3-29 旅立ちと約束のサンドイッチ
エリカは寝室に引き
エリカは、もう眠っただろうか。朝の時刻を迎えたとき、ちゃんと起きてくれるだろうか。尽きない不安に
そして――現在に至る。ジャージから着替えた零一は、ローテーブルに用意された朝食のサンドイッチを前にして、ソファに並んで座る同居人に訊いてみる。
「エリカも、あれから寝直したのか?」
「うん。いつもより寝坊しちゃったけどね。それがどうしたの?」
「……いや、いい」
エリカが、目を覚ましてくれた。たったそれだけのことに、心から安堵したと打ち明けたら、エリカはどんな顔をするだろう。そんな勇気はないので、零一は大皿に行儀よく並んだ三角形のサンドイッチを一つ手に取り、目を見開く。
「これ……」
月光を浴びたサンドイッチの具は、細かく裂いた鶏ささみと、みじん切りの玉ねぎだった。鶏ささみはカレー粉とマヨネーズで和えたのか、濃い黄色に染まっている。飴色に炒められた玉ねぎが、スパイシーな香りに甘い柔らかさを添えていた。
ひと口齧ると、食パンに塗られた粒マスタードが、ぴりりと〝現実〟の記憶を刺激した。ゆっくりと食べてから二つ目に手を伸ばした零一を、エリカも隣で食事を取りながら気にしている。時間の流れが、ひどくスローになった気がした。
「……ごちそうさま。美味かった」
「うん……」
空になった皿をエリカが下げている間に、零一は洗面所で身支度を整えた。コートを着込んで玄関へ向かうと、エリカが零一を呼び止めた。
「零一。これを持っていって」
そう言って差し出されたのは、青いギンガムチェックの包みだった。瞠目する零一を見上げたエリカは、快活な笑みで、あるいは快活なふりをした笑みで応じた。
「ミキさんからお弁当持参って言われてたのに、忘れてたでしょ? 朝ごはんのサンドイッチと同じだけど、我慢してね」
「……ありがとうな。エリカ」
いつかのように気味悪がられるかと思ったが、エリカは零一を茶化さなかった。玄関の〝星〟はとうに輝きを失っていて、
「……エリカ。このサンドイッチ……〝現実〟でも、俺に作ってくれたよな。俺が家族と花見に行ったことがないって言ったら、春になったら桜を見に行こうって話しながら、アパートで作ってくれたよな」
月光を背にして立つエリカは、静かに話を聞いている。本心では、零一に出かけてほしくないのだろう。それなら、零一はここにいればいい。〝常夜〟の六〇二号室で、二人で暮らしていけばいい。魔が差したように、そう思った。
だが、それでは駄目だということを、幾度となく固めた決意が知らせていた。
零一が、ただエリカのそばにいるだけでは――きっと、エリカは歌を取り戻せない。
「色違いの隕石捜しを始めたときに、エリカは俺に言ったよな。〝現実〟の俺のことを知りたいって。……それなら俺は、〝常夜〟のエリカのことを知りたいんだ」
なぜエリカが〝現実〟の話を拒むのか、理由を知らないまま引き下がるわけにはいかないのだ。この程度で諦めるくらいなら、おそらく零一は〝常夜〟に流れ着くほどに、己を追い込みはしなかった。そんな実感だけは、この身体に戻っている。
「〝神様〟の墓参りで、何を得られるのか分からないけど……行ってくる。俺の記憶のことも含めて、なんでもいいから手掛かりを掴みたいんだ」
「うん。止めないよ」
エリカは、笑ったようだ。柔らかい憂いが、六〇二号室の青い影に溶けている。エリカは零一を見上げると、不意に改まった口調で言った。
「零一。
「……榊さんに気をつけろ、じゃないんだな」
エリカと榊は、以前に六〇二号室で敵対している。この玄関は、二人の対立が決定的になった場所だ。エリカは、また笑ったようだ。今度は照れ臭そうな笑い方だった。
「こないだは、あたしも頭に血が上っちゃったけど、あれから時間がたったし、零一から〝常夜会議〟中の榊さんの様子を聞くうちに、少し反省したんだ。榊さんが下の名前を伏せたことに、何か意味があるんじゃないかって、勘繰ったこと」
――『〝道〟は見えたか?』と前置きしたエイジの声が、頭の奥で木霊する。フルネームを訊ねたエイジに、榊は答えられなかった。
「エリカには、心当たりがあるのか? 榊さんが、どうして名乗らなかったのか」
「本当のことは、分からないけど……榊さんが下の名前を思い出してるのは、間違いないと思うんだ。記憶を取り戻した榊さんの焦りに、嘘はないと思うから。それでも、エイジさんの質問に、とっさに答えられなかったのは……〝現実〟のつらい経験に、名前が関係してるからじゃないかな」
「……エイジさんも、そう言ってた」
榊のような才女が、なぜ〝常夜〟に流れ着いたのか。また、〝現実〟の記憶を全て取り戻しているにもかかわらず、なぜ〝道〟が見えないのか。零一が漠然と想像を巡らせていた答えに、エリカも目を向けていたのだ。
「以前の榊さんと、今の榊さんは、別人みたいって最初は思ったけど……今は、同じ人だってちゃんと分かるよ。あたしと口論してるときの榊さんも、零一が見守ってくれた〝常夜会議〟の榊さんも、つらさを隠してる感じがしたから。本当は、誰かを攻撃したいわけじゃないと思うんだ。ただ、強い自分で他人と接していないと、自分を守れないくらいに重い何かが、名前に結びついているだけで……そこには、他の住人たちが傷つくような打算とか、誰かが不利益を被るような思惑とか、そんなものは一つもないんじゃないかなって思えたんだ。それに、少しギスギスしちゃったけど、あたしは榊さんのこと、今も好きだしね。ちゃんと和解できると思ってるよ」
青い憂いが、薄らいでいく。他人を信じようとするエリカの笑みは無防備で、つい苦言を呈したくなる危うさを孕んでいたが、今だけは気にしないことにした。気持ちの一部分だけでも確かめ合えたことが、小さな自信に繋がった。
「分かった。榊さんのことは、俺に任せろ」
「……なんか、やだな。零一が、遠くに行っちゃうみたいで。急に頼もしくならないでよ」
「別に、俺は……」
零一は、自分が変わったとは思わなかった。記憶を取り戻すことで〝現実〟の零一に追いつこうと、無様に足掻いているだけだ。根暗で内向的な零一を、眩暈がするほど色鮮やかな世界へ放り込んだのはエリカだ。とはいえ、エリカの〝現実〟を見つめる決心をしたのは〝常夜〟に流れ着いた零一なので、少しは成長を認めてもいいのだろうか。スニーカーを履いて、サンドイッチの包みを入れたリュックを背負った。
「じゃあ、出かけるけど……帰ってきたときには、俺は……」
自然と口を衝いて出たのは、一年前の冬から定められていた台詞だった。
「もう二度と、エリカを一人にしない」
この台詞こそが、〝現実〟の零一がエリカに伝えたかった言葉なのだと、記憶が欠けているのに理解した。〝現実〟では結局、伝えられなかったということも。
エリカが、小さく身じろぎした。感傷に絡め取られる前に、零一は玄関扉に手を掛けた。「ちゃんと施錠しろよ」とだけ言い残して、六〇二号室をあとにする。
非常灯のグリーンに照らされたマンションの廊下を歩きながら、必ずここへ帰ってくると、新たな決意を胸に刻んだ。
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