3-32 心か、身体か

 新しいエリアを前にしても、さほど驚かずに済んだ。エリカが『雹華ヒョウカ』まで案内してくれた際に感じた懸念は、やはり当たっていたらしい。地下を根城ねじろにしている呉飛龍ウーフェイロンの例があるので、歴代の〝神様〟の墓が地下にあっても不思議ではなかった。

 しかし、今も飛龍フェイロンの存在を知らないであろうさかきとヒロは、強い衝撃を受けたようだ。榊は放心の顔でエイジの隣に屈み込み、ヒロも「地下だ!」とはしゃぎ声を上げている。

「こんな通路が隠されていたなんて……光源は何? どうして青く光っているの?」

「お嬢さん、あんまり身を乗り出すな。ヒロも。転げ落ちても医者はいないぞ」

 エイジが声をかけると、榊はヒロと一緒にたしなめられたことで落ち着きを取り戻したらしく、地階から届く青い光に染まった頬を赤らめた。ふとした瞬間に覗く素顔が、零一にエリカの言葉を思い出させる。始まったばかりの旅で、零一が気にかけなくてはならない存在は、ヒロだけではないのだ。

「隠し通路があるのは、この店だけじゃないさ。詳しい説明は、別ルートで地下に下りてからだ。ここを見せたのは、場所を一応教えただけだからな」

 エイジは、床板を元通りめ直した。地下の青い光が封じられて、窓から射す月光だけが店内を静謐せいひつに照らしている。零一が「なんでこの道を使わないんですか?」と訊ねると、レジの外からミキが「遠回りだからよ」と教えてくれた。

「隠し通路は全部で三つあるけど、CDショップ跡地のルートはきついわよ。モンスターの被害で道が崩れている場所があるし、地下で〝常夜〟を一周するくらいの距離を歩くよりも、最短距離で目的地に着くルートにしましょ。緩い下りの坂道だから梯子もいらないし、ヒロ君にとっても安全よ」

「えー。僕、はしごで下りてみたいー!」

「ひー君、駄目よ。危ないから。ミキさん、エイジさん、それでは行きましょう」

 榊はヒロをいさめると、〝常夜〟の実力者たちに向き直った。レジを出てからも隠し通路を見ているので、本心ではこのルートが気になって仕方ないのだろう。零一も後ろ髪を引かれたが、三つの隠し通路の終着点が同じなら、地下で繋がっているはずだ。ぞろぞろと出口に向かう輪に加わって、先頭を歩くエイジに訊いてみる。

「別ルートは、どこにあるんですか?」

「君が〝常夜〟に来たばかりの頃に、一度行ったことがある場所だ」

 エイジに連れられて廃駅方面へ戻ると、大通りから少し離れた細道に入った。目的地に着いた零一は、思わず茫然と声を漏らした。

「自転車屋跡地……」

 先ほど榊はCDショップ跡地を『始まりの場所』と呼んだが、零一にとっての『始まりの場所』は、きっと駅前広場の噴水跡地だ。そして〝常夜〟に流れ着いた日にエイジたちが案内してくれたこの場所も、『始まりの場所』と呼べるかもしれない。

 自転車が床や壁に所狭しと並べられた店内は、差し込む月明かりであちこちに車輪の影が刻まれていた。初めてここに来たときの零一は、〝現実〟から漂流してきたばかりで頭痛に苦しみ、失い過ぎた記憶の所為で自我も曖昧で、住人たち一人一人の顔の区別もついておらず、六〇二号室の同居人の素性すら思い出せない有様だった。エイジもあの頃を回想したのか、店内を歩きながら呟いた。

「それにしても、この自転車屋跡地まで連れて来た時には、おいおい眠ってんのか? ってくらいにぼんやりしてた青年が、二週間と少しでずいぶん精悍せいかんな表情をするようになったじゃねえか」

「俺は、そんなに変わってないと思いますけど……」

 そういえば、エリカにも似たようなことを言われていた。別れ際の切なげな表情が脳裏をよぎり、かぶりを振る。変化を受け入れる強さがなければ、いずれ必ず向き合うことになる己の闇に、零一はたちどころに取り込まれてしまうだろう。

「なんか、すみません。ここに来たばかりの頃は、ぼーっとしてて……」

「別に構わん、そんなことは」

 エイジはCDショップ跡地のときと同様に迷いのない足取りで、レジの奥にあるバックヤードへ入っていく。ヒロは店の軒先で自転車の試し乗りをしようとして、苦笑するミキと少し慌てた顔の榊に止められていた。ヒロのおかげで旅の雰囲気が柔らかくなったことに感謝しながら、零一はエイジのあとを追った。

 事務机とパソコンと棚を無理やり押し込んだような狭い部屋は、雑多な印象とは裏腹に、一定の清潔さを保っていた。ふと気づき、零一は憶測を口にする。

「隠し通路があるお店って……宇佐美うさみさんが先に来て、歩きやすいように手入れしてくださったんですか? 飛龍フェイロンさんのお店で火鍋ひなべを囲んだ時に、エイジさんは言ってましたよね? お墓までの道は足場が悪くて、杖をついた宇佐美うさみさんには厳しいけど……〝常夜〟の実力者として、俺たち新人と一緒に来てくださるって」

「……ああ。本当は先に行って待つんじゃなくて、俺たちと一緒に君たちを引率したかったらしいがな。あの爺さんも本当に、大らかに見えて頑固一徹だよ」

 エイジは部屋の隅に向かうと、掃除用具入れと思しきロッカーを開け放った。なぜか中からバケツやモップを次々と取り出しながら、おもむろに言う。

「零一君。君は、死にたいと思ったことはあるか?」

「えっ……?」

 抜き身の刀のような問いの一閃が、返事を喉につかえさせた。心の深い部分を切りつける鋭い痛みが、赤いフラッシュバックを連れてくる。――雪が降り積もる白い路上に、同じ赤が染みている。あのとき、零一は死にたかったのだろうか。血の気が引いた頭を、横に振る。あれは、絶望の始まりに過ぎないのだ。本当の悪夢は、この先だ。記憶の赤色を忘却の雪に埋めたままでも、それだけは明確に知っていた。

「……あると思います。でも……俺が〝常夜〟に来たきっかけは、自殺未遂ではないはずです。思い出せたわけじゃないから、なんとなくですけど……いや、エリカに病み上がりっぽいって言われたから、健康体ではなかったと思います。……たぶん〝常夜〟に来る直前の俺は、あんまり食事を取れてなかったから……」

「……。そうだろうな」

 エイジが、振り向いた。月光がぎりぎり届かない所為で、表情が闇に沈んでいる。

「俺の見立てでは、零一君は『心』のほうだ」

「こころ……?」

「今の話だと、『身体』も多少は関係しているようだがな。……『心』なら、いつか〝現実〟に帰れるさ。少なくとも、資格はある。だが、『身体』なら」

 エイジの言葉の続きを、背後から近づいてきた賑やかな声が断ち切った。「零一にいちゃん、エイジおじちゃん、見つけたあ!」と叫んだヒロが、零一に勢いよく飛びついてくる。ミキと榊も狭い室内に入ってくると、エイジはロッカーを腕で示した。

「……揃ったな。行くぞ。二つ目の隠し通路は、ここだ」

「ロッカーの中、ですか。今度は床下じゃないんですね」

 榊が、ロッカーへ近寄った。我に返った零一も、隣からロッカーを覗き込む。掃除用具を抜かれて空っぽになった暗がりに目を凝らすと、奥に暗幕が吊るされていた。おっかなびっくり手を伸ばして、重量感のある厚いカーテンを捲ってみる。CDショップ跡地と同じ青い光が、闇を淡く退しりぞけた。光のミストに目を細めた榊は、聡明さを窺わせる怜悧れいりな瞳を、すぐ後ろにいたミキに向けた。

「どうして、通路を隠しているのでしょうか?」

「〝常夜〟に流れ着いたばかりの新人を、この隠し通路の先に近づけないためよ」

「新人を?」

「新人は、まだ〝現実〟の記憶を取り戻せていないもの。聞こえない音や見えないものが多すぎる段階で、〝神様〟のお墓の話なんかしたって、混乱を招くだけでしょ?」

「……ミキさん。私たち新人を、煙に巻こうとしていませんか? 私には、それだけの理由で〝神様〟のお墓に通じる道を隠しているとは思えません」

「ええ、そうね。理由は他にもあるわ」

 ミキは、あっさりと認めた。意表をかれた様子の榊を押しのけて、窮屈きゅうくつなロッカーへ身体を横向きにして入り、冤罪えんざいの脱獄囚が壁を穿うがって作った抜け道のような暗幕の向こう側へ、物怖じせずに踏み込んでいく。

「もう一つの重要な理由は、〝神様〟が持つ特権とも関わってくるわ」

「〝神様〟の?」

 零一が訊き返す隣で、榊は息を呑んでから、美貌に硬い笑みをのせた。微かな挑発を感じる表情は、暗幕から零れた光で青白かった。

「〝常夜会議〟では伏せられていた真実を、ようやく教えてくださるのですね」

「知りたかったら、早く来なさい。置いていくわよ」

 暗幕に手を添えて待つミキに、榊もまなじりを決して続いた。振り返らない背中をヒロが慌てて追いかけて、エイジと零一がバックヤードに残される。零一は口を開きかけたが、唇を結んで歩き出した。あの話の続きを知る機会は、すぐに地下で巡ってくるはずだ。

 横這いの姿勢で暗幕をくぐると、スニーカーが踏みしめるタイルが、ごつごつした岩場に変わった。青い薄明りでは心許なく見えづらいが、壁と天井も岩石で構成されているようだ。しんがりを務めたエイジの足音が、やけに遠くまで反響する。

 緩い下り坂を慎重に進んでいくと、坂道の終わりで視界が開けた。ロッカーをくり抜いたトンネルの先は、まさしく異世界と呼ぶべき風景だった。

「わ……」

 感嘆の声が漏れるほどにだだっ広い空間は、青白く輝く洞窟どうくつだった。榊も目をみはって立ち尽くし、ヒロさえも眼前の眺めに言葉を失くしているようだ。

 声を奪い去るほど美しい光のみなもとは、洞窟じゅうで煌めきを放つ鉱物だ。透明な結晶が岩陰を剣山けんざんのように覆っていて、西洋の大聖堂のような鋭さで伸びて、交差し、唯一無二の輪郭りんかくを描き、果てしなく続く洞窟を支配している。頭上にもクリスタルの群れが刺さっていて、地下に降り立ったばかりの人間たちを圧倒した。

水晶すいしょうよ。別名は石英せきえいね」

 ミキが、いつの間にか零一の隣にいた。地下は地上よりも暖かく、吐息から白さが消えている。呼吸すらも忘れていたのか、零一は喉の渇きを自覚した。

「ミキさん、どうして……この洞窟の水晶は、どれも青く光ってるんですか?」

「私も気になっていました。今度こそ教えてください」

 榊も、零一の隣に歩いてきた。ミキは肩を竦めると「〝常夜〟の月明かりを蓄えているからでしょうね」と返事をして、洞窟の奥を指さした。

「ここは洞窟だけど、もう少し先まで歩けば、天井が崩れた場所に出るわ。そこから届く月明かりを吸収して、青く光っているみたいよ」

「水晶って、蓄光ちっこうする鉱物でしたっけ?」

「あら、零一君って鉱物に詳しいのね?」

「詳しいってほどじゃないですけど……エリカが〝現実〟で読んでた鉱物図鑑を、俺も少しだけ見せてもらったことがあります」

「あの子って、本当に勉強家よね。確かにこの水晶は、本来なら蓄光しないはずよ。生成の過程で原油が入って、紫外線で発光する『オイル入り水晶』って鉱物なら、確かに〝現実〟にあるけれど、これは違うわ。月明かりを蓄えたこの水晶は、きっと〝常夜〟にしか存在しない鉱物よ」

「〝常夜〟にしか、存在しない……」

「待って、ひー君。勝手に触っちゃ駄目よ」

 榊が、はっと振り向いた。少し離れた場所に立つヒロは、自身の背丈ほどの高さでそびえる結晶に、小さな手のひらを近づけていた。薄く笑ったミキは「大丈夫よ、榊さん」と存外に優しい声音で言って、ヒロに向き直った。

「〝常夜〟にしか存在しない鉱物でも、人体に害はないわ。触っても皮膚がかぶれたりする心配はないことは、私たちが証明済みよ。でもね、ヒロ君。得体の知れないものをいきなり素手で触るのは、これからもやめておいたほうがいいわよぉ? 〝現実〟の鉱物には、触れるだけで怪我をする危険なものもあるからね」

「はあい、ごめんなさい」

 しゅんと肩を落とすヒロの頭を、隣にいたエイジがぽんぽんと撫でた。そして零一と榊に向き直り、「話の続きは、歩きながらでも構わないな?」と声をかけた。

 青白く輝く水晶洞窟の細道は、緩やかに蛇行しながら、仄暗い闇へと続いていた。

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