3-30 もう一人の同行者

 午前十時が近づく駅前広場に足を踏み入れた零一は、すぐに異常事態を察した。

 円形の噴水跡地の周辺には、すでに三人の大人がつどっていた。さかき、エイジ、ミキだ。榊は未明に会ったときと同じ服装で、エイジも見慣れた厚手のジャンパー姿だ。ズボンにはベルト付きの黒い腰袋を装備していて、スパナや金槌かなづちが覗いている。ミキも普段の華やかな装いとは打って変わって、黒いダウンコートに細身のパンツという機能的なスタイルだ。緩いウェーブの掛かった髪も、すっきりと後ろでまとめている。

 三人の実力者のうち、二人がこの場に揃っている。老翁ろうおう宇佐美うさみの不在が気になったが、現地集合だとミキが昨日の昼に言っていたので、歴代の〝神様〟が眠る場所で、先に待っているのだろう。

 問題は、三人の異様な雰囲気だった。なぜか榊が頭を下げていて、ミキは唇を歪めている。エイジだけは、表情を変えずに静観していた。三者の様子が見て取れるほど近づくと、零一の足音に真っ先に気づいたミキが振り向き、へらりと笑って手を振った。

「零一君、ちゃんと眠れた?」

「は、はい。えっと……何か、あったんですか?」

「説明は、私からさせていただきます」

 榊が、重々しく言った。表情が希薄な美貌には、焦りと悔恨かいこんが透けて見えた。銀縁ぎんぶち眼鏡のブリッジを指で押し上げた榊が「実は」と切り出すと、エイジが口を挟んだ。

「図書館の手記を、紛失したそうだ」

「手記って……えぇっ?」

 零一は、ぎょっとした。手記は、〝常夜〟の住人たちに関する情報が記載された資料だ。普段は図書館で保管されていて、榊だけが持ち出しを許可されている。

 杉原すぎはらとエリカは、この手記に怯えを示していた。〝常夜会議〟のあとで杉原と二人きりで話したときに、投げかけられた言葉を回想する。

 ――『榊さんが〝常夜会議〟で出した手記を、どうして私が拒んだのか、訊かないのね』

 ――『その日のことは、エリカちゃんが自分で話すまで、秘密のまま守ってあげたかった。でも、手記が榊さんの手にある以上、きっと零一君はエリカちゃん本人から聞く前に、手記から真実を知ることになるわ』

 杉原が手記を拒んだのは、エリカのためだ。つまり、榊が手記を紛失したということは、エリカが歌えなくなった理由を知るための手掛かりが、一つ失われたということで――自分にも大いに関係がある話だと分かり、零一は泡を食った。

「そんな……どこで失くしたか、心当たりはありませんか? 俺、一緒に捜します」

「零一君、大丈夫よ。心当たりなら、全員にあるから」

 ミキが呆れた様子で言ったので、零一は「え?」と呟いて呆けた。榊は唇を引き結ぶと、「私の不注意で、申し訳ありません」と謝罪してから、経緯を説明してくれた。

「紛失に気づいたのは、私が暮らしているマンションに、杉原さんを迎え入れたあとよ。私が出かけている間に、ひー君のことを杉原さんにお任せする約束だったから。手記は、昨夜のうちにリュックへ入れておいたの。杉原さんの目に触れるところへ置いておくわけにはいかないし、零一君も読みたいだろうと思ったから。ひー君は、そのときにはもう寝ていたと思っていたけど……」

「それって……もしかして」

 ぴんときた零一の隣で、ミキが溜息をついた。そして「榊さんの家まで、案内してもらうわよ」と、とびきり面倒臭そうに言った。

「今日はお留守番してもらう件について、あの子への説得が甘かったのは、私たちの責任でもあるからね。私にとってはただの紙切れの束でも、人によっては価値がある記録だもの。さっさと取り返しに行くわよ」

「……はい」

 榊が、殊勝に頷いたときだった。「その必要はありません」という言葉が、女性の穏やかな声で響いたのは。廃駅はいえき沿いの夜道を歩いてきた人物を見て、零一は目を見開く。

「杉原さん。……ヒロも」

 杉原とヒロが、手を繋いで立っていた。杉原は真新しいストールを首に巻いていて、ノーカラーコートとロングスカートの裾を〝常夜〟の冷たい風になびかせている。ヒロは、杉原が先日プレゼントしたストールを首にぐるぐると巻いていて、珍しいことに青い上着に袖を通していた。長ズボンも履いているので、初めて見る冬の装いだ。ヒロが嬉しそうに「みんな、おはよう!」と大きな声で挨拶して、剣呑けんのんな雰囲気を容赦なく蹴散らしたので、全員も微苦笑の顔で「おはよう」と口々に返した。杉原と榊だけは、神妙な表情のままだった。榊の視線は、ヒロの片手に注がれている。

 ――黒い紐でじられた冊子が、小さな手に握られていた。禁帯出の赤いシールが、月光で銀色に輝いている。

 ミキが嘆息して「やっぱりね」とうそぶく隣で、榊は「ひー君」と呼んでヒロのもとへ駆け寄った。腰を屈めて「手記を、私に返してくれる?」と頼んだが、ヒロは「やだ!」と即答してかぶりを振った。一つに結った黒髪の毛先が、動作に合わせて揺れ動く。

「僕も行く! 連れていってくれないと、返さない!」

「ひー君……」

「ヒロ」

 エイジが、沈黙を破って歩いてきた。ヒロのそばに立ち、おごそかに言う。

「他人の持ち物を返さないことと、ヒロを墓参りに連れていくことは、全く別の問題だ。手記と引き換えに、ヒロを連れていけるわけじゃない。分かるな?」

「じゃあ、どうしたら僕も連れていってくれるのっ?」

 ヒロは、ぷくりと頬を膨らませた。無邪気な立腹を見せた少年を、ミキがじっと見つめている。次に視線を杉原へ転じると、なぜか観念した様子で笑った。

「杉原さんは、ヒロ君の味方ってわけね。つまりこれが、あなたの考えってこと?」

「はい。ミキさんとエイジさんの判断に従うつもりでしたが、ヒロ君と話すうちに、考えを改めました。私がヒロ君の立場なら、どうしたいか。じっくり考えた結論です」

「杉原さん、どういうことですか?」

 榊が、困惑の目で杉原を見上げた。杉原は寂しそうに微笑むと、ヒロと繋ぎ合った手を離して、小さな両肩に手を添えた。

「榊さん。ヒロ君は、遠足気分で一緒に行きたいわけではありません。私からも、改めて説明しました。ねえ、ヒロ君?」

「うん! 零一にいちゃんたちが行く場所には、この〝常夜〟で生活していた人たちが眠ってるんでしょ?」

「そうよ。その人たちの眠りを妨げないように、安らかに眠り続けられるように、お参りをしようとしているの。……榊さん。ヒロ君は、あなたと同じ新人として、行事に参加したいという熱意があります。私からの条件として、きちんと冬服も着てもらいました。どうか……連れていってあげてください。ヒロ君が、後悔しないように」

「杉原さん……?」

 榊は、声を詰まらせている。零一も、圧倒されていた。杉原の訴えには、聞く者の心を揺さぶる懸命さがあったのだ。ミキはしばらくのあいだ黙ってから、先ほどと同じ観念の笑みを美貌にのせた。

「杉原さん。ヒロ君と話し合ったことは、それで全部?」

「はい。……他には、何も喋っていません。ヒロ君は、何も知りません」

「……。今日あの場所へ行けば、取り返しがつかない思いをするわ。それでも、行かせるべきだと思ったのね。……そうね。何が正解か分からないなら、責任は全員で背負いましょ。エイジさんも、異存はない?」

「ああ。ただし、ヒロ。途中で帰りたくなっても、一人だけでは帰れないぞ。それでも行くんだな?」

「うん、行く!」

 ヒロの表情が、ぱあっと日が差したように明るくなる。「みんな、ありがとう!」と全員に言ったので、ふっと今度こそ場がなごんだ。だが、零一は一緒に喜べなかった。

 杉原とミキは、何の話をしていたのだろう? 真剣に見つめ合う二人からは、六〇二号室で対峙したエリカと榊のような、抜き差しならないものを感じた。榊も戸惑いの顔で二人を見比べていたが、やがて背筋を伸ばしてから、杉原に頭を下げた。

「……杉原さん。ご迷惑をおかけしました」

「いえ……ヒロ君のことを、よろしくお願いいたします」

 杉原も、榊に頭を下げた。ユアとアユよりやや長い黒髪が、主婦の女性の横顔を隠していく。一瞬だけ垣間見えた表情の悲壮さが、なぜか酷く目を引いた。ヒロはおずおずと榊を見上げると、手記を両手で差し出した。

「榊さん、隠してごめんなさい。……怒ってる?」

「……いいえ、怒っていないわ。見つかって、本当によかったわ」

 榊は、複雑な表情で手記を受け取った。エイジが、仕切り直すように言った。

「それじゃあ、行くか」

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