3-26 エリカの気持ち

 昼間でも真っ暗な夜道を、一人で歩く。廃ビルが林立する〝常夜〟の街は、相変わらずの静けさだ。ユアに付き合って青椒肉絲チンジャオロースーをつまんだとはいえ、当然ながら食べ足りない。エリカも飛龍フェイロンとゴマ団子や杏仁豆腐を食べているはずだが、これ以上待たせるわけにはいかなかった。心持ち早足で、まずは駅前広場を目指したときだった。

「零一!」

 静謐せいひつな世界に、透き通った声がエコーする。凛とした響きが夜の街を駆けるだけで、色彩に乏しい〝常夜〟に〝現実〟の鮮やかさが蘇ったように錯覚した。モッズコートにボトムス姿の同居人が、アッシュグレーのポニーテールを月光で銀色に輝かせて、こちらに向かって走ってくる。零一は、瞠目した。

「エリカ……」

 自然と、両腕が持ち上がった。水色の空の下、オーディションの合否が判明した秋の日に、胸に飛び込んできた少女を抱き留めた記憶が、零一にそうさせていた。二人の距離が縮まるにつれて、エリカの表情が見えてくる。

 満天の星空のようにまばゆい笑みは、やがて叢雲むらくもに隠されたかのように切なく陰った。きっと合わせ鏡のように、零一も同じ顔をしているはずだ。歩調を緩めたエリカが目の前に辿り着く頃には、零一も両手を下ろしていた。

 無言で向き合い、見つめ合う。適切な表情の作り方に難儀している零一と違って、エリカは切り替えが早かった。気を取り直した様子で笑みを作り、明るい声で言う。

「零一がこっちにいるって、杉原すぎはらさんが教えてくれたんだ」

「……そうか。待たせて悪かったな」

「ううん。〝常夜会議〟は、どうだった?」

「どうって……その」

〝常夜会議〟で聞いた話は、エリカに報告できないものばかりだ。だが、せっかくエリカから話題を振ってくれた機会を逃せば、今日の出来事を二度と話し合えないような切迫感が胸にきざした。杉原から別れ際に言われた台詞せりふが、結構効いているのかもしれない。零一は、色を正してエリカに言った。

「〝常夜〟で暮らしに困ってることはないか話し合ったり、モンスターに狙われない住人の条件について考えたり、あとは新人の俺たちにも〝神様システム〟のことを教えてもらったり……疲れたけど、行ってよかったと思ってる。あと、さかきさんが提案した多数決は、結局なしになったからな」

「……そっか。お疲れさま。あたしの分まで、頑張ってくれたんだね」

 エリカは、淡く笑った。零一を〝常夜会議〟に送り出したときとよく似た笑みが、身体の芯でこごっていた疲れを溶かしていく。笑みが憂いを帯びているのは、〝神様システム〟から墓参りを連想したからだろうか。

「ねえ、零一」

 押し黙った零一の腕に、不意にエリカが腕を絡めてきた。図らずも〝現実〟の週刊誌と同じポーズを取る形になり、零一は突然の事態に狼狽えた。エリカは、これくらい何でもないと言わんばかりに、堂々とした足取りで歩き出す。――〝現実〟で過ごしていたときと、同じように。

「あたし、待ちくたびれたんだからね。早くお昼ごはんを食べに行こう? もう零一の分も用意を始めてもらったから、着く頃には激辛麻婆豆腐丼が出来上がるよ?」

「激辛って……また『雹華ヒョウカ』で昼食か?」

 エリカが「しっ」と短く言って、零一の唇に人差し指を押し当てた。動揺する零一の腕をぐいと引いて、エリカは屋台から素早く距離を取る。

「何なんだ……?」

「もっと小さい声で。零一、飛龍フェイロンさんの存在は、まだ大将には内緒にしておいてね。とっくにバレてるかもしれないけど、一応ね」

「エリカまで……杉原さんと同じようなことを言うんだな」

「あ、杉原さんから本名を教えてもらったの?」

 エリカは小声で話しながら、屋台からどんどん離れていく。零一と腕を組んだのは、もしかしたらこのためだろうか。肩を落とす零一をよそに、エリカは「これだけ離れたら、もういいかな」と独りちて、零一から腕を離した。温もりが遠ざかる感覚が、なんだかやけに心細い。エリカも束の間黙ってから、顔を上げて話し始めた。

飛龍フェイロンさんは、記憶をある程度取り戻した住人か、自分が信頼できる住人しか、お店に入らせないって決めてるの。申し訳ないけど、まだ大将に会うつもりはないみたい」

「そうだったのか……」

 零一は、さほど驚かなかった。〝常夜会議〟中にもミキが、さかき飛龍フェイロンの存在を伏せた場面があったので、寡黙かもく飛龍フェイロンらしい判断だと、納得の余地があったのだ。

「でも、大将が少し不憫じゃないか? あんなに良い人なのに……」

「あたしもそう思うけど、こういう判断は人それぞれだもんね。大将はあたしよりも〝常夜〟滞在歴は長いけど、せっかく〝現実〟のことを思い出しかけても、モンスターに襲われるたびに、記憶を失くしちゃってるから……」

「……」

 モンスターに襲われる、たびに――杉原が言った、『あの人も、私と同じだから』という台詞が、胸の中で重みを増した。哀愁が漂う空気を振り切るように、エリカが零一の前に回り込んだ。両手を腰に当てて、じっとりと顔を見上げてくる。

「零一。杉原さんからユアちゃんが落ち込んでるって聞いたんだけど、詳しい話は零一から聞こうと思って、飛び出してきちゃったんだ。何があったの?」

「ああ、それは……おい、なんで俺を責めるような目で見てくるんだ?」

「だって、零一が追いかけたら泣いちゃったって、近くでこっそり様子を見てたミキさんも言ってたけど?」

「あの人か、話をややこしくしたのは……」

 頭痛の種を増やされた零一は、頭を抱えた。言いふらされるユアには悪いが、エリカに隠すことでもないだろう。〝常夜会議〟が終わる間際の事件について掻い摘んで説明すると、エリカは「そっか……アユちゃん」と呟いて眉を下げた。

「俺は、アユとも話してみたけど……今回みたいなやり方じゃ、ユアを鍛えるのは無理だろうな。逆効果だってことくらい、あいつも分かったうえだと思うけど」

「あたしも、個人的には賛成できないかな。人には人のペースがあるから。でも、零一の言う通り、普段のアユちゃんらしくないよね。何か考えがあってのことかもね」

 既視感が、意識を包み込む。昨日『雹華ヒョウカ』でエリカが言った台詞を思い出した。

 ――『大将も、自分の名前だけでも思い出せたらいいのかもしれないけど……人には人のペースがあるからね』

 そんなエリカのペースを、尊重してくれたのは――そのとき、駅前広場から女性の声が聞こえてきて、零一の意識を引き戻した。

「零一君、エリカちゃん」

 はっと振り向くと、さっき別れたばかりの杉原が、こちらに向かって歩いてきた。隣にはミキもいて、黒いコートを縁取るファーを風にふわふわと揺らしている。表情を輝かせたエリカが「杉原さん、ミキさん」と呼んで手を振った。ミキも手を振り返してから、零一に悪びれることなく、チェシャ猫のような笑みを向けてきた。

「零一君、ユアちゃんはまだ屋台にいるんでしょ? ちゃんと話せた?」

「はい……まあ。なんか俺に怒ってましたけど、もう大丈夫だと思います」

「了解。じゃあ杉原さん、私たちも屋台に行くわよ。お腹空いたわねー」

「えっ、ユアと同席するんですか?」

「何よぉ、悪い?」

「悪くないですけど……」

 ただでさえカウンター席の隅に座っていたユアが、ミキの登場でさらに縮こまる未来が見えた。杉原にも同じ光景が目に浮かんだのか、控えめな笑い声を立てている。

「私から提案したの。ユアちゃんが落ち着いたなら、禍根かこんを翌日に残さないほうがいいと思って。迷惑じゃなければ、私もユアちゃんともっと仲良くなりたいから」

「杉原さんがそう言うなら、安心です」

「あー、エリカちゃん聞いたぁ? 何よぉ零一君、私ってそんなに信用ないわけぇ? ……ああ、そうだ。明日の墓参り、待ち合わせ場所と時間が決まったわよ」

 どきりとした。隣のエリカを見下ろしかけた動きを止めて、「はい」と冷静に返事をする。ミキは、普段通りの口調で続けた。

「午前十時に、噴水跡地に集合ね。メンバーは、実力者の私とエイジさん、新人の榊さんと零一君の四名よ。お弁当持参で、動きやすい服装でよろしく。靴は、そのスニーカーで大丈夫。少し歩くけど、道中には休憩できる建物があるからね」

「本当に、遠いんですね。……ヒロは、連れていかないんですか?」

「そうねえ。エイジさんとも相談したけど、すぐに答えは出せなかったわ。私は連れていってもいいけど、それが本当に正しいかどうかなんて、分からないからねえ」

「……? あの、宇佐美うさみさんは一緒じゃないんですか? お墓参りには参加されるって、〝常夜会議〟で言ってましたよね……?」

「現地集合よ。心配しないで。明日には会えるんだから」

 からっと晴れた空のようにミキが笑うと、杉原もぎこちなく微笑んで「明日は榊さんの代わりに、私がヒロ君を預かることになったわ」と言った。

「ヒロ君は、零一君たちと一緒に行きたがってるけど……お留守番をしている間に、私はヒロ君と話してみるわ。あの子が思い出せた〝現実〟について」

「……分かりました」

 頷いた零一は、ようやく隣を見下ろした。エリカは、唇をきゅっと結んでいる。杉原に言われた台詞が、まだ零一の耳に残っていた。

 ――『エリカちゃんのペースを尊重したかったけど、お墓参りまでの時間を稼ぐだけで、私には精一杯だった……』

「じゃあねー、エリカちゃん。零一君は、また明日」

 陽気に言い残したミキは、高いヒールの靴音をコツコツ鳴らして去っていく。墓参りを避けて通れない以上、エリカが気に病むと知っていても、あえて包み隠さず話したに違いない女性のあとを、杉原も零一たちに会釈してから追いかけた。

 エリカが、零一を見上げてきた。憂いは消えて、いつもの笑顔に戻っている。

「あたしたちも、行こっか。激辛麻婆豆腐丼が冷めちゃう!」

「……ああ」

 ミキたちと反対方向へ歩き始めた零一は、一度だけ大通りの果てを振り返る。

 軽トラックの屋台に煌々と灯る、赤い提灯ちょうちん。運転席の隣で燃える赤色が、零一にはなぜだか不吉なきざしに思えて、胸騒ぎがした。

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