3-31 歌が生まれた場所
「僕、マンションで
ヒロが、隣で零一を見上げて言った。「
「僕も、零一にいちゃんたちと行きたかったからだよ! エイジおじちゃんとミキねえさんも、僕を連れていくか置いていくか、迷ってたんでしょ? 僕、ちゃんと知ってるんだよ! ……でも、榊さんがダメって言ったから」
「……ヒロのことが、心配なんだろ。榊さんは」
昨日の〝常夜会議〟を振り返れば、ヒロを墓参りから遠ざけたい榊の心理は想像できる。仔細が不明な〝神様システム〟に、二年前に蒸発した『
「杉原さんも、僕にそう言ってたよ。みんなが僕を置いていくのは、僕が心配だからだって。でも、杉原さんは僕を叱っても、マンションから出ていかなかったんだ」
「? どういう意味だ?」
言葉の意味を理解できず、零一は首を捻る。ヒロは、意図が伝わらなかったことを逆に不思議がるように、きょとんと零一を見上げてきた。
「杉原さんは、僕を叱ったあとも、僕を置いていかなかったんだ。それに、たくさんお喋りしてくれたよ。ママだったら、ぜったいに次の日まで帰ってこないのに」
零一は息を呑み、ヒロは笑った。くりくりとした丸い瞳に、月光の青が淡く光る。
「僕、うれしかったよ」
「……そうか」
ヒロの〝現実〟に対する疑惑は、ほとんど確信に変わっていた。
――『久しぶりに、太陽の光が恋しくなっちゃった』
〝常夜会議〟のあとで、杉原と二人で話したときのことを思い出す。あのときから杉原は、ヒロが抱えた欠落を、誰よりも正確に見抜いていたのかもしれない。
――『あの子には、〝常夜〟では見られない景色を見せてあげたい。私たちの世界には、眩しいものも、綺麗なものも、心が震えるものがたくさんあるってことを、教えてあげたい。そのためにも……〝現実〟に帰してあげたいけれど』
まだ、零一たちには〝道〟が見えない。たとえ見えたとしても、〝現実〟のヒロと知り合いではない零一たちは、同じ〝道〟を歩けない。自力で〝道〟を見つけたあとも、〝現実〟で生き抜く力を得られなければ、杉原がヒロに見せたい景色はきっと、何一つヒロの瞳には映らない。
「零一にいちゃん。僕の新しい服、いいでしょ!」
ヒロが、両腕をペンギンのように拡げて見せた。青い上着はサイズがかなり大きめで、袖丈を詰めているのだとすぐに分かった。〝常夜〟の古着屋にはヒロの体形に合う冬服がないと聞いていたので、きっと杉原が前々から用意していたに違いない。
「これから行く場所って、歩きにくいんでしょ? ちゃんと袖がある服を着て、肌を守らないとだめだって、杉原さんが言ってたよ」
「……いろいろ教えてもらえて、よかったな。服も、似合ってるぞ」
髪を一つにくくった頭を撫でてやると、ヒロは嬉しそうにニマニマした。天真爛漫な笑みからは、杉原が別れ際に見せた悲壮さに結びつくような感情は欠片もない。あのときの表情に思いを馳せていると、ヒロを挟んで隣を歩くミキが、小さな笑い声を立てた。
「ヒロ君は、すっかり杉原さんと仲良しになったのねえ」
「うん! 杉原さん、優しくて好き! でも、怒ったらちょっと怖かった」
「よかったじゃない、叱ってくれた相手が杉原さんで。エイジおじちゃんだったら、もっと怖かったわよぉ?」
「ミキ、聞こえてるぞ」
零一たちの前方から、ぶっきらぼうな声が聞こえてきた。後方の零一たちを先導するように歩くエイジは、榊と肩を並べている。月光が生み出した影が二人分、舗道に長く伸びていた。二人の間には会話がないようで、硬い空気が流れている。息苦しい雰囲気から逃れるように、零一はミキに訊ねた。
「ミキさん。いまさらなんですけど、俺たちの服装は、ミキさんみたいに黒くなくてもいいんですか? その、少しは意識したほうがよかったかなって……」
「別にいいわよ。ヒロ君の言う通り、お墓までは悪路だもの。それに、古着屋でしか衣服を調達できない世界だし、死者を
そう答えて微笑むミキは、手に大きな紙袋を提げていた。カスミソウの白いドライフラワーが、紙袋から慎ましく顔を出している。零一の視線に気づいたミキが、「ああ、これね」と言って紙袋を持ち上げた。
「仏花の代わりよ。噴水跡地で待ち合わせる前に、雑貨屋跡地で頂いてきたの」
「この花……俺、見たことがあります」
自転車で〝常夜〟を一周したときに、西洋雑貨を押し込んだ小箱のような無人の店を見たはずだ。廃駅に純喫茶跡地『
「〝常夜〟では、生花も手に入らないからね。お線香と蝋燭は、休憩を予定してる道中の建物に用意があるわ」
「すみません、何から何まで……その花、俺が持ちます」
「そう? じゃあ、お願いするわね」
零一は、ミキから紙袋を受け取った。とうに命を失って乾いた花を収めた紙袋は、拍子抜けするほど軽かった。モンスターから逃れるためにヒロを背負ったときのことを思い出し、ふと零一は隣を見下ろした。
「ヒロは、俺たちと一緒に行きたいって言ったけど……どうして、手記を盗ってまで行きたかったんだ? 待ってたら、俺たちは帰ってくるのに……」
質問しながら、逆に考えた。エイジとミキは、なぜヒロを置いていこうとしたのだろう。榊と同様の理由もあるはずだが、最終的には杉原の懇願を受け入れて、ヒロの同行を許している。大人たちの会話を聞かせないことだけが、ヒロをメンバーから外そうとした理由にはならない気がした。ヒロは、ニコニコと機嫌よく答えてくれた。
「おじいちゃんにも、会えるからだよ!」
「おじいちゃん……?」
「
ミキが、くすりと笑った。堂々と歩く姿が普段よりも小さく見えるのは、今日は高いヒールではなくスニーカーを履いている所為だろう。
「
「そうだよ! おじいちゃん、今度は新しい絵本を読んでくれるって言ってたのに、僕と零一にいちゃんがモンスターから逃げた日から、ぜんぜん会えなくて……」
図書館付近で遭遇したモンスターに、零一が狙われなかった日のことだ。零一たちの無事を
「でも、お墓参りには来るんでしょ? 零一にいちゃんたちだけ会えるなんてずるい、僕もおじいちゃんに会いたい! ってマンションで話したら、
力説するヒロの言葉は、前方を歩くエイジが振り向き、「もうすぐ着くぞ」と告げたことで遮られた。〝常夜〟の外れに向かって歩いた所為か、辺りには〝現実〟との境目だという白い霧が立ち込めてきたが、まだ廃駅沿いのフェンスが遠くまで見渡せるうえに、大通りで見かけるような建物も多い。どのルートで〝神様〟の墓参りに向かうのか、皆目見当がつかなかった。そんな疑問を気取ったのか、エイジが軽く首肯して、街並みの一角へ目を向けた。零一は、視線をたどって瞠目する。
「少し寄り道をしていく。お前さんは、一度訪ねておいても損はないだろう」
「ここは……」
雑居ビル群が
「CDショップ跡地……」
窓ガラスにさまざまなアーティストのポスターを貼った店へ、エイジが迷いのない足取りで入っていく。自動扉はとうに壊れているようで、ぽっかりと開いた長方形の暗闇を、
――『一年前の冬に、エリカちゃんが〝常夜〟に流れ着いた瞬間からよ。静かな〝常夜〟に音楽が蘇ったことを、〝常夜〟じゅうの住人たちが悟ったわ。あの頃にはまだアユちゃんとユアちゃんは〝常夜〟に流れ着いていないから、ラジオ局はなかったけれど、代わりにCDショップ跡地から、綺麗な音楽が聴こえてきたから』
〝常夜会議〟でそう言っていた人物を、零一は振り返る。ミキは苦笑の顔で頷くと、「行きましょ」と零一を促した。
「零一君のためだけじゃないから、気にしないでいいわよ。この場所も、〝神様〟のお墓参りと無関係ではないもの。ヒロ君、私たちから離れないでね。このお店もコンビニ跡地と同じで店主はもういないから、あちこちが傷んでいて危ないはずよ」
「はあい」
元気よく返事をするヒロが、ミキと手を繋いで店内に入った。零一も我に返り、一同を追ってCDショップ跡地に足を踏み入れる。
窓から月明かりが射す店内は、意外にも埃っぽさを感じなかった。瓦礫や砂利も他の雑居ビルに比べたら少ないので、誰かが掃除をしているのだろうか。
背の低い棚が整然と並んだ空間を見渡すと、奥でエイジが零一を手招きした。表情が希薄な横顔を、人工的なグリーンの光が照らしている。光源は、壁からせり出した柱に取り付けられた装置のようだ。そばに立つ榊の
「これは……」
光を発していたのは、CDの試聴機だった。黒い液晶パネルには『DISC7』とグリーンの文字が点灯し、装置の中でCDがくるくると回っている。柱に据え付けられた棚には『DISC1』から『DISC8』までのナンバーが振られたCDが横一列に並んでいて、店員の手書きのポップが曲の魅力を伝えている。
しかし、八枚のCDのうち、一枚だけ――ポップはおろか、CDのジャケットすら視認できない。ナンバーの隣に書かれていると思しき曲名も読めなかった。
――『DISC7 ***』
店内の風景が白くフラッシュして、記憶の断片が蘇る。鈍い頭痛で揺らぐ視界に、〝現実〟の日々を共に過ごした少女が現れた。アッシュグレーとパープルに染め直したばかりの長い髪を、緩い三つ編みに結っている。スカジャンにチュールスカートを合わせた少女は、試聴機の前に立つ零一に、ヘッドフォンを差し出して笑っていた。
刹那の幻影に誘われるように、〝常夜〟の零一の手が動く。柱に吊るされたヘッドフォンを外して、震える手で頭に装着した。女性ボーカルの甘い声が、ほんのりとダウナーな夜色に澄んだメロディで走り出す。頭痛が、すうと和らいでいった。
迷彩に
空っぽの窓際に飾られた花
目覚めた君は
錆びついたナイフと
踊るのさ
拙いチークを
「エリカ……」
――あの曲の、二番の冒頭だ。
「何か思い出したか?」
エイジが、隣から訊いてきた。ヘッドフォンを外した零一は、「はい」と答えた。
「このCDショップとは別の店に……俺は、エリカと出かけたことがあります。あいつのデビューシングルが、お店に並んでるところを見に来たんです」
今にして思えば、〝常夜会議〟でCDショップ跡地が話題になった瞬間から、零一は気づきかけていたのだろう。ヘッドフォンを柱に戻して、掴んだ確信を言葉にした。
「俺が、全ての記憶を取り戻すのは……この曲の名前を、思い出すときです」
エイジは、零一の言葉に感想を述べなかった。ただ、無言で試聴機を操作して、曲の音量を大きくした。ヘッドフォンから漏れる歌声が、寂れた屋内に
「ここが……〝常夜〟に歌が生まれた、始まりの場所なんですね」
「ああ。それに、あの場所に続く通路の一つでもある」
「通路?」
怪訝そうに訊き返す榊へ、エイジは「ついてきな」と短く言って、店内のレジに向かった。腰袋から小さなバールを取り出したので、零一も榊と顔を見合わせてからついて行く。レジの内側で屈んだエイジは、床板の窪みにバールを当てていた。
「エイジさん? 何を……」
零一が声をかけた時、ちょうどエイジが床板を一枚剥がしたところだった。
途端に、床下から青い輝きが溢れ出した。一人くらいなら悠々と通れる四角い抜け穴から零れた光が、壮年の男を照らし出す。目が
床の穴から覗く光の海へ、
「ここが、歴代の〝神様〟の墓に繋がる隠し通路の一つだ」
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