3-21 道は見えたか

 写真を撮られたのは、家に出入りしているときだけではない。大学の通学路でも、たびたび盗撮されていた。零一の隣を歩く少女は、露ほども気にしていなかったが――その結果が、この週刊誌だ。苦虫を嚙み潰したような顔をしていると、アユが冷静に言った。

「このスクープ自体は、あまり話題になっていないはずです。私もこの頃には〝現実〟で暮らしていましたが、学校でうわさは聞きませんでした」

「学校って、そのときのアユちゃんが通ってたのは小学校でしょ? こういうのは年齢層によって、噂の拡がり方が違うんじゃない? 私もこの週刊誌が出た頃には〝常夜〟住まいだったから、正確なことは言えないけどね」

 ミキはそう言ったものの、気持ちはアユと同じのようだ。週刊誌をつまらなそうに見下ろして、冷めた声で吐き捨てる。

「まあ、大御所の俳優じゃあるまいし、駆け出しのシンガーソングライターのゴシップなんて、大して世間の関心を引けないわよ。そもそも、あの子はこんな物を気にする性格じゃないし、事務所から恋愛禁止って言われてるわけでもないでしょ。後ろめたい恋じゃないなら、堂々と過ごせばいいじゃない」

「……ミキさんが言ったそれ、エリカも言ってました」

 頭を抱えた零一は、失言に気づいた。ミキとアユから注がれる生暖かい視線に刺されていると、エイジが隣の席に着いた。

「ミキの言う通り、エリカちゃん本人は、こんな記事を歯牙しがにもかけなかったかもしれないな。……エリカちゃんは、な」

 エイジが、零一を見た。心の奥深くを見透かすような眼差しに、ぞくりとする。

「こうして記事になった以上、世間に与えた影響は、どんなに小さかったとしてもゼロじゃない。現に、零一君はエリカちゃんよりも気に病んでいたみたいだしな」

「それは……事実だと思います」

 零一が声を絞り出すと、エイジの気迫が薄らいだ。「安心しな。お前さんを本気で疑ったわけじゃないさ」と言ったので、呆ける零一にアユが説明してくれた。

「エリカさんが歌えなくなった理由は、〝現実〟の記憶を全て思い出した所為だと推測した私たちは、エリカさんに内緒で手掛かりを探しました。そして、この週刊誌で写真を見たときに、一緒に写っている『一般男性』とエリカさんの間に、何らかのトラブルがあったのではないかと考えた時期があったんです」

「は? トラブル?」

「はい。〝現実〟で酷い男に引っ掛かったんじゃないかと疑いました。零一さんの人となりを知らなかったので、許してくださいね」

「おい……」

「今では、考えを改めましたよ。零一さんは、エリカさんがまた歌えるようになるための希望だと思っています」

「……希望」

 マンションの六〇二号室で、エリカも同じ台詞を言っていた。さかきと対峙し、ピンク色の〝星〟を胸に抱いて、チョコミントアイスのような甘さと爽やかさを併せ持つ声で、隕石の話から零一を守る呪文を唱えてくれた。回想したことで、ふと気づく。

 一年前の冬に、何があったのか。〝常夜〟暮らしが七年のミキはともかく――〝常夜〟滞在歴が三か月の新人なら、何か知っていても不思議ではない。零一がテーブル席に目を向けると、榊は顔をふいと背けた。

「……ミキさんのご指摘通り、私はゴシップに興味がないの。エリカちゃんの歌なら〝現実〟で聴いたことがあるけど、それだけよ。一年前はテレビを消していたから、ニュースも観ていないわ。気が滅入ることは、耳に入れないようにしていたから」

「気が滅入る……? どういうことですか?」

 零一が身を乗り出すと、榊の肩が小さく揺れた。明らかな動揺は、対面に座るヒロにまで波紋を拡げたようだ。心配そうに「榊さん、どうしたの? 大丈夫?」と舌足らずな声で訊ねている。「……平気よ。ありがとう」と答えて微笑む榊に、零一は食い下がろうか迷ったが、機会を改めることにした。

 ――榊が答えてくれたとしても、今の零一には『聞こえない』声だ。そんな零一の胸中を労わるように、アユが穏やかに言った。

「零一さん。何がエリカさんを苦しめているのか、今では私たちも知っています。ですが、その出来事について、週刊誌の文章を読めなかった零一さんに今お伝えしても、まだ『聞こえない』と思います」

「……そうだろうな」

 零一は、素直に頷いた。想像通りの事実を告げられた歯痒さよりも、切実な安堵を感じていた。零一が〝常夜〟にいない間に、住人たちがエリカを見守っていてくれたことが、どんなに言葉を尽くしても足りないくらいに有難かった。

「ただ、私たちもエリカさんの身に何が起こったのか知っていても、正確な経緯は知りません。どうすればエリカさんが歌を取り戻せるのか、今も方法を模索中です。こればかりは、さすがに本人に直接訊ねるわけにもいきませんから」

「……」

 零一には週刊誌を見せるという荒療治に出た住人たちでも、エリカには真相を訊けないのだ。他者との口論をいとわない榊ですら、この件については言及を控えたことが、不穏さを静かに加速させた。

「一つ、いいかしら」

 榊が、アユに声をかけた。切れ長の目が、冷ややかな光を放っている。

「〝常夜〟の皆さんは、記憶喪失者たちの〝現実〟について、今まであまり干渉しませんでした。それなのに、零一君が記憶を取り戻し始めた途端に、手のひらを返して記憶を取り戻す手伝いまでし始めたのは、なぜですか?」

「榊さん、それは……」

 零一は、はっとした。〝常夜〟の記憶喪失者たちは、聞こえる音や見える情報が制限される。それは榊とてすでに承知しているはずだが、やはり零一よりも急速に〝現実〟の記憶を取り戻した分、アユたちの配慮が見えないのだ。そう解釈して仲裁に入りかけたが、続いた榊の言葉で、息が止まった。

「エリカちゃんに、これからもヒーローでいてもらうためですか? ラジオ局から歌を流すだけでは物足りなくて、いなくなった『草壁衛くさかべまもる』という〝神様〟の代わりに、彼女をどうにかして〝神様システム〟に組み込んで、〝常夜〟を守り続けるためですか? 一人の女の子を〝常夜〟に縛りつけて、救いを求めているからですか?」

 アユが、口を開きかけた。だが、榊の言葉は終わらなかった。とめどなく溢れた糾弾きゅうだんの台詞は、声に執着の熱を血のように滲ませながら、純喫茶跡地という廃墟につどう者たちに的を絞り、それでいて無差別に撃ち抜いていく。

「〝現実〟ではなく〝常夜〟を選ぶ住人は、みんな弱者です。見たくない〝現実〟から目を逸らして、都合の良い夢だけを見続けて、〝現実〟の命をないがしろにしています。皆さんに罪悪感があるのなら、このぬるま湯に浸かったような毎日に、気が狂いそうなほどの焦りを覚えるはずです。……そうでなくては、おかしいんです。ここで皆さんがのうのうと暮らしている間にも、心配している家族や友人、会社の同僚や恋人が、〝現実〟で眠っている皆さんの目覚めを待っているはずです。……それを承知の上で〝常夜〟にしがみつく理由が、私には理解できません。こんな潰れかけの世界を守る算段を立てるよりも、一人でも多く〝現実〟に帰す手段を模索するほうが、よっぽど有意義――」

「そこまでだ」

 研ぎ澄まされた一言が、言葉の銃撃をぴたりと止ませた。ゆらりと立ち上がったエイジが、榊をひたと見下ろしている。

「人間と人間のあいだには、おかしちゃならない線がある。人様の事情に、赤の他人が首を突っ込むもんじゃない」

「榊さん、私からも一つ言わせてください」

 アユも零一のそばから歩き出すと、純喫茶跡地の中央に立った。月光のスポットライトを制服とダッフルコートに燦々と浴びて、寂しげな微笑みを榊に向ける。

「多数決が実現していたら、私は〝常夜〟を、榊さんは〝現実〟を選んだはずです。私たちの意見は相容れないものが多いですが、意思が一致するところも見つけました。私たちは敵同士ではないということだけは、分かり合えたと信じています」

「……どういうことかしら」

「昨日ラジオ局に来てくださったときに、ひー君から聞きましたよ。色違いの隕石を、エリカさんの家に届けてあげたそうですね」

 榊は、意表をかれたようだ。アユは、角が取れた笑みで言った。

「零一さんと、隕石の関係。私だって、真相が気になります。でも、この謎を解き明かせる人間は、私でも榊さんでもないと思います。榊さんもそれが分かっているから、ひー君が拾った色違いの隕石を、エリカさんに届けたんじゃないですか?」

「……。でも、今の零一君では、真相の解明がいつになるか分からないわ」

「お嬢さんの言い分だと、隕石の謎を解き明かさないと、〝現実〟に帰れないように聞こえるな。誰もそんなことは言っちゃいないが」

 エイジの言葉で、榊が顔色を変えた。切れ長の瞳に、敵意に似た情念と、見過ごしてしまいそうなほど僅かな怯えが宿る。榊の反論を待たずに、エイジは言った。

「〝道〟は見えたか?」

 ――道? 息を詰めていた零一は、謎の言葉に戸惑った。榊も、眉根を寄せている。「何の話です?」と訊き返す美女へ、エイジはさらに問いかけた。

「お嬢さん。俺の名前は、姫嶋英治ひめじまえいじだ。差し支えなければ、お嬢さんもフルネームを教えてくれないか」

「エイジさんっ……?」

 突然に打ち明けられた本名に、零一が驚いた直後だった。

 榊が、言葉を詰まらせて――唇を噛んで、黙ったのは。

「榊さん……?」

「……」

「やっぱり、名前にあるのか。〝道〟が見えない原因は」

 嘆息したエイジは、唇を開きかけた榊を片手で制した。

「〝道〟が見えていないなら、口ばかり達者なお嬢さんも、他の住人たちと同じさ。〝現実〟での暮らしよりも、〝常夜〟での暮らしを望んでいるのさ」

「私が〝常夜〟を望んでいる……? そんなわけが……」

「さっきの演説だって、誰よりも耳が痛いのはあんただろう。零一君にこだわり始めたのも、今となっては研究という名目で、〝常夜〟に滞在する時間を延ばしたいからじゃないのか? 役割があれば、〝現実〟に帰らない罪悪感も薄まるだろうからな」

 青ざめた杉原すぎはらが、「エイジさんっ」と声を上げた。榊も紙のように白い顔色をしていたが、エイジの言葉に屈しなかった。凛と顔を上げて、エイジを睨みつける。

「何を仰っているのか、理解できません。〝道〟とは、どういう意味ですか?」

「〝常夜〟の四方が、白い霧に覆われているのは知っているな? 一番近いところだと、廃駅の線路に沿って歩いていけば、すぐに霧に阻まれて進めなくなる」

「それ、俺も見ました」

 会話に圧倒されていた零一も、口を挟んだ。自転車で〝常夜〟を一周した際に、行き止まりを示す白い霧に、進路を何度も閉ざされた。アユが、零一を振り向いた。

「あの白い霧は、〝常夜〟と〝現実〟の境目です」

「えっ? ……そうなのかっ?」

「はい。あの霧の向こうへ渡るには、二つの条件をクリアする必要があります」

 アユは右手を掲げると、指を一本ずつ立てた。

「〝現実〟の記憶を、全て思い出すこと。そのうえで、〝現実〟に帰りたいと願うこと。――以上が、〝常夜〟から〝現実〟に帰るために、クリアしなければならない条件です」

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