3-28 誰かの痛み

 ソファで目を覚ましたとき、卓上時計はちょうど九時を指していた。

「……零一……零一」

 意識の上澄みを揺蕩たゆたう呼び声が、重いまぶたを開かせた。けた視界は時間をかけてクリアになり、窓からの月明かりで青白く光る天井と、零一を覗き込むエリカの顔が見えてくる。声をつかえさせた零一を、エリカは面白がるように笑っていた。

「おはよう。びっくりした? あたしの寝顔を覗きに来た仕返しだぞっ」

「あ……ああ、おはよう……」

 決まりの悪さから余所見をしかけたが、思い直してエリカを見つめた。冗談めかして軽く流したり、楽なほうへ逃げたりしていたら、昨日の出来事を二人で夢にしてしまう気がした。そんな行為に、零一は手を貸したくない。

 至近距離で見つめ合うと、エリカが先に目を逸らした。白いロングブラウスは着替えていて、ウサギの長い耳が生えた黒いパーカーワンピースにニーハイソックスを合わせている。零一が〝常夜〟に来たばかりの頃に、エリカが着ていた服だ。記憶の大半を手放した状態で、エリカの家に迎えられた頃から、零一たちは遠いところに来てしまった。こんなふうに他人行儀に見つめ合った時間のことも、のちに懐かしく思い返す日が来るかもしれない。

 少なくとも零一は、そんな未来を疑っていなかった。これから出かける場所が、零一に新しい記憶を授けてくれると信じているからだ。

「エリカ。……起こしてくれたんだな。寝坊しても起こさないって、言ってたのに」

「ん……夜中に心配かけちゃったみたいだし。モンスターの件で、あたしの代わりに出かけてくれたからね」

 エリカは、零一に背中を向けた。のそりと揺れるフードのウサ耳を見上げながら、零一はソファから身体を起こして、数時間前の出来事を反芻した。

 ――エリカが未明に目を覚まして、ラジオが音楽を流し終えたとき。アユの手短なアナウンスが、零一たちに事態の収束を教えてくれた。

 モンスターの発生現場は、駅前広場から真っ直ぐに延びる大通りで、ラジオ局のそばだった。まさに昨日、零一を含めた〝常夜〟の住人たちが、思い思いの時間を過ごした場所だ。モンスターに狙われた住人の無事も、アユは報告してくれた。

 だが、住人の誰が狙われたのか、ラジオでは名前を伏せていた。嫌な予感が大きくなり、零一はコートに袖を通して玄関に向かった。

『様子を見てくる。アユたちは、まだラジオ局の前にいるはずだ』

『気になるなら、あたしが行くよ。零一は寝てなよ。今日は……ミキさんたちと、出かけるんでしょ? 寝不足で出かけたら、危ないよ』

『いや……俺が行く』

 懊悩おうのうが声に滲まないように、はっきりと答えた。歌をラジオに託しているエリカを、モンスターの襲撃現場には行かせたくなかった。

 それに、零一が確かめるべきこともある。靴箱でピンク色に輝く〝星〟の隣でスニーカーを突っ掛けると、エリカが不安そうに『でも』と囁いた。群青色の闇の中、柔らかい薄桃色の光で編まれたシェルターで、零一はエリカを振り返る。白いロングブラウスにモッズコートを羽織った同居人に、『すぐに帰るから』と言って、黙り、躊躇い、迷って――初めて名前を呼んだときと同じくらいの勇気を出して、素直な願いを口にした。

『俺が帰るまで……起きててほしい』

 ――マンションを出た零一は、急いでラジオ局まで走った。自転車に乗って行こうとしたが、その段になって初めて図書館前でタイヤがパンクしたことを思い出して、悲しみに似たやるせなさが込み上げた。不便を感じるまで忘れるほどに、さまざまな出来事があったのだ。そんな経験を分かち合った住人の誰かが、モンスターに襲われた。

 白い吐息を夜風に流して駆けつけると、廃ビルの前に数人の住人たちが集まっていた。介抱されている人物は、ほんの二週間前の再現のように、あのときと同じだった。どこかで予感していた零一は、乾いた声で呼んだ。

大将たいしょう……』

 キルティングジャケットとズボン姿の大将は、廃ビルの空き店舗の壁に上体を預けて座っていた。零一に気づくと『ああ』と小さく呻いて、弱々しく笑いかけてくる。

『零一君、だね……』

『俺のことが、分かるんですね。……よかった』

 ほっとした零一が駆け寄ると、大将に寄り添っていたアユも、零一を見上げて薄く笑った。厚手のパジャマにカーディガンを引っ掛けただけという、緊急事態を受けて飛び出してきたのが一目で判る格好で、大将の頬についた砂塵をハンカチで拭っている。

『大将さんは、無事ですよ。ユアが夜更かしして本を読んでいたおかげで、ラジオ局前に出たモンスターに、いち早く気づいてくれました』

『そうか……ユアに、礼を言っておいてくれ。大将は、その……』

『大丈夫だよ、零一君。君が今日、ユアちゃんと食事に来た時間帯のことは、ちゃんと覚えているから……』

 大将が答えると、人影がこちらへ近づいてきた。襟ぐりがやたらと色っぽく開いたネグリジェに、黒いファーつきのコートに袖を通した美女だ。零一は目のやり場に困りながら、〝常夜〟の実力者の名を呼んだ。

『ミキさん』

『おはよう、零一君。まさか待ち合わせより六時間も前に、また顔を合わせるとは思わなかったわねー』

 ミキは大将のそばで屈み込むと、『調子はどう?』と気遣った。大将は力なく頷くと、悲しそうに頭を下げた。

『本当に、私が弱いばかりに……たびたびご迷惑をおかけして、申し訳ございません』

『謝っちゃだめよ。お礼なら受けつけるけどね。あなたみたいに謝る人をゼロにしないと、杉原すぎはらさんだって過去のことをいつまでも気に病んじゃうんだから。ね? 困ったときは、お互いさま。忘れたら、何回でも言ってあげるから。私がこんなに大サービスしてあげてるんだから、さっさと元気になりなさいよ』

 二人のやり取りを、零一は一歩離れたところで聞いていた。杉原の名が挙がったことで、予感が確信に切り替わる。そんな思考を見透かしたかのように、急に隣から聞こえたアルトの声が、淡々と夜闇に言葉を刻みつけた。

『――やはり、彼は〝常夜〟で何度もモンスターに襲われている住人の一人ですね。昨日の〝常夜会議〟で杉原さんが仰ったように、モンスターに繰り返し狙われる住人と、そうでない住人がいるということでしょうか』

 背筋に、氷を流し込まれた気分になった。弾かれたように振り向くと、もう一人の美女は、銀縁ぎんぶち眼鏡のレンズ越しに零一を見つめて、整った笑みを返してくる。

 ――さかきだ。他の住人たちと違って寝間着ではなく普段着で、ゆったりとしたタートルネックにスキニーパンツを合わせている。白いトレンチコートをきっちりと着込んだ榊は、着の身着のまま外に出てきた住人たちを見回して、芝居がかった笑みを挨拶代わりに振りまいた。喧嘩を売られたと判断したのか、ミキが腕組みをして榊を睨んだ。榊はまるで意に介さず、悠々と独白を続けている。

『時刻が時刻とはいえ、集まった住人の数が少ないですね。高齢の宇佐美うさみさんはともかく、エイジさんは現場にいらっしゃると思っていましたから、駆けつけた実力者がミキさんだけとは意外でした。昼夜を問わずモンスターにつけ狙われる住人への対応に当たることに、そろそろお疲れになったということでしょうか?』

『ふうん。私も真っ当な人間とは言い難いけど、あんたもなかなかね。そんな嫌味を言うために、わざわざ身なりを整えてお出ましになったわけ?』

『ミキさん、いいんです。私が悪いのは事実ですから……』

 大将が、ふらふらと立ち上がった。よたつく長身痩躯をアユがすかさず支えていて、零一も慌てて手助けに入る。長めの前髪が、衰弱した男の耳元で繊細に揺れた。ミキがこちらの様子を一瞥してから、榊に厳しい目を向けた。

『モンスター騒動なら、とっくに決着がついたわよ。アユちゃんのラジオでも言ってたでしょう? 重役出勤なんて誰も頼んでいないから、ヒロ君のもとに帰りなさいよ』

『ええ、すぐに帰ります。大将さんへの質問と、ミキさんへの確認を済ませたら』

『質問と、確認……?』

 復唱した零一は、胸騒ぎを覚えた。榊は零一たちに一歩近づくと、大将にぴたりと視線を定めて、にっこりと友好的に微笑んだ。

『大将さん。私が〝現実〟の記憶を取り戻してからお会いするのは初めてですね。いつも美味しいお料理をありがとうございます。さて、あなたが先ほど零一君にお話していたことについて、質問させていただきます。今回モンスターに襲われたあなたは、記憶をさほど喰われなかったようですが、全く喰われなかったわけでもなさそうですね?』

『ちょっと、何してんのよ? モンスターから逃げ切って疲労困憊こんぱいの人間を、休ませたいとは思わないわけ?』

『思いますよ。私にも人の心はありますから。ですが、事実を解明するためには、これも必要な作業です。ミキさんだって、知りたいとは思いませんか? さあ、大将さん。答えていただけますか?』

『……少しだけ、記憶を持っていかれたと思うよ』

 零一とアユに支えられた大将が、存外にはっきりとした声で言った。

『喰われた記憶は、たぶん三十分くらいじゃないかな。少し散歩をしようと思って、家を出たことは覚えているけど……気がついたときには、エリカちゃんの音楽が聴こえていて……ミキさんに助け起こされていたから』

『なぜ、こんな時間に散歩を? 太陽が昇らない〝常夜〟では、時間の感覚が希薄になるのは分かりますが、住人の多くは〝現実〟にのっとった生活を送っています。屋台だって、深夜には営業していませんよね』

 榊が、不審そうに柳眉をひそめた。大将はしばらく言い淀んでから、更けゆく夜のように静かな声音で、『眠りたくない気分だったんだ』と吐露した。

『最近は、少しだけ〝現実〟のことを思い出し始めていたから……自分のことを考える時間が増えていて、どうしても焦ってしまったんです。〝現実〟の妻子のもとへ、早く帰らなくてはならないのに、私は何をしているのだろう……と』

 結婚指輪のネックレスを、骨ばった手が握りしめた。榊は、不意打ちの顔で黙ってから、気まずそうに目を逸らした。零一も、見ていられなくて俯いた。大将を支えていないほうの握り拳に力がこもり、爪が手のひらに刺さる。――やはり、だった。

『分かりました。大将さん、ありがとうございます。では、ミキさんに確認です』

 榊は、ミキに向き直った。先ほどの葛藤は、顔から拭い去られていた。榊は何度こんなふうに、本心を隠してきたのだろう。六〇二号室で初めて対面したときと同じだった。あのときも榊は、痛みを堪えるような顔をしていた。

『〝神様〟のお墓参りの件ですが、まさか延期なんてしませんよね?』

『……榊さん?』

 零一が呆けた声を上げたのは、人命救助の興奮冷めやらぬ状況で、今日の予定にまで頭が回らなかった所為だろうか。あるいは、自然と延期を視野に入れていたからだろうか。榊は美貌に笑みをのせて、淡々と優雅に畳みかけた。

『延期なんて、しませんよね? たったこれしきのことで、私たち〝常夜〟の新人にとって大事な行事を、先延ばしにしようなんて思いませんよね?』

『でも、榊さん……〝神様〟のお墓までは少し距離があるそうですし、寝不足で向かったら危ないんじゃ……』

 ついエリカの台詞をなぞった零一の主張を、榊は『冗談でしょう?』と切って捨てた。月光に照らされた笑みが陰り、冷え切った輝きが瞳に過る。

『〝常夜〟から〝現実〟に帰るための〝道〟に、住人を襲うモンスターの謎、それに〝神様システム〟の全貌について知るためには、〝神様〟のお墓参りに行く必要があります。零一君、エリカちゃんが忌避している墓参りに行けば、あなたが思い出したがっている〝現実〟の記憶の続きだって、手に入るかもしれないのよ?』

『それは……思い出したいです。でも、そんな言い方は』

 エリカの名前を、こんな形で出してほしくなかった。零一は抗議しかけたが、榊は取り合わなかった。『出発は十時ですから、ただちに帰宅して寝直せば、悪路でも危険はないと思います』と涼しく言って、ミキだけを瞳に映している。ミキの眼差しは険しかったが、小さく嘆息すると、意外な返事を榊に寄越した。

『本来であれば、間違いなく延期していたわよ。急ぐ理由はないからね。だけど、今回は例外よ。〝神様〟の墓参りは、予定通り行うわ。遅刻するんじゃないわよ』

『聞き入れてくださり、ありがとうございます』

 榊が微笑んで一揖いちゆうすると、ミキは背中を向けて歩き出した。フラットシューズの靴音が、日中の時刻よりも冴え渡った月夜のしじまに響く。

『あんたの要望を聞き入れたわけじゃないわ。こっちにも事情があるだけよ』

『……。事情とは? 教えていただけますか?』

『教えなーい。じゃ、私は先に帰らせてもらうわ。アユちゃん、悪いけど頼んだわよ』

『了解ですー。大将さん、今日はラジオ局の仮眠室に泊まってくださいね』

『ああ、すまないね……零一君も、迷惑をかけたね』

『いえ……』

 首を横に振った零一は、アユと協力して大将をラジオ局に連れていった。モンスターから逃げる際に負ったという擦り傷の手当てはアユに任せて、零一は家路をたどった。眠りたくない気分だったという男の台詞が、脳内でリフレインした。重いシンパシーを引き摺って六〇二号室に到着すると、エリカは玄関で出迎えてくれた。『おかえり』と言って愁眉しゅうびを開く姿を見ていると、自然と零一は告解こっかいした。

『俺……〝現実〟の記憶を取り戻し始めたことを、大将に話したんだ。昨日の〝常夜会議〟のあとで、ユアを追いかけて屋台に行ったときに』

『うん』

 エリカは、小さく頷いた。零一が何を確かめてきたのか、薄々と勘付いていたのだろう。靴箱に飾った〝星〟のピンク色は、先ほどよりも光が弱くなっていた。じきに光を失うのだ。次の〝星〟は昨夜の十時四十七分に降ってきて、今も〝常夜〟のどこかで淡い輝きを放ちながら、誰かに見つけられるのを待っている。

『大将は、〝現実〟の記憶を少し思い出して、焦ってたって言ったんだ。俺とエリカが、食事に行ったときみたいに。俺が余計なことを言わなかったら、大将はこんな時間に出歩かなかったかもしれない。あの人がモンスターに狙われたのは、俺の所為だ』

『違うよ』

 落ち着いたトーンの声が、〝常夜〟のモンスターのような思考の淀みを一掃した。頬を〝星〟のピンク色に照らされたエリカは、零一を見上げて微笑んだ。

『大将は、零一と出会う前からモンスターに襲われてきたよ。それに、大将の焦りに零一が関わっていたとしても、その焦りと向き合うのは、零一じゃなくて大将だよ。君は、自分の痛みと他人の痛みを、もっと区別したほうがいいんじゃない?』

『……やっぱりエリカも、分かってたんだな。俺が出かける前から、モンスターに狙われたのは大将だって』

 なんとなく予想を口にすると、エリカは寂しそうに笑って『まあね』と言った。

『昨日のお昼に、零一を迎えに行ったときに、屋台の提灯が光ってたでしょ? 住人のみんなは気づかないふりをしたり、演技で話題を振ったりしてるけど、あれが点いてるときは、大将に〝現実〟の記憶が戻り始めてるときが多いんだ。そういうときは、モンスターに狙われやすいみたい。だから……今回もそろそろかもしれないって、みんな気にかけてたんじゃないかな。ミキさんと杉原さんも、大将の様子を見に行ってたし』

『……そうか』

 初めて屋台を見たときから、そんな気はしていた。それに、昨日の昼にミキと杉原が屋台で食事を取ったのは、泣き出したユアを気遣うためだけではなかったのだ。

 屋台の赤い提灯ちょうちんは、今頃は光を失っているのだろうか。あるいは、さほど記憶を喰われなかったので、現在も煌々と輝いているのだろうか。考え込んでいると、急に眠気が襲ってきた。欠伸あくびを噛み殺す零一に気づいたエリカが、明るく笑った。

『おつかれさま。寝直したほうがいいよ』

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