3-32 心か、身体か
新しいエリアを前にしても、さほど驚かずに済んだ。エリカが『
しかし、今も
「こんな通路が隠されていたなんて……光源は何? どうして青く光っているの?」
「お嬢さん、あんまり身を乗り出すな。ヒロも。転げ落ちても医者はいないぞ」
エイジが声をかけると、榊はヒロと一緒に
「隠し通路があるのは、この店だけじゃないさ。詳しい説明は、別ルートで地下に下りてからだ。ここを見せたのは、場所を一応教えただけだからな」
エイジは、床板を元通り
「隠し通路は全部で三つあるけど、CDショップ跡地のルートはきついわよ。モンスターの被害で道が崩れている場所があるし、地下で〝常夜〟を一周するくらいの距離を歩くよりも、最短距離で目的地に着くルートにしましょ。緩い下りの坂道だから梯子もいらないし、ヒロ君にとっても安全よ」
「えー。僕、はしごで下りてみたいー!」
「ひー君、駄目よ。危ないから。ミキさん、エイジさん、それでは行きましょう」
榊はヒロを
「別ルートは、どこにあるんですか?」
「君が〝常夜〟に来たばかりの頃に、一度行ったことがある場所だ」
エイジに連れられて廃駅方面へ戻ると、大通りから少し離れた細道に入った。目的地に着いた零一は、思わず茫然と声を漏らした。
「自転車屋跡地……」
先ほど榊はCDショップ跡地を『始まりの場所』と呼んだが、零一にとっての『始まりの場所』は、きっと駅前広場の噴水跡地だ。そして〝常夜〟に流れ着いた日にエイジたちが案内してくれたこの場所も、『始まりの場所』と呼べるかもしれない。
自転車が床や壁に所狭しと並べられた店内は、差し込む月明かりであちこちに車輪の影が刻まれていた。初めてここに来たときの零一は、〝現実〟から漂流してきたばかりで頭痛に苦しみ、失い過ぎた記憶の所為で自我も曖昧で、住人たち一人一人の顔の区別もついておらず、六〇二号室の同居人の素性すら思い出せない有様だった。エイジもあの頃を回想したのか、店内を歩きながら呟いた。
「それにしても、この自転車屋跡地まで連れて来た時には、おいおい眠ってんのか? ってくらいにぼんやりしてた青年が、二週間と少しでずいぶん
「俺は、そんなに変わってないと思いますけど……」
そういえば、エリカにも似たようなことを言われていた。別れ際の切なげな表情が脳裏を
「なんか、すみません。ここに来たばかりの頃は、ぼーっとしてて……」
「別に構わん、そんなことは」
エイジはCDショップ跡地のときと同様に迷いのない足取りで、レジの奥にあるバックヤードへ入っていく。ヒロは店の軒先で自転車の試し乗りをしようとして、苦笑するミキと少し慌てた顔の榊に止められていた。ヒロのおかげで旅の雰囲気が柔らかくなったことに感謝しながら、零一はエイジのあとを追った。
事務机とパソコンと棚を無理やり押し込んだような狭い部屋は、雑多な印象とは裏腹に、一定の清潔さを保っていた。ふと気づき、零一は憶測を口にする。
「隠し通路があるお店って……
「……ああ。本当は先に行って待つんじゃなくて、俺たちと一緒に君たちを引率したかったらしいがな。あの爺さんも本当に、大らかに見えて頑固一徹だよ」
エイジは部屋の隅に向かうと、掃除用具入れと思しきロッカーを開け放った。なぜか中からバケツやモップを次々と取り出しながら、おもむろに言う。
「零一君。君は、死にたいと思ったことはあるか?」
「えっ……?」
抜き身の刀のような問いの一閃が、返事を喉に
「……あると思います。でも……俺が〝常夜〟に来たきっかけは、自殺未遂ではないはずです。思い出せたわけじゃないから、なんとなくですけど……いや、エリカに病み上がりっぽいって言われたから、健康体ではなかったと思います。……たぶん〝常夜〟に来る直前の俺は、あんまり食事を取れてなかったから……」
「……。そうだろうな」
エイジが、振り向いた。月光がぎりぎり届かない所為で、表情が闇に沈んでいる。
「俺の見立てでは、零一君は『心』のほうだ」
「こころ……?」
「今の話だと、『身体』も多少は関係しているようだがな。……『心』なら、いつか〝現実〟に帰れるさ。少なくとも、資格はある。だが、『身体』なら」
エイジの言葉の続きを、背後から近づいてきた賑やかな声が断ち切った。「零一にいちゃん、エイジおじちゃん、見つけたあ!」と叫んだヒロが、零一に勢いよく飛びついてくる。ミキと榊も狭い室内に入ってくると、エイジはロッカーを腕で示した。
「……揃ったな。行くぞ。二つ目の隠し通路は、ここだ」
「ロッカーの中、ですか。今度は床下じゃないんですね」
榊が、ロッカーへ近寄った。我に返った零一も、隣からロッカーを覗き込む。掃除用具を抜かれて空っぽになった暗がりに目を凝らすと、奥に暗幕が吊るされていた。おっかなびっくり手を伸ばして、重量感のある厚いカーテンを捲ってみる。CDショップ跡地と同じ青い光が、闇を淡く
「どうして、通路を隠しているのでしょうか?」
「〝常夜〟に流れ着いたばかりの新人を、この隠し通路の先に近づけないためよ」
「新人を?」
「新人は、まだ〝現実〟の記憶を取り戻せていないもの。聞こえない音や見えないものが多すぎる段階で、〝神様〟のお墓の話なんかしたって、混乱を招くだけでしょ?」
「……ミキさん。私たち新人を、煙に巻こうとしていませんか? 私には、それだけの理由で〝神様〟のお墓に通じる道を隠しているとは思えません」
「ええ、そうね。理由は他にもあるわ」
ミキは、あっさりと認めた。意表を
「もう一つの重要な理由は、〝神様〟が持つ特権とも関わってくるわ」
「〝神様〟の?」
零一が訊き返す隣で、榊は息を呑んでから、美貌に硬い笑みをのせた。微かな挑発を感じる表情は、暗幕から零れた光で青白かった。
「〝常夜会議〟では伏せられていた真実を、ようやく教えてくださるのですね」
「知りたかったら、早く来なさい。置いていくわよ」
暗幕に手を添えて待つミキに、榊も
横這いの姿勢で暗幕をくぐると、スニーカーが踏みしめるタイルが、ごつごつした岩場に変わった。青い薄明りでは心許なく見えづらいが、壁と天井も岩石で構成されているようだ。しんがりを務めたエイジの足音が、やけに遠くまで反響する。
緩い下り坂を慎重に進んでいくと、坂道の終わりで視界が開けた。ロッカーをくり抜いたトンネルの先は、まさしく異世界と呼ぶべき風景だった。
「わ……」
感嘆の声が漏れるほどにだだっ広い空間は、青白く輝く
声を奪い去るほど美しい光の
「
ミキが、いつの間にか零一の隣にいた。地下は地上よりも暖かく、吐息から白さが消えている。呼吸すらも忘れていたのか、零一は喉の渇きを自覚した。
「ミキさん、どうして……この洞窟の水晶は、どれも青く光ってるんですか?」
「私も気になっていました。今度こそ教えてください」
榊も、零一の隣に歩いてきた。ミキは肩を竦めると「〝常夜〟の月明かりを蓄えているからでしょうね」と返事をして、洞窟の奥を指さした。
「ここは洞窟だけど、もう少し先まで歩けば、天井が崩れた場所に出るわ。そこから届く月明かりを吸収して、青く光っているみたいよ」
「水晶って、
「あら、零一君って鉱物に詳しいのね?」
「詳しいってほどじゃないですけど……エリカが〝現実〟で読んでた鉱物図鑑を、俺も少しだけ見せてもらったことがあります」
「あの子って、本当に勉強家よね。確かにこの水晶は、本来なら蓄光しないはずよ。生成の過程で原油が入って、紫外線で発光する『オイル入り水晶』って鉱物なら、確かに〝現実〟にあるけれど、これは違うわ。月明かりを蓄えたこの水晶は、きっと〝常夜〟にしか存在しない鉱物よ」
「〝常夜〟にしか、存在しない……」
「待って、ひー君。勝手に触っちゃ駄目よ」
榊が、はっと振り向いた。少し離れた場所に立つヒロは、自身の背丈ほどの高さで
「〝常夜〟にしか存在しない鉱物でも、人体に害はないわ。触っても皮膚がかぶれたりする心配はないことは、私たちが証明済みよ。でもね、ヒロ君。得体の知れないものをいきなり素手で触るのは、これからもやめておいたほうがいいわよぉ? 〝現実〟の鉱物には、触れるだけで怪我をする危険なものもあるからね」
「はあい、ごめんなさい」
しゅんと肩を落とすヒロの頭を、隣にいたエイジがぽんぽんと撫でた。そして零一と榊に向き直り、「話の続きは、歩きながらでも構わないな?」と声をかけた。
青白く輝く水晶洞窟の細道は、緩やかに蛇行しながら、仄暗い闇へと続いていた。
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