3-26 エリカの気持ち
昼間でも真っ暗な夜道を、一人で歩く。廃ビルが林立する〝常夜〟の街は、相変わらずの静けさだ。ユアに付き合って
「零一!」
「エリカ……」
自然と、両腕が持ち上がった。水色の空の下、オーディションの合否が判明した秋の日に、胸に飛び込んできた少女を抱き留めた記憶が、零一にそうさせていた。二人の距離が縮まるにつれて、エリカの表情が見えてくる。
満天の星空のように
無言で向き合い、見つめ合う。適切な表情の作り方に難儀している零一と違って、エリカは切り替えが早かった。気を取り直した様子で笑みを作り、明るい声で言う。
「零一がこっちにいるって、
「……そうか。待たせて悪かったな」
「ううん。〝常夜会議〟は、どうだった?」
「どうって……その」
〝常夜会議〟で聞いた話は、エリカに報告できないものばかりだ。だが、せっかくエリカから話題を振ってくれた機会を逃せば、今日の出来事を二度と話し合えないような切迫感が胸に
「〝常夜〟で暮らしに困ってることはないか話し合ったり、モンスターに狙われない住人の条件について考えたり、あとは新人の俺たちにも〝神様システム〟のことを教えてもらったり……疲れたけど、行ってよかったと思ってる。あと、
「……そっか。お疲れさま。あたしの分まで、頑張ってくれたんだね」
エリカは、淡く笑った。零一を〝常夜会議〟に送り出したときとよく似た笑みが、身体の芯で
「ねえ、零一」
押し黙った零一の腕に、不意にエリカが腕を絡めてきた。図らずも〝現実〟の週刊誌と同じポーズを取る形になり、零一は突然の事態に狼狽えた。エリカは、これくらい何でもないと言わんばかりに、堂々とした足取りで歩き出す。――〝現実〟で過ごしていたときと、同じように。
「あたし、待ちくたびれたんだからね。早くお昼ごはんを食べに行こう? もう零一の分も用意を始めてもらったから、着く頃には激辛麻婆豆腐丼が出来上がるよ?」
「激辛って……また『
エリカが「しっ」と短く言って、零一の唇に人差し指を押し当てた。動揺する零一の腕をぐいと引いて、エリカは屋台から素早く距離を取る。
「何なんだ……?」
「もっと小さい声で。零一、
「エリカまで……杉原さんと同じようなことを言うんだな」
「あ、杉原さんから本名を教えてもらったの?」
エリカは小声で話しながら、屋台からどんどん離れていく。零一と腕を組んだのは、もしかしたらこのためだろうか。肩を落とす零一をよそに、エリカは「これだけ離れたら、もういいかな」と独り
「
「そうだったのか……」
零一は、さほど驚かなかった。〝常夜会議〟中にもミキが、
「でも、大将が少し不憫じゃないか? あんなに良い人なのに……」
「あたしもそう思うけど、こういう判断は人それぞれだもんね。大将はあたしよりも〝常夜〟滞在歴は長いけど、せっかく〝現実〟のことを思い出しかけても、モンスターに襲われるたびに、記憶を失くしちゃってるから……」
「……」
モンスターに襲われる、たびに――杉原が言った、『あの人も、私と同じだから』という台詞が、胸の中で重みを増した。哀愁が漂う空気を振り切るように、エリカが零一の前に回り込んだ。両手を腰に当てて、じっとりと顔を見上げてくる。
「零一。杉原さんからユアちゃんが落ち込んでるって聞いたんだけど、詳しい話は零一から聞こうと思って、飛び出してきちゃったんだ。何があったの?」
「ああ、それは……おい、なんで俺を責めるような目で見てくるんだ?」
「だって、零一が追いかけたら泣いちゃったって、近くでこっそり様子を見てたミキさんも言ってたけど?」
「あの人か、話をややこしくしたのは……」
頭痛の種を増やされた零一は、頭を抱えた。言いふらされるユアには悪いが、エリカに隠すことでもないだろう。〝常夜会議〟が終わる間際の事件について掻い摘んで説明すると、エリカは「そっか……アユちゃん」と呟いて眉を下げた。
「俺は、アユとも話してみたけど……今回みたいなやり方じゃ、ユアを鍛えるのは無理だろうな。逆効果だってことくらい、あいつも分かったうえだと思うけど」
「あたしも、個人的には賛成できないかな。人には人のペースがあるから。でも、零一の言う通り、普段のアユちゃんらしくないよね。何か考えがあってのことかもね」
既視感が、意識を包み込む。昨日『
――『大将も、自分の名前だけでも思い出せたらいいのかもしれないけど……人には人のペースがあるからね』
そんなエリカのペースを、尊重してくれたのは――そのとき、駅前広場から女性の声が聞こえてきて、零一の意識を引き戻した。
「零一君、エリカちゃん」
はっと振り向くと、さっき別れたばかりの杉原が、こちらに向かって歩いてきた。隣にはミキもいて、黒いコートを縁取るファーを風にふわふわと揺らしている。表情を輝かせたエリカが「杉原さん、ミキさん」と呼んで手を振った。ミキも手を振り返してから、零一に悪びれることなく、チェシャ猫のような笑みを向けてきた。
「零一君、ユアちゃんはまだ屋台にいるんでしょ? ちゃんと話せた?」
「はい……まあ。なんか俺に怒ってましたけど、もう大丈夫だと思います」
「了解。じゃあ杉原さん、私たちも屋台に行くわよ。お腹空いたわねー」
「えっ、ユアと同席するんですか?」
「何よぉ、悪い?」
「悪くないですけど……」
ただでさえカウンター席の隅に座っていたユアが、ミキの登場でさらに縮こまる未来が見えた。杉原にも同じ光景が目に浮かんだのか、控えめな笑い声を立てている。
「私から提案したの。ユアちゃんが落ち着いたなら、
「杉原さんがそう言うなら、安心です」
「あー、エリカちゃん聞いたぁ? 何よぉ零一君、私ってそんなに信用ないわけぇ? ……ああ、そうだ。明日の墓参り、待ち合わせ場所と時間が決まったわよ」
どきりとした。隣のエリカを見下ろしかけた動きを止めて、「はい」と冷静に返事をする。ミキは、普段通りの口調で続けた。
「午前十時に、噴水跡地に集合ね。メンバーは、実力者の私とエイジさん、新人の榊さんと零一君の四名よ。お弁当持参で、動きやすい服装でよろしく。靴は、そのスニーカーで大丈夫。少し歩くけど、道中には休憩できる建物があるからね」
「本当に、遠いんですね。……ヒロは、連れていかないんですか?」
「そうねえ。エイジさんとも相談したけど、すぐに答えは出せなかったわ。私は連れていってもいいけど、それが本当に正しいかどうかなんて、分からないからねえ」
「……? あの、
「現地集合よ。心配しないで。明日には会えるんだから」
からっと晴れた空のようにミキが笑うと、杉原もぎこちなく微笑んで「明日は榊さんの代わりに、私がヒロ君を預かることになったわ」と言った。
「ヒロ君は、零一君たちと一緒に行きたがってるけど……お留守番をしている間に、私はヒロ君と話してみるわ。あの子が思い出せた〝現実〟について」
「……分かりました」
頷いた零一は、ようやく隣を見下ろした。エリカは、唇をきゅっと結んでいる。杉原に言われた台詞が、まだ零一の耳に残っていた。
――『エリカちゃんのペースを尊重したかったけど、お墓参りまでの時間を稼ぐだけで、私には精一杯だった……』
「じゃあねー、エリカちゃん。零一君は、また明日」
陽気に言い残したミキは、高いヒールの靴音をコツコツ鳴らして去っていく。墓参りを避けて通れない以上、エリカが気に病むと知っていても、あえて包み隠さず話したに違いない女性のあとを、杉原も零一たちに会釈してから追いかけた。
エリカが、零一を見上げてきた。憂いは消えて、いつもの笑顔に戻っている。
「あたしたちも、行こっか。激辛麻婆豆腐丼が冷めちゃう!」
「……ああ」
ミキたちと反対方向へ歩き始めた零一は、一度だけ大通りの果てを振り返る。
軽トラックの屋台に煌々と灯る、赤い
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