3-25 再会と疑惑の青椒肉絲

 大通りの路肩にとめられた軽トラックに近づくと、おでんの出汁だしの匂いが漂ってきた。黄色の間接照明が漏れる赤い暖簾のれんが、小さな厨房に立つ壮年そうねんの男を隠している。こざっぱりとした衣服と紺色のエプロンが垣間見えて、胸に懐かしさを呼び起こした。

 エリカと食事に出かけた夜から、長い時間が流れた気がする。荷台を改造して作られたカウンター席の右奥に、ちんまりと座る女子中学生の背中も発見した。躊躇してから暖簾のれんをくぐると、二人とも足音で来訪者に気づいていたのか、前者は笑顔で、後者は仏頂面で、零一を屋台に迎えてくれた。

「こんにちは。零一君」

「こんにちは……大将たいしょう。お久しぶりです」

 少し緊張した零一は、住人たちから大将と呼ばれている男に挨拶した。自分の名前すら忘れたまま飲食店を営んでいる痩せた男は、性格を如実に表す垂れ目を細めて微笑した。飛龍フェイロンやエイジに比べてやや長めの黒髪が、耳元へ繊細に掛かっている。屋台の店主よりも公務員のほうが納得できるというミキの台詞せりふは、的を射ているとつくづく思う。この甘いマスクをエリカが「イケメン」と評したことを思い出した所為で、零一も仏頂面になっていたのか、大将が困った様子で首を傾げた。

「私の顔に、何か付いているかい?」

「あ……いえ、その……」

 決まりが悪くなった零一は、すらりと背が高い男から目を逸らした。首に掛かったネックレスで、結婚指輪が黄色のライトを弾いている。杉原すぎはらから聞いた『ミヨコ』という名前の件も、零一が知っていることを悟られてはならない。

「何でもありません。ユアに少し用事があって……」

 カウンター席の隅で炒飯チャーハンを黙々と食べているユアを見下ろすと、泣き腫らした目は赤く、存在感を必死に消そうとしている様子が窺える。しかし観念したのか、蓮華れんげをゆっくりと皿に置いて、消え入りそうな声で言った。

「……ごめんなさい」

「……ん」

 以前に図書館で謝り合ったときのように、零一からも謝ったほうがいいのかもしれない。さりとて、ユアの気持ちに共感できていないまま、安易な謝罪を口にするのも躊躇われた。代わりにユアへ近寄ると、ぽんと俯く頭に手を置いた。

「もう泣くな。怒ってないから」

「……そういうところです」

「は?」

「別に……」

 やたらと棘の生えた言葉をぶつぶつと呟いているが、一応仲直りできたようだ。ほっとすると、苦笑が零れた。これからもユアとは喧嘩が絶えないだろうが、互いに不器用な者同士、どうすれば前に進めるのか、その都度考えていけばいいのだろう。

「はい、ユアちゃん。お待ちどおさま。青椒肉絲チンジャオロースーです」

 和解のタイミングを見計らったかのように、大将がユアの前に皿を置いた。ふわっと白い湯気が立ち上り、細切りの豚肉とピーマンとたけのこの炒め物が現れる。胡麻油が香る艶々つやつやの中華料理を見たユアは、なぜか眉間に皺を寄せた。

「頼んでないのに……」

「私の店で食べるときには、野菜もしっかりってもらうよ。美味しく作ったから、少しだけでも食べてごらん?」

「ピーマン嫌いって知ってるくせに……大将のいじわる」

 ユアは上目遣いで大将を睨んでから、たけのこをちまちまと食べ始めた。続いて豚肉を咀嚼そしゃくしてから、大将の視線に気づいて唇を尖らせる。渋々とピーマンに箸をつける姿から、このやり取りが恒例行事なのだと伝わってきた。わざわざラジオ局の前に屋台を出してくれた大将とは、悪くない関係を築けているようだ。しかし、青汁を煽ったような顔でピーマンと格闘するユアを見ていると、小さな疑問が脳裏を掠めた。

 ――『零一さん、どうかしました? ピーマンを食べたユアみたいな顔をして』

「……ユア。お前とアユって、記憶を完全に共有してるわけじゃないんだよな?」

「そうですけど。アユから聞いたんですか?」

「じゃあ、共有してるときの視覚は? 今、青椒肉絲チンジャオロースーを食べてるお前の視覚を、アユも共有してるのか?」

「……どうして、そんなことが気になるんですか?」

 割り箸を置いたユアが、胡乱な目で零一を見上げた。それでいて瞳の奥には、微かな恐れが星のように瞬いている。

「一昨日、アユに図書館を案内してもらったときに……雑談の流れで、俺が顔をしかめたときに、アユが言ったんだ。『ピーマンを食べたユアみたいな顔をして』って。……ピーマンを食べてるときのユアの顔を、お前と共生してるアユが見てる状況って、おかしくないか? まるで……その身体の外から、ユアを見てるみたいっていうか……」

 言いながら、考え過ぎだと笑われるかもしれないと危ぶんだが、ユアは硬い表情のままだった。何かを言いかけて沈黙するユアを見兼ねてか、おでんのブースに大根を沈めていた大将が、のんびりと口を挟んだ。

「零一君、立ち話もなんだから、何か用意するよ。まだラーメンは準備中だけど、ユアちゃんと同じものなら出せるからね」

「あ……お気遣いありがとうございます。でも、エリカと待ち合わせてるので、食事はまた日を改めます」

「……じゃあ、早く行けば?」

「お前な……何か言いたそうにしてるくせに、何なんだその言い草は」

「それなら、青椒肉絲チンジャオロースーを小皿に少しだけならどうかな。ユアちゃんも、零一君が食べ終わるまでの間だけ、お話に付き合ってもらったら?」

「えっと……じゃあ、いただきます」

「余計なことしなくていいのに……」

 ユアは、不服そうに頬を桜色に染めている。厨房から流れるおでんの湯気の所為だろうか。首を捻っている間にも、ユアの隣に青椒肉絲チンジャオロースーの小皿が置かれたので、零一はなし崩し的に着席した。お手拭きと割り箸を揃えていると、ユアがようやく口を開いた。

「……自分の中に、私の部屋と、アユの部屋と、二人で過ごす部屋の三つがあるイメージで、それぞれの部屋にいるときには、相手に話しかけられなくて……二人の部屋にいるときには、会話できるし、顔もなんとなく見えます。記憶の共有も、少しなら……私とアユみたいな他の人たちも、私たちと同じ感覚かどうかは、分からないけど……」

「……うん」

 零一が相槌を打つと、ユアが緊張を緩めたのが分かった。ほっとした様子で割り箸を握り直し、ほんのりと自信が色づいた声で言う。

「でも、最近……私が表に出ているときに、アユが時々いない気がするんです」

「アユがいない?」

「はい。私みたいに、自分の部屋に隠れているのかなって、思ってたんですけど……そんな感じじゃなくて。アユの部屋が空っぽな気がするっていうか……気の所為だと思ってたのに、零一さんが変なことを言うから、やっぱり気になるじゃないですか」

 最後は若干怒りながら、零一をキッと睨んでくる。「なんで俺にキレるんだ……」と文句を言ったものの、零一の中でもアユへの疑惑が深まった。

 ユアを見つめる、アユの視点。このおかしさは、いずれ本人に確かめるべきだろう。話が一段落したので青椒肉絲チンジャオロースーを口に運ぶと、醤油とオイスターソースの甘辛さが、舌に熱く拡がった。たけのこのシャキシャキした歯応えが楽しく、豚肉の柔らかさとピーマンの青さがマッチしている。あっという間に平らげた零一へ、大将がおもむろに言った。

「零一君にも、何か悩み事があるんだね」

「え? えっと、なんで……」

「やっと人心地が付いたような顔をしていたから……かな。良ければ、話を聞くよ」

 微笑みかけられた零一は、返答を躊躇した。〝常夜〟に来たばかりの頃は、互いの記憶に配慮し合って、他者の〝現実〟に踏み込まない気遣いが目立つ日々を送っていたが、いざ記憶を取り戻し始めると、変化の波は小さな屋台にまで及ぶらしい。

 だが、大将は以前にこの屋台で、零一に焦りを打ち明けている。大将よりも先に〝現実〟の記憶を回復させている現状を、本人に聞かせるべきではない気がした。そんな懸念けねんを読み取ったのか、大将は微笑みを崩さなかった。

「私のことなら、心配しないで大丈夫だよ。君の話を聞かせてほしいんだ」

「……はい」

 ストレートに言われると、ついほだされてしまった。控えめな印象の店主から予想外に積極的な誘導を受けた零一は、請われるままに事情を小声で打ち明けた。

「俺は最近、エリカと〝現実〟で知り合いだったことを思い出しました」

 視界の右端で、ユアが割り箸をきゅっと握った。零一の個人的な話は、ユアにとって退屈なのだろう。零一もエリカを待たせているので、できるだけ手短に説明した。

「だけど、エリカとは〝現実〟の話をしていません。あいつは、まだ話したくないみたいだから。俺が気になるのは……エリカの態度に、一貫性がないことなんです」

 言葉を選ぶうちに、曖昧だった悩みの輪郭が見えてくる。いつの間にか零一は、記憶の中の少女へ問いかけるように言っていた。

「〝常夜〟で再会したときのあいつは、俺に〝現実〟のことを思い出してほしかったはずなんです。なのに……俺がラジオ局に行くのを嫌がったり、何も知らないふりをしたり、俺を〝現実〟から遠ざけようとしました。かと思えば、記憶を取り戻すヒントをくれたり……そういうことが、何度かあって。エリカが俺に何を望んでいるのか、今の俺にはまだ分かりません」

 隣から、大きな溜息が聞こえてきた。「バッカみたい」という悪態まで飛んできたので、真剣に話した零一はかちんとくる。ユアは、蔑みの目で零一を見た。

「こんな鈍感男に振り回されるなんて、エリカさんがかわいそう」

「はあっ? 何をどう解釈したら、そんな悪口が出てくるんだ? 大将、こいつに青椒肉絲チンジャオロースーをおかわりで」

「大将、ピーマンだけ零一さんのお皿にり分けてください」

 二人で目を吊り上げて睨み合っていると、大将が穏やかに笑ってから、落ち着いた眼差しを零一に向けた。

「それが、君たちの悩みなんだね」

「はい。でも、俺が全部を思い出さないと、エリカの気持ちに寄り添えないことは、分かっているので……ごちそうさまでした。俺、そろそろ行きます」

「迷いがあるからじゃないかな」

 席を立った零一は、動きを止める。大将は、まな板にネギを載せて、リズミカルに刻み始めたところだった。

「迷ってる……? エリカが?」

「零一君から見たエリカちゃんは、どんな女の子かな」

「え? えっと……強い、です。俺なんかよりも、ずっと」

 本心から、零一は言った。包丁を止めた大将は、眩しそうに目を細めた。黄色の灯りを受けて紫紺しこんの影を纏った顔からは、零一の言葉か、エリカの強さか、どちらに焦がれたのかは読み取れない。ただ、記憶を失くしているとはいえ、零一よりも長く生きている一人の人間の情念が、仮面のように顔を覆ったくらい影に凝集ぎょうしゅうしているような気がして、正体が見えない感情の密度に、気圧された。頭の奥が、なぜか痛んだ。

「私も、エリカちゃんは強い子だと思うよ。でも、周りからどれだけ頼りにされていても、誰かを励ませるくらいに明るくても、あの子だって本当は、私たちみたいに悩んだり、迷ったり、苦しんだりしてきた、普通の人間なんだろうね」

「……ありがとうございます。大将と話せてよかったです」

 口角を少し上げた零一は、頭を下げた。自分の気持ちを整理できたことも有難かったが、久しぶりに大将と再会できた安堵も大きかった。「今度は、エリカと夜に来ます」と付け足すと、ユアが鬱陶しそうに「さっさと行けば?」と吐き捨てたので、もう何度目か分からない口喧嘩に収拾をつけてから、温かい屋台をあとにした。

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