青
ナナシマイ
一部 出会い、そして、必然性について
一章 あなたにであうことを のぞんでいた
第1話 再び、アオが始まった日
冷たい雨が、僅かに残っていた桜の花びらを濡らす。
かつては「入学式は桜」というイメージが強かったようだが、四月に入って一週間以上経つ今、都内の大学に植えられた桜はピンク色よりも緑色を多く纏っていた。
踏ん張っているのか、はたまた、落ちるのすら面倒であったのか、かろうじて枝の先にしがみついていた花びらたち。その大半は、この雨によって散ることとなるだろう。
一年間の浪人生活を経て入学したこの大学は、さほど偏差値が高いわけではない。それでも、家から一番近いという理由で選んだここに不満はなかった。
強いて言うならば、一年間という十代の貴重な時間を学生生活から離れたところで浪費したことで、疎外感を抱いていたことだろうか。
事実、彼女はサークル勧誘の喧騒を背に、人気のない校舎の裏側へ向かって歩いている。
建物の角を曲がると、雨のおかげで遠くに聞こえていた学生たちの声が、より遠ざかった。
耳に届くいちばん大きな音は、傘を叩く雨となる。
自分でも気づくことなく、碧は息を吐いた。
道の脇に、掲示板が設置されている。
ビニールで保護しているとはいえ、長い間風雨に晒され続けたことがわかる、くたびれた張り紙。その中に一枚だけ、やけに新しいポスターが目についた。
『作曲サークル・三号棟地下室、防音ルームBにて毎日活動中! 演奏よりも作詞・作曲に興味がある方、歓迎します! ……』
日付が今年度のものであることを確認して、碧は小さく笑った。何も、こんな人目につかない場所に貼ることはないだろう、と思ったのだ。
その人目につかない場所で足を止めた一人であることは気にせず、勧誘ポスターを眺め続ける。
(作曲、ね……)
と、下の方に小さく、手書きの文字が書かれているのを見つけた。他の文章と比べて随分とフランクな言葉が
「――っ!」
たった三行。新しい出会いに期待している、といった意味合いの短い言葉に、碧は心臓が大きく鳴ったのを感じた。傘を握る手に力を込める。
単語のひとつひとつが踊っているように見えた。……勿論これは比喩である。碧は、言葉が踊って見えるような目を持っていない。けれども。
背後の喧騒など、とうに聞こえていなかった。
傘を叩く雨音は不規則なビートを刻んで、うたえ、うたえ、と急かしてくる。
碧はぎゅっと口を結んで、きょろきょろと辺りを見回す。誰もいないことを確認して、小さく息を吐いた。
(……大丈夫。誰かに聞かれたとしても、忘れるだけの私を知っている人はいないわ)
「ンー……」
エムの発音をするときのような口で、軽くハミングをする。それから僅かに口を開き、掠れた声を溢した。
やわらかく、それでいて、跳ねるように。雨音のリズムに合わせて紡がれた旋律に、ポスターに書かれた言葉が乗せられる。
(やっぱり、下手になっているわね。もう、二年近くはうたっていないのだもの)
苦い笑みを浮かべながら、何度もその三行にあてた旋律を繰り返す。
それは出会いの歌。期待と好奇心に満ち溢れた、新たな出会いをうたう歌だった。
そのうち、喉につかえるような声の掠れは薄れ、本来の澄んだ声が顔を覗かせる――。
「……アオ?」
突然かけられた声に、碧はびくっと肩を震わせて口を閉じた。驚きすぎて落としそうになった傘を何とか持ち直す。
恐る恐る振り向いたそこに立っていたのは、癖のある長い髪が印象的な女子学生だった。装着した大きなヘッドホンを、左耳の方だけずらし、大きな瞳を更に大きく見開いている。
互いに驚いている状態で、二人は数秒、見つめ合った。それから興奮したように、長い髪の女子学生が再び口を開く。
「やっぱり! あなた、アオだよね?」
戸惑いながら頷く碧――アオに、「うわぁ、本物だ!」とはしゃぐ女子学生。
「ねぇ、サークルには入ってないの? もしかして作曲サークルに興味ある? うち、人が少ないの、アオが入るなら大歓迎!」
矢継ぎ早に質問を続けられる一方で、アオは困惑していた。
もうずっと、「アオ」という名前では呼ばれていない。大人気高校生バンドCOLORFULのボーカルとしてのアオを覚えている人間は、いないはずだからだ。だが、実際に目の前で興奮している彼女は、その意味で「アオ」と呼んでいるらしかった。
(……オーケー、落ち着いて。理論上はまぁ、あり得ることだわ)
信じがたいことではあったが、そのあり得る状況はいくつか考えついた。同時に、有名なコマーシャルや、街中の商業施設で流れていた自分の歌が、次第に消えていったことを思い出す。……そして、去年の夏には。
その虚無感を振り払うように、アオは首を振った。
「入学したばかりだから、サークルには入っていないの。入るかどうかも、決めていないわ」
そう言うと、女子学生はあからさまにがっくりと肩を落とした。その衝撃で顔の前までずれたヘッドホンを、元には戻さず、首にかける。
「そっかぁ。でも、気が向いたら是非来てね! 見学はいつでも大丈夫だから!」
再び取り戻した勢いに、「か、考えておくわ」と返すアオ。それを聞いた彼女は、にっこりと笑った。
「良かった。……そうだ、わたし名乗ってなかった! 国文学科二年、
トウカは一瞬考えるように視線をさまよわせ、何かを思いついたかのように掲示板に歩み寄った。
「大体のことはここに書いてある通りだから……」
丁寧に画鋲を外して自由になったポスターを、雨粒を落とすように何度か振ってからアオに押し付けた。
わけがわからないままに受け取ったアオに、「じゃあ、待ってるよ」と手を振って、ペタペタと走り去っていく――と思ったら、急に立ち止まるトウカ。首元に下げていたヘッドホンをしっかりと耳に当て直している。
それから照れくさそうに振り向いた彼女はもう一度手を振り、今度こそ校舎の向こう側へ走り去っていった。
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