3-20 歌えない歌姫
「歌えない……? エリカが?」
ミキの昔話が始まってから、零一は初めて動揺した。視界の端で、
「零一君も、記憶を取り戻してきたなら、勘付いていたんじゃない? モンスターが〝常夜〟に出たときに、私たちはアユちゃんに協力してもらって、エリカちゃんの曲をラジオ局から流していたわ。その曲を生み出した歌姫が、同じ〝常夜〟に住んでいても、私たちはエリカちゃん本人には、一度だって協力を仰がなかったもの」
「……はい」
心のどこかで、薄々気づいていた。零一が〝常夜〟に来てから二週間と少しの間、モンスターは二回出現した。二回ともラジオ局から曲を流すことで住人たちを守ったが、あの曲を歌っているのがエリカだと分かった今、エリカ自身が歌わずにラジオ任せにしていたことに、疑問を持たなかったわけではない。
「正確には、歌わなくなった、かもね。一人で過ごしているときには、歌を口ずさんでいる姿を見かけたわ。だけど、野外ライブを開くことはなくなった。申し訳なさそうに謝るあの子を、私たちは誰も責めなかった。当たり前よね。あの子を責める権利なんて、誰にもないわ。先陣を切って戦うあの子に、私たちは何度も救われてきたんだから」
「一度だけなら、歌ってくれましたよ。私とユアが〝常夜〟に来たときに」
アユが、ぽつりと言った。零一に向けられた微笑みには、悲壮な恩義がこもっていた。
「零一さんのときみたいに、ラジオ番組にゲスト出演していただいたんです。エリカさんの歌は、優しくて、温かくて、でも少し切なくて、孤独で。手が届かないくらい遠い人に感じるのに、誰より身近にも感じられて……ずっと真夜中が続いている〝常夜〟の空気に、そっと寄り添ってくれている気がするんです」
その台詞に、心臓を掴まれた。ザラメ糖のように散らばる言葉の中に、〝現実〟の記憶に繋がる何かがあった。視界を揺らめかせる赤いノイズが収まると、あどけない照れ笑いを浮かべたアユが、青い月影の中に
「私はラジオパーソナリティなのに、好きの気持ちが大きければ大きいほど、上手く表現できなくていけませんね。エリカさんには、またラジオ番組にゲスト出演してくださいって、これからもお願いし続けます。いつか、エリカさんが心置きなく歌えるようになったときに、すぐにイエスの返事をもらえるように」
アユは笑みを消すと、真面目な顔で零一を見た。
「零一さんを責めるように聞こえたら申し訳ないのですが、エリカさんが歌えない原因には、零一さんが関係しているんじゃないかなぁと、予想した時期がありました」
「俺が……?」
「理由を、正直に言いますね。……本当に、言っていいんですよね?」
アユは、ミキとエイジに目を向けた。二人がそれぞれ頷くと、
「零一さん。これから、ある物をお見せしようと思いますが……もし零一さんの状態が、これから見せる物を受けつけない場合、ラジオ局で台本の文字を読めなかったときのように、私が何を見せたか分からないと思います」
「ある物? それは、〝現実〟の俺に関わる物なのか?」
「はい。もちろん、零一さんが見たくなければ、見せません。でも、零一さんが〝現実〟に帰りたいなら、いつかは向き合わないといけない記憶です。その記憶に繋がる物を、私たちの判断で見せるというのは、
「……アユ。やっぱり、お前」
疑念が、確信に変わった。零一は、つい睨むような顔で問い詰めた。
「俺とエリカのこと、本当は何か知ってるんだな?」
「はい。しばらくの間は零一さんに配慮して、知らないふりをしていました。それに、一昨日までの零一さんは、思い出した記憶が不十分で、『聞こえない』声がたくさんありましたから。私が失言をしても、聞かれる心配はありませんでした」
アユは潔く認めると、今の零一には『聞こえる』声で、衝撃の
「実を言うと、住人の半数以上の方々は、零一さんが〝常夜〟に来るよりもずっと前から、零一さんの顔を知っていました」
「は……? 俺の顔を? 歌手になったエリカならともかく、なんで俺っ……?」
「私も知ってたわよぉ。正確には、零一君の目に、
「ミキさんまでっ? というか、モザイクって何なんですか!」
「……どういうことでしょうか? 私は、零一君の顔を〝常夜〟で初めて知りました」
榊も、零一に同調した。ミキは榊を
「説明するよりも、実物を見たほうが早いわよ。零一君、どうする? 見るか、見ないか。私たちも無理強いはしないから、心の準備が必要なら今度にしましょ。絶対に見たくないなら、それでもいいわ。今の意思を聞かせてくれる?」
ミキは、普段通りの口調で言った。あえて軽い調子で言うことで、緊張を和らげてくれているのだと分かってしまう。零一は、唾を飲み下した。
〝現実〟の記憶を全て取り戻して、〝常夜〟で歌えなくなったというエリカの力になりたいなら――選ぶべき答えは、一つだけだ。
「……見ます。見せてください」
「了解。エイジさん、見せてあげて」
「……」
エイジは席を立つと、古風なレジスターの向かいに据えられた雑誌ラックから、一冊の週刊誌を抜き取った。そしてテーブル席まで戻ってくると、折り目が付けられたページを開き、零一の前に置いた。
「〝常夜〟の図書館に流れ着いた、一年前の週刊誌だ。……これが、『見える』か?」
視線をページに落とした瞬間、ぞっと腕に鳥肌が立った。
蟻の行列のような活字の羅列には、ラジオ局で見せられた台本のように、白いモザイクが掛かっていた。だが、エリカの曲の名前を隠していたときのような、綿菓子に似た甘い柔らかさは欠片もない。白いモザイクは
「っ……!」
込み上げた吐き気に
記事に添えられた、スクープ写真だけは――今の零一の目にも『見えた』からだ。
「はあっ……はあっ……!」
コートの胸元を掴み、身体をくの字に折る。呼吸が怪しくなり、視界が赤色に侵された。大学図書館の風景が、脳裏を閃光のように駆け抜ける。本を積み上げたテーブル席で、ぐったりと眠る少女の横顔も――ぷつりと回想が途切れて、赤い悪夢は消え去った。冴え冴えと青い月光の中で、こめかみに伝った汗が外気に冷やされる感覚で、我に返る。
「……あ……エイジさん……?」
気づけばエイジがそばにいて、零一の背中に手を添えていた。カウンター席ではアユとミキも立ち上がっていて、テーブル席の杉原はヒロを抱きしめて顔色を失くしている。ヒロは何が起こったのか理解できない表情で、対面に座る榊は――杉原と同じかそれ以上に、顔色が悪かった。
エイジは倒れた椅子を起こしてから、零一を座らせて「すまないな」と短く言った。
「君には、
「いえ……おかげで、少し思い出せました」
エイジが週刊誌を取り上げようとしたので、零一は控えめに手を伸ばして、テーブルに広げたままにした。改めてゴシップ記事と向き合い、睨みつける。
掲載された写真は、雑誌社によるモザイク処理で、風景のほとんどが
――男のほうは、どこにでもいそうな男子大学生だ。ミキが言うように、顔の上半分は黒い目隠しで加工されている。
――女のほうは、体格が小柄な女子大生だ。男子大学生の顔に貼りつけられたモザイクは、女子大生の顔にはない。愛らしい顔立ちと、意志の強そうな切れ長の目を、零一が見間違えるわけがない。キャスケット帽を目深に被っているが、白黒の印刷でも髪色の
「見つけた……エリカ」
――アッシュグレーとパープル。
「零一さん、すみませんでした」
「アユの所為じゃない」
零一は、
「早速ですが、質問させてください。このゴシップ記事について、零一さんは今まで忘れていましたよね? 今回これを見たことで、新しい発見はありましたか?」
「……写真は見えたけど、文章は全然読めなかった」
「ああ、文章なんか読めなくていいわよ。くっだらないことしか書いてないから」
ミキが、カウンター席から手をひらひらと振った。実際に、その通りなのだろう。肩の力が少し抜けて、零一はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この写真は……エリカが歌手デビューした後に、俺と二人で出かけたときか、帰ろうとしてるときの写真です。場所は、俺かエリカのアパート前だと思います」
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