3-27 怖いもの
「今日も、この時間だね」
窓辺に立ったエリカが、いつかと同じ
猫を
「十時四十七分……この時刻に、零一は何か意味があると思う?」
寝間着の白いロングブラウスに着替えたエリカが、隣に立った零一に訊ねた台詞まで、あのときと同じだ。そのくせ零一を見ようとしないところや、天体ショーを見上げる眼差しも、あの夜の足跡をたどっている。〝常夜〟に来たばかりの零一が、眠れない夜を過ごしていた最後の日に、歌を聴かせてくれたときと――ああ、と零一は思う。
――『歌ってあげようか?』
白い頬の
――『歌ってあげようか、って言ってるの。零一が、ちゃんと眠れるように』
あのとき、エリカは歌ってくれた。零一に、歌を聴かせてくれたのだ。
――〝神様〟の墓参りに行った日から、人前では歌わなくなったはずの、エリカが。
「……エリカ」
改まった口調で呼びかけて、あの夜をなぞる行為を終わりにした。エリカが、息を止めたのが分かる。やがて動揺を隠すように微笑むと、背後の玄関を振り返った。
「この流星群の中に、一つだけ、あのピンクの〝星〟も隠れてるのかな」
零一も目を向けた玄関には、星形の石が飾られている。昼食を終えた零一とエリカが帰ってくると、六○二号室の前に届けられていたのだ。『今日のぶんの、お星さまだよ!』というメモも添えられていたので、ヒロが見つけてくれたのだろう。
〝星〟を玄関に飾り、
「ひー君、言ってたよね。〝星〟は毎日一つだけ見つかって、寝てる間に光らなくなるって。あたしたちが初めて手に入れた〝星〟も、明け方の時間に黒くなっちゃったもんね。この〝星〟も……夜明けの時間に、光らなくなるのかな」
「エリカ。本当は、何か知ってるんじゃないのか?」
零一は、言った。毎日一つだけ見つかる〝星〟は、次の流星群が運ぶ〝星〟へ光を託すようにして、薄桃の灯火を喪失する。〝神様システム〟をなぞらえた聖火のような仕組みの理由を、零一は知らない。知っていても、覚えていない。
だが、エリカは覚えているはずだ。〝常夜〟を包み込む歌声と、蘇った記憶の欠片が、零一に教えてくれたのだ。あの曲の一節を、静かに唱えた。
「〝ピンクの
エリカが、瞠目した。夜空を
「エリカの曲に、出てくる言葉だ。〝水に燃えたつ蛍、ピンクの箒星さがして〟……この〝ピンクの箒星〟が、色違いの隕石として〝常夜〟に現れたんじゃないのか?」
エリカは、何も言わない。宇宙を暴こうとする瞳から逃れるように、睫毛を伏せて、空を閉ざした。零一は躊躇ったが、「エリカ」と呼んで両肩に触れた。血の通った温度が、手のひらに伝わる。たったそれだけのことになぜか安堵してしまい、〝常夜〟のモンスターのように正体の分からない怖気が、ぞっと背筋を這い上がった。
「なんで俺が〝常夜〟に隕石を降らせてるのかは……分からない。記憶を少しずつ取り戻しても、思い当たる節が全然ないんだ。……でも、あのピンク色の〝星〟だけは、絶対に……俺が〝常夜〟に与えた影響だ」
エリカは、まだ何も言わない。「エリカ。教えてくれ」と零一は言い募り、詰め寄った。
「エリカは、この〝星〟を研究するって言ったけど、歌詞の符号とか、決まって十時四十七分に隕石が降る意味とか、明け方に光が消える理由なら……本当は、もう分かってるんじゃないのか……?」
エリカが、ようやく顔を上げた。屋台で食事をしたあとで、零一をラジオ局へ連れていったときのように、明るさを取り繕ったぎこちない笑みに、達観が薄く滲む。
「分からないよ。零一。あたしには、何も。でも、この〝星〟は天災なんかじゃなくて希望だってことを、誰よりも強く信じてるよ」
「エリカ……」
歯痒さが、胸を締めつけた。〝現実〟の話し合いを拒否されている上に、フラッシュバックも落ち着いている現状では、無理に迫っても打ち明けてもらえないことは分かっていた。それでも諦めきれなくて立ち尽くしていると、ふと窓を振り向いたエリカが、切れ長の目を瞬いた。
「ねえ、零一。隕石の数……少し減った?」
「……そうか? もう今日は終わりかけだからじゃないか?」
「うん、それもあるかもしれないけど……零一が〝常夜〟に来たばかりの頃は、もっとたくさん降ってた気がするんだよね」
「……? 本当に、減ったのか……?」
零一も、窓ガラス越しに夜空を見上げた。
確かに閃光の数が
「終わったね」
「エリカ。話はまだ、終わってな……」
「零一、早く寝たほうがいいよ。もし寝坊しても、明日は起こしてあげないから」
エリカは、夏祭りで見た金魚のように零一の腕からすり抜けると、ぐっと両腕を天井に上げて伸びをした。白いロングブラウスの裾が、腕に引っ張られて持ち上がる。そんな仕草まであの夜を
自室の扉を開けたエリカは、窓辺から動けないでいる零一を振り返る。やがて意地悪な言い方を詫びるように微笑むと、夜に溶けそうな声で言った。
「おやすみ。零一」
「……おやすみ」
ばたんと閉ざされた扉を、零一はしばらく無為に眺めてから、毛布とコートを引っ被ってソファに寝転び、目を閉じた。
――このままで、いいわけがない。零一は〝現実〟の記憶を取り戻し始めていて、〝常夜〟のエリカについても知り始めている。エリカだって分かっているはずだ。何も知らなかった頃の関係には戻れない。杉原も心を砕いてくれたのに、零一はこんな気持ちのまま、エリカを残して〝神様〟の墓参りに行こうとしている。ミキたちとの別れ際に感じた不吉さも、胸中に
――嫌な予感が的中したのは、日付が変わって数時間がたった頃だ。
ソファの足元でつけっ放しにしていたラジオが、突然に音楽を奏でたのだ。目が覚めた零一は、異常事態を肌で感じて跳ね起きる。ピンク色の薄明りが、視界の端で車のテールランプのような軌跡を描いた。玄関に飾った〝星〟が、まだ常夜灯の役割を手放していない未明の時刻だと、猫形の卓上時計も教えてくれた。
青く冴えた荒野
空っぽの部屋に注いだ怠惰
折れたドライフラワーと
ネオン集めたテラリウムで
踊るのさ
最低のワルツを
「……! まさか……!」
こんなにも非常識な時刻に、ラジオ局がエリカの音楽を流す理由なんて、〝常夜〟では一つしか存在しない。
――モンスターだ。〝常夜〟のどこかで、モンスターが誰かを襲っている。
急いで窓を開けてバルコニーに出たが、巨大な怪物の背びれのように廃ビルを突き刺した街並みは、風前の灯火のような儚さで拡がるだけで、一見して異常は分からない。底冷えする夜の空気が、容赦なく寝間着のジャージを貫いた。やっとのことでラジオ局の方角に、懐中電灯の光の筋を見つけたとき、はっと零一は振り向いた。
ラジオは、まだ音楽を流し続けている。シンセサイザーの音色に乗った女性ボーカルの甘い声が、
――こんなにも音楽が響いているのに、同居人が起きてこない。
「……っ、エリカ!」
青ざめた零一は、リビングの窓を閉める暇さえ惜しんで、エリカの部屋へ走り出した。勢いよく扉を開けて、部屋に踏み込み、月明かりに煌々と照らされたベッドに駆け寄る。壁を向いて眠るエリカの顔色も、
だが、起きない。何度も名前を呼んでいるのに、エリカの
「エリカ……? エリカ、おい……起きろよ、エリカ、エリカ……!」
動揺と恐れが、心臓を鷲掴みにした。冷え切った既視感が頭痛を呼んで、一瞬にして目が冴える。意識がないエリカを無理やりこちらに向かせると、シーツに絹のように拡がるアッシュグレーの髪が乱れて、長いひと房が頬にかかった。どんなに零一が呼びかけても、エリカは瞼を開かない。乱暴に掴みかかった所為ではだけたロングブラウスの胸元が、規則的な呼吸に合わせて上下するだけだ。
愛想笑いすら
思い
真価が剥落 在処が零落
君が
どこにも行けないと
――透き通る歌声が、酷い耳鳴りと混ざり合って、
なのに、目を覚まさない。絶望が、胸中を食い荒らした。
――〝現実〟でも、〝常夜〟でも、エリカが目を覚まさない。
透明なネイルが
君の手に三日月を残す
いつか僕を追いかけて
さよならはまだ言わないで
水に燃えたつ蛍
ピンクの
「エリカ……目を……開けてくれ……」
懇願を吐き出した瞬間に、壮烈な頭痛が意識を切り刻んだ。立っていられなくなった零一は、ずるずるとベッドに突っ伏する。ここが〝常夜〟なのか〝現実〟なのか、魂の所在が曖昧になるような激しい痛みで、瞼の裏側が赤黒く染まったときだった。
――
「……零一……?」
痛みが、すうと和らいでいく。顔を上げた零一を、琥珀色の瞳が見つめていた。枕に頭を預けたまま、眠たそうにぼんやりとした表情を心配そうに陰らせて、汗で湿った零一の髪に、白い指先を伸ばしてくる。
「どうしたの……? 頭、痛い……?」
零一は、乾いた唇を動かした。どうしてすぐに起きなかったのか、とか。モンスターがまた現れた、とか。言いたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉にならなかった。やっと目を開けたエリカは、まだ
「怖い夢でも、見ちゃった?」
――『零一には、怖いものってある?』
かつての少女が、零一に訊ねた声が蘇る。初めて名前を呼んだ夜の記憶が、熱い喪失感と混ざり合い、
――『零一の、怖いもの、なくなった?』
髪に触れていたエリカの手を、あのときのように掴んで受け止める。ベッドに沈んだ上体を引っ張り上げて搔き抱いても、今度は拒絶されなかった。リビングから吹きつけてくる夜風の調べが、微かな抵抗と甘さが入り混じった息遣いと重なった。
開け放した扉の向こうで、音楽が静かにフェイドアウトして、ラジオパーソナリティのアユの声が聞こえてくるまで、二人でずっとそうしていた。
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