3-31 歌が生まれた場所

 廃駅はいえきから延びる線路の隣をフェンスに沿って歩くうちに、雑居ビルの数は減っていった。さかきとヒロが暮らすマンションは、この車道をさらに進んだ場所にあるのだと、道中の雑談でヒロが教えてくれた。零一も〝常夜〟を自転車で一周した際に通ったはずだが、やはりあの頃の記憶はおぼろげだ。とはいえ似たようなマンションやビルが多いので、単純に建物の区別がついていないだけかもしれない。

「僕、マンションで杉原すぎはらさんに怒られたんだ」

 ヒロが、隣で零一を見上げて言った。「さかきさんのリュックから、僕が手記を抜いたことがバレたから」と告白を続けて、しょんぼりと眉を下げている。「まあ、怒られるだろ……」と零一は返事をしたものの、杉原が怒るところを想像できず、言葉尻があやふやになった。思えば、杉原とは早々に駅前広場で別れたので、ヒロが手記を盗んだ正確な経緯を知らないままだ。「なんで手記をったんだ?」と訊いてみたが、訊くまでもなかったかもしれない。ヒロは、へにゃっと笑ってきた。

「僕も、零一にいちゃんたちと行きたかったからだよ! エイジおじちゃんとミキねえさんも、僕を連れていくか置いていくか、迷ってたんでしょ? 僕、ちゃんと知ってるんだよ! ……でも、榊さんがダメって言ったから」

「……ヒロのことが、心配なんだろ。榊さんは」

 昨日の〝常夜会議〟を振り返れば、ヒロを墓参りから遠ざけたい榊の心理は想像できる。仔細が不明な〝神様システム〟に、二年前に蒸発した『草壁衛くさかべまもる』という〝神様〟のこと、住人たちを襲うモンスターの謎など、知りたい真実は山ほどあるのだ。何らかの情報を伏せている節があるミキたちと、榊は今後も衝突を重ねる可能性が高いだろう。そんな大人たちの姿を、幼いヒロには見せたくないはずだ。

「杉原さんも、僕にそう言ってたよ。みんなが僕を置いていくのは、僕が心配だからだって。でも、杉原さんは僕を叱っても、マンションから出ていかなかったんだ」

「? どういう意味だ?」

 言葉の意味を理解できず、零一は首を捻る。ヒロは、意図が伝わらなかったことを逆に不思議がるように、きょとんと零一を見上げてきた。

「杉原さんは、僕を叱ったあとも、僕を置いていかなかったんだ。それに、たくさんお喋りしてくれたよ。ママだったら、ぜったいに次の日まで帰ってこないのに」

 零一は息を呑み、ヒロは笑った。くりくりとした丸い瞳に、月光の青が淡く光る。

「僕、うれしかったよ」

「……そうか」

 ヒロの〝現実〟に対する疑惑は、ほとんど確信に変わっていた。

 ――『久しぶりに、太陽の光が恋しくなっちゃった』

〝常夜会議〟のあとで、杉原と二人で話したときのことを思い出す。あのときから杉原は、ヒロが抱えた欠落を、誰よりも正確に見抜いていたのかもしれない。

 ――『あの子には、〝常夜〟では見られない景色を見せてあげたい。私たちの世界には、眩しいものも、綺麗なものも、心が震えるものがたくさんあるってことを、教えてあげたい。そのためにも……〝現実〟に帰してあげたいけれど』

 まだ、零一たちには〝道〟が見えない。たとえ見えたとしても、〝現実〟のヒロと知り合いではない零一たちは、同じ〝道〟を歩けない。自力で〝道〟を見つけたあとも、〝現実〟で生き抜く力を得られなければ、杉原がヒロに見せたい景色はきっと、何一つヒロの瞳には映らない。

「零一にいちゃん。僕の新しい服、いいでしょ!」

 ヒロが、両腕をペンギンのように拡げて見せた。青い上着はサイズがかなり大きめで、袖丈を詰めているのだとすぐに分かった。〝常夜〟の古着屋にはヒロの体形に合う冬服がないと聞いていたので、きっと杉原が前々から用意していたに違いない。

「これから行く場所って、歩きにくいんでしょ? ちゃんと袖がある服を着て、肌を守らないとだめだって、杉原さんが言ってたよ」

「……いろいろ教えてもらえて、よかったな。服も、似合ってるぞ」

 髪を一つにくくった頭を撫でてやると、ヒロは嬉しそうにニマニマした。天真爛漫な笑みからは、杉原が別れ際に見せた悲壮さに結びつくような感情は欠片もない。あのときの表情に思いを馳せていると、ヒロを挟んで隣を歩くミキが、小さな笑い声を立てた。

「ヒロ君は、すっかり杉原さんと仲良しになったのねえ」

「うん! 杉原さん、優しくて好き! でも、怒ったらちょっと怖かった」

「よかったじゃない、叱ってくれた相手が杉原さんで。エイジおじちゃんだったら、もっと怖かったわよぉ?」

「ミキ、聞こえてるぞ」

 零一たちの前方から、ぶっきらぼうな声が聞こえてきた。後方の零一たちを先導するように歩くエイジは、榊と肩を並べている。月光が生み出した影が二人分、舗道に長く伸びていた。二人の間には会話がないようで、硬い空気が流れている。息苦しい雰囲気から逃れるように、零一はミキに訊ねた。

「ミキさん。いまさらなんですけど、俺たちの服装は、ミキさんみたいに黒くなくてもいいんですか? その、少しは意識したほうがよかったかなって……」

「別にいいわよ。ヒロ君の言う通り、お墓までは悪路だもの。それに、古着屋でしか衣服を調達できない世界だし、死者をいたむ気持ちがあれば十分よ」

 そう答えて微笑むミキは、手に大きな紙袋を提げていた。カスミソウの白いドライフラワーが、紙袋から慎ましく顔を出している。零一の視線に気づいたミキが、「ああ、これね」と言って紙袋を持ち上げた。

「仏花の代わりよ。噴水跡地で待ち合わせる前に、雑貨屋跡地で頂いてきたの」

「この花……俺、見たことがあります」

 自転車で〝常夜〟を一周したときに、西洋雑貨を押し込んだ小箱のような無人の店を見たはずだ。廃駅に純喫茶跡地『最果さいはてにて』を出現させたエイジのように、誰かが〝常夜〟に与えた影響によって生まれた店に、このくすんだ花はショーウインドウに寄り添うように咲いていた。

「〝常夜〟では、生花も手に入らないからね。お線香と蝋燭は、休憩を予定してる道中の建物に用意があるわ」

「すみません、何から何まで……その花、俺が持ちます」

「そう? じゃあ、お願いするわね」

 零一は、ミキから紙袋を受け取った。とうに命を失って乾いた花を収めた紙袋は、拍子抜けするほど軽かった。モンスターから逃れるためにヒロを背負ったときのことを思い出し、ふと零一は隣を見下ろした。

「ヒロは、俺たちと一緒に行きたいって言ったけど……どうして、手記を盗ってまで行きたかったんだ? 待ってたら、俺たちは帰ってくるのに……」

 質問しながら、逆に考えた。エイジとミキは、なぜヒロを置いていこうとしたのだろう。榊と同様の理由もあるはずだが、最終的には杉原の懇願を受け入れて、ヒロの同行を許している。大人たちの会話を聞かせないことだけが、ヒロをメンバーから外そうとした理由にはならない気がした。ヒロは、ニコニコと機嫌よく答えてくれた。

「おじいちゃんにも、会えるからだよ!」

「おじいちゃん……?」

宇佐美うさみさんのことよ」

 ミキが、くすりと笑った。堂々と歩く姿が普段よりも小さく見えるのは、今日は高いヒールではなくスニーカーを履いている所為だろう。

宇佐美うさみさん、子どもが好きだものね。ヒロ君くらいの年齢のお孫さんが〝現実〟にいるはずよ。今は足が悪いから、ヒロ君のサッカーには付き合えないけど、手遊びを教えてあげたり、絵本を読んであげたり、ヒロ君とよく一緒に過ごしていたのよ」

「そうだよ! おじいちゃん、今度は新しい絵本を読んでくれるって言ってたのに、僕と零一にいちゃんがモンスターから逃げた日から、ぜんぜん会えなくて……」

 図書館付近で遭遇したモンスターに、零一が狙われなかった日のことだ。零一たちの無事を宇佐美うさみも喜んでくれたが、零一もあの日から、宇佐美には会えていない。ヒロはねたように唇をすぼめてから、すぐに明るい笑みを咲かせた。

「でも、お墓参りには来るんでしょ? 零一にいちゃんたちだけ会えるなんてずるい、僕もおじいちゃんに会いたい! ってマンションで話したら、杉原すぎはらさんも『分かった』って言ってくれたもん! 手記だって、一緒に返しに行くから、榊さんたちに謝ろうねって、言ってくれたし……」

 力説するヒロの言葉は、前方を歩くエイジが振り向き、「もうすぐ着くぞ」と告げたことで遮られた。〝常夜〟の外れに向かって歩いた所為か、辺りには〝現実〟との境目だという白い霧が立ち込めてきたが、まだ廃駅沿いのフェンスが遠くまで見渡せるうえに、大通りで見かけるような建物も多い。どのルートで〝神様〟の墓参りに向かうのか、皆目見当がつかなかった。そんな疑問を気取ったのか、エイジが軽く首肯して、街並みの一角へ目を向けた。零一は、視線をたどって瞠目する。

「少し寄り道をしていく。お前さんは、一度訪ねておいても損はないだろう」

「ここは……」

 雑居ビル群がまばらになった空隙くうげきを縫うように、平屋の建物がのきを連ねていた。零一たちが立つ場所から近い順に、花屋跡地、ブティック跡地、洋食屋跡地、そして。

「CDショップ跡地……」

 窓ガラスにさまざまなアーティストのポスターを貼った店へ、エイジが迷いのない足取りで入っていく。自動扉はとうに壊れているようで、ぽっかりと開いた長方形の暗闇を、月影つきかげが青く照らしていた。榊も、もの言いたげな一瞥をミキに寄越してからエイジに続いた。口数の少なさは、ヒロが持ち出した手記の件が関係しているに違いない。明らかに零一のためと思われる寄り道なのに、文句を言わずに従っている。

 ――『一年前の冬に、エリカちゃんが〝常夜〟に流れ着いた瞬間からよ。静かな〝常夜〟に音楽が蘇ったことを、〝常夜〟じゅうの住人たちが悟ったわ。あの頃にはまだアユちゃんとユアちゃんは〝常夜〟に流れ着いていないから、ラジオ局はなかったけれど、代わりにCDショップ跡地から、綺麗な音楽が聴こえてきたから』

〝常夜会議〟でそう言っていた人物を、零一は振り返る。ミキは苦笑の顔で頷くと、「行きましょ」と零一を促した。

「零一君のためだけじゃないから、気にしないでいいわよ。この場所も、〝神様〟のお墓参りと無関係ではないもの。ヒロ君、私たちから離れないでね。このお店もコンビニ跡地と同じで店主はもういないから、あちこちが傷んでいて危ないはずよ」

「はあい」

 元気よく返事をするヒロが、ミキと手を繋いで店内に入った。零一も我に返り、一同を追ってCDショップ跡地に足を踏み入れる。

 窓から月明かりが射す店内は、意外にも埃っぽさを感じなかった。瓦礫や砂利も他の雑居ビルに比べたら少ないので、誰かが掃除をしているのだろうか。

 背の低い棚が整然と並んだ空間を見渡すと、奥でエイジが零一を手招きした。表情が希薄な横顔を、人工的なグリーンの光が照らしている。光源は、壁からせり出した柱に取り付けられた装置のようだ。そばに立つ榊の銀縁ぎんぶち眼鏡のつるにも、同じ輝きが宿っている。数多のCDを収めた棚の迷路を進み、二人のもとに到着した零一は、目を見開く。

「これは……」

 光を発していたのは、CDの試聴機だった。黒い液晶パネルには『DISC7』とグリーンの文字が点灯し、装置の中でCDがくるくると回っている。柱に据え付けられた棚には『DISC1』から『DISC8』までのナンバーが振られたCDが横一列に並んでいて、店員の手書きのポップが曲の魅力を伝えている。

 しかし、八枚のCDのうち、一枚だけ――ポップはおろか、CDのジャケットすら視認できない。ナンバーの隣に書かれていると思しき曲名も読めなかった。

 ――『DISC7 ***』

 店内の風景が白くフラッシュして、記憶の断片が蘇る。鈍い頭痛で揺らぐ視界に、〝現実〟の日々を共に過ごした少女が現れた。アッシュグレーとパープルに染め直したばかりの長い髪を、緩い三つ編みに結っている。スカジャンにチュールスカートを合わせた少女は、試聴機の前に立つ零一に、ヘッドフォンを差し出して笑っていた。

 刹那の幻影に誘われるように、〝常夜〟の零一の手が動く。柱に吊るされたヘッドフォンを外して、震える手で頭に装着した。女性ボーカルの甘い声が、ほんのりとダウナーな夜色に澄んだメロディで走り出す。頭痛が、すうと和らいでいった。


 迷彩にかすむテラス

 空っぽの窓際に飾られた花

 目覚めた君はおぼれてる


 錆びついたナイフと

 ひびを入れた水槽の中で

 踊るのさ

 拙いチークをあかつき


「エリカ……」

 ――あの曲の、二番の冒頭だ。呉飛龍ウーフェイロンの店に飾られていた歌手のサインと、〝現実〟の大学図書館で読んだ植物図鑑の思い出が蘇る。どちらもきっと、大将たいしょうの屋台でエリカと食事をした日の帰り道で、零一が初めて取り戻した記憶と繋がっているのだ。孤独をいとうように寄り集まって咲くピンク色の花の記憶が、一向に全てを思い出さない零一を急き立てる。あの花の名前を、零一は知っているはずだ。

「何か思い出したか?」

 エイジが、隣から訊いてきた。ヘッドフォンを外した零一は、「はい」と答えた。

「このCDショップとは別の店に……俺は、エリカと出かけたことがあります。あいつのデビューシングルが、お店に並んでるところを見に来たんです」

 今にして思えば、〝常夜会議〟でCDショップ跡地が話題になった瞬間から、零一は気づきかけていたのだろう。ヘッドフォンを柱に戻して、掴んだ確信を言葉にした。

「俺が、全ての記憶を取り戻すのは……この曲の名前を、思い出すときです」

 エイジは、零一の言葉に感想を述べなかった。ただ、無言で試聴機を操作して、曲の音量を大きくした。ヘッドフォンから漏れる歌声が、寂れた屋内に滔々とうとうと流れる。夜に馴染なじむ旋律に呼び寄せられるように、いつしかヒロとミキもそばにいた。グリーンの灯りを頬に受けた榊も、音楽に聴き入るように黙してから、囁いた。

「ここが……〝常夜〟に歌が生まれた、始まりの場所なんですね」

「ああ。それに、あの場所に続く通路の一つでもある」

「通路?」

 怪訝そうに訊き返す榊へ、エイジは「ついてきな」と短く言って、店内のレジに向かった。腰袋から小さなバールを取り出したので、零一も榊と顔を見合わせてからついて行く。レジの内側で屈んだエイジは、床板の窪みにバールを当てていた。

「エイジさん? 何を……」

 零一が声をかけた時、ちょうどエイジが床板を一枚剥がしたところだった。

 途端に、床下から青い輝きが溢れ出した。一人くらいなら悠々と通れる四角い抜け穴から零れた光が、壮年の男を照らし出す。目がくらんだ零一は、やがて息を詰めた。

 床の穴から覗く光の海へ、にび色の梯子はしごが延びていた。地下に続く入口を、エイジがバールを持った右手で指し示す。

「ここが、歴代の〝神様〟の墓に繋がる隠し通路の一つだ」

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