3-25 再会と疑惑の青椒肉絲
大通りの路肩にとめられた軽トラックに近づくと、おでんの
エリカと食事に出かけた夜から、長い時間が流れた気がする。荷台を改造して作られたカウンター席の右奥に、ちんまりと座る女子中学生の背中も発見した。躊躇してから
「こんにちは。零一君」
「こんにちは……
少し緊張した零一は、住人たちから大将と呼ばれている男に挨拶した。自分の名前すら忘れたまま飲食店を営んでいる痩せた男は、性格を如実に表す垂れ目を細めて微笑した。
「私の顔に、何か付いているかい?」
「あ……いえ、その……」
決まりが悪くなった零一は、すらりと背が高い男から目を逸らした。首に掛かったネックレスで、結婚指輪が黄色のライトを弾いている。
「何でもありません。ユアに少し用事があって……」
カウンター席の隅で
「……ごめんなさい」
「……ん」
以前に図書館で謝り合ったときのように、零一からも謝ったほうがいいのかもしれない。さりとて、ユアの気持ちに共感できていないまま、安易な謝罪を口にするのも躊躇われた。代わりにユアへ近寄ると、ぽんと俯く頭に手を置いた。
「もう泣くな。怒ってないから」
「……そういうところです」
「は?」
「別に……」
やたらと棘の生えた言葉をぶつぶつと呟いているが、一応仲直りできたようだ。ほっとすると、苦笑が零れた。これからもユアとは喧嘩が絶えないだろうが、互いに不器用な者同士、どうすれば前に進めるのか、その都度考えていけばいいのだろう。
「はい、ユアちゃん。お待ちどおさま。
和解のタイミングを見計らったかのように、大将がユアの前に皿を置いた。ふわっと白い湯気が立ち上り、細切りの豚肉とピーマンと
「頼んでないのに……」
「私の店で食べるときには、野菜もしっかり
「ピーマン嫌いって知ってるくせに……大将のいじわる」
ユアは上目遣いで大将を睨んでから、
――『零一さん、どうかしました? ピーマンを食べたユアみたいな顔をして』
「……ユア。お前とアユって、記憶を完全に共有してるわけじゃないんだよな?」
「そうですけど。アユから聞いたんですか?」
「じゃあ、共有してるときの視覚は? 今、
「……どうして、そんなことが気になるんですか?」
割り箸を置いたユアが、胡乱な目で零一を見上げた。それでいて瞳の奥には、微かな恐れが星のように瞬いている。
「一昨日、アユに図書館を案内してもらったときに……雑談の流れで、俺が顔を
言いながら、考え過ぎだと笑われるかもしれないと危ぶんだが、ユアは硬い表情のままだった。何かを言いかけて沈黙するユアを見兼ねてか、おでんのブースに大根を沈めていた大将が、のんびりと口を挟んだ。
「零一君、立ち話もなんだから、何か用意するよ。まだラーメンは準備中だけど、ユアちゃんと同じものなら出せるからね」
「あ……お気遣いありがとうございます。でも、エリカと待ち合わせてるので、食事はまた日を改めます」
「……じゃあ、早く行けば?」
「お前な……何か言いたそうにしてるくせに、何なんだその言い草は」
「それなら、
「えっと……じゃあ、いただきます」
「余計なことしなくていいのに……」
ユアは、不服そうに頬を桜色に染めている。厨房から流れるおでんの湯気の所為だろうか。首を捻っている間にも、ユアの隣に
「……自分の中に、私の部屋と、アユの部屋と、二人で過ごす部屋の三つがあるイメージで、それぞれの部屋にいるときには、相手に話しかけられなくて……二人の部屋にいるときには、会話できるし、顔もなんとなく見えます。記憶の共有も、少しなら……私とアユみたいな他の人たちも、私たちと同じ感覚かどうかは、分からないけど……」
「……うん」
零一が相槌を打つと、ユアが緊張を緩めたのが分かった。ほっとした様子で割り箸を握り直し、ほんのりと自信が色づいた声で言う。
「でも、最近……私が表に出ているときに、アユが時々いない気がするんです」
「アユがいない?」
「はい。私みたいに、自分の部屋に隠れているのかなって、思ってたんですけど……そんな感じじゃなくて。アユの部屋が空っぽな気がするっていうか……気の所為だと思ってたのに、零一さんが変なことを言うから、やっぱり気になるじゃないですか」
最後は若干怒りながら、零一をキッと睨んでくる。「なんで俺にキレるんだ……」と文句を言ったものの、零一の中でもアユへの疑惑が深まった。
ユアを見つめる、アユの視点。このおかしさは、いずれ本人に確かめるべきだろう。話が一段落したので
「零一君にも、何か悩み事があるんだね」
「え? えっと、なんで……」
「やっと人心地が付いたような顔をしていたから……かな。良ければ、話を聞くよ」
微笑みかけられた零一は、返答を躊躇した。〝常夜〟に来たばかりの頃は、互いの記憶に配慮し合って、他者の〝現実〟に踏み込まない気遣いが目立つ日々を送っていたが、いざ記憶を取り戻し始めると、変化の波は小さな屋台にまで及ぶらしい。
だが、大将は以前にこの屋台で、零一に焦りを打ち明けている。大将よりも先に〝現実〟の記憶を回復させている現状を、本人に聞かせるべきではない気がした。そんな
「私のことなら、心配しないで大丈夫だよ。君の話を聞かせてほしいんだ」
「……はい」
ストレートに言われると、つい
「俺は最近、エリカと〝現実〟で知り合いだったことを思い出しました」
視界の右端で、ユアが割り箸をきゅっと握った。零一の個人的な話は、ユアにとって退屈なのだろう。零一もエリカを待たせているので、できるだけ手短に説明した。
「だけど、エリカとは〝現実〟の話をしていません。あいつは、まだ話したくないみたいだから。俺が気になるのは……エリカの態度に、一貫性がないことなんです」
言葉を選ぶうちに、曖昧だった悩みの輪郭が見えてくる。いつの間にか零一は、記憶の中の少女へ問いかけるように言っていた。
「〝常夜〟で再会したときのあいつは、俺に〝現実〟のことを思い出してほしかったはずなんです。なのに……俺がラジオ局に行くのを嫌がったり、何も知らないふりをしたり、俺を〝現実〟から遠ざけようとしました。かと思えば、記憶を取り戻すヒントをくれたり……そういうことが、何度かあって。エリカが俺に何を望んでいるのか、今の俺にはまだ分かりません」
隣から、大きな溜息が聞こえてきた。「バッカみたい」という悪態まで飛んできたので、真剣に話した零一はかちんとくる。ユアは、蔑みの目で零一を見た。
「こんな鈍感男に振り回されるなんて、エリカさんがかわいそう」
「はあっ? 何をどう解釈したら、そんな悪口が出てくるんだ? 大将、こいつに
「大将、ピーマンだけ零一さんのお皿に
二人で目を吊り上げて睨み合っていると、大将が穏やかに笑ってから、落ち着いた眼差しを零一に向けた。
「それが、君たちの悩みなんだね」
「はい。でも、俺が全部を思い出さないと、エリカの気持ちに寄り添えないことは、分かっているので……ごちそうさまでした。俺、そろそろ行きます」
「迷いがあるからじゃないかな」
席を立った零一は、動きを止める。大将は、まな板にネギを載せて、リズミカルに刻み始めたところだった。
「迷ってる……? エリカが?」
「零一君から見たエリカちゃんは、どんな女の子かな」
「え? えっと……強い、です。俺なんかよりも、ずっと」
本心から、零一は言った。包丁を止めた大将は、眩しそうに目を細めた。黄色の灯りを受けて
「私も、エリカちゃんは強い子だと思うよ。でも、周りからどれだけ頼りにされていても、誰かを励ませるくらいに明るくても、あの子だって本当は、私たちみたいに悩んだり、迷ったり、苦しんだりしてきた、普通の人間なんだろうね」
「……ありがとうございます。大将と話せてよかったです」
口角を少し上げた零一は、頭を下げた。自分の気持ちを整理できたことも有難かったが、久しぶりに大将と再会できた安堵も大きかった。「今度は、エリカと夜に来ます」と付け足すと、ユアが鬱陶しそうに「さっさと行けば?」と吐き捨てたので、もう何度目か分からない口喧嘩に収拾をつけてから、温かい屋台をあとにした。
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