3-22 幕を引くのは

 零一は、さかきと顔を見合わせた。互いに、驚愕と拍子抜けのあわいを彷徨っている顔をしているに違いない。榊は、放心の声でアユに訊いた。

「それだけなの……? その二つの条件を満たしたときに、さっきエイジさんが仰った〝道〟が現れるとでも言うの?」

「その通りです。条件を満たした住人は、〝現実〟に続く〝道〟が見えるようになり、白い霧の向こう側へ渡れます。前例もありますよ。自転車屋跡地や、コンビニ跡地を管理していた住人たちも、この方法で〝現実〟に帰りました」

「具体的には? 〝道〟は、どこに出現したのっ?」

「人それぞれですねー。街の外れまで延びる車道を歩き続けた方もいれば、ビルの屋上に続く扉から〝常夜〟を出ていった方もいます。他にも、お店の物置や自室のクローゼット、学習机の抽斗ひきだしなど、〝道〟の出現ポイントは多岐にわたります」

「滅茶苦茶だわ……」

 榊は、白魚しらうおのような手を額に当ててから、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「つまり、住人の誰か一人でも〝道〟を見つければ、全員で〝現実〟に帰還できる……と思いたいけれど、そんな簡単な話ではなさそうね?」

「ご明察です。〝現実〟に繋がる〝道〟は、一人一人異なります。ごく稀に、複数人が同じ〝道〟を通って〝現実〟に帰還する例もあるそうですが、このケースは〝現実〟で知り合いだった者同士に限定されるはずです。そうですよね、エイジさん?」

「ああ。ただし、検証は不十分だ。〝現実〟で知り合いじゃない奴らが、同一の〝道〟を使って帰ることも、不可能ではないかもしれないな」

「そんな方法、いまだに見つかってないけどねえ」

 ミキは、溜息交じりの相槌を打った。そして「榊さん、私からも一つ言わせてもらうわよ」と言って、カウンター席から榊を見下ろした。

「私たちが、エリカちゃんを〝神様システム〟に組み込もうとしている、なんて言ったわね。答えはノーよ。ここにいる人たちは、誰も他人を縛らないわ」

 毅然とした態度とは裏腹に、口調はエイジやアユよりも柔らかかった。榊に対して誰よりも辛辣しんらつに当たってきたミキは、愁眉しゅうびを開く榊へ、好戦的に言った。

「あの子は、みんなに勇気をくれた。真っ黒な絶望に押し潰されそうだった〝常夜〟に、眩しいくらいの希望を思い出させてくれた。たとえ〝常夜〟の炎が『草壁衛くさかべまもる』の代で消えかけていたとしても、私はエリカちゃんが繋いでくれたと信じているわ。あんたは『〝常夜〟を選ぶ人間は弱者だ』なんて決めつけてくれたけどね、私たちにも根性はあるのよ? あの子がこれからも歌えないのだとしても、〝神様システム〟の聖火は消えないわ。〝常夜〟で生きる私たちが守るもの」

「そうだな」

 エイジが、口調の険しさを緩めた。「モンスターを出さないようにする方法を、これからも考えていかないとな。エリカちゃんの力を借りずに済むように」と続けたので、零一は思わず訊ねた。

「それって……ラジオを使った戦い方をやめる、ってことですか?」

「すぐには無理だけどな。エリカちゃんの善意で曲を使わせてもらっているが、大事な曲をこんな意図で使われるのは、あまり良い気分じゃないだろう」

「エリカは……そういうことを、あまり気にしないと思います。皆さんの役に立てることを、喜んでいる気がしますし……」

 小声で答えると、エイジが溜息を吐いた。隣にやって来たミキが、零一を肘で小突く。

「今のままだと、エリカちゃんよりも零一君のほうが嫌なんじゃないの? 恋の歌が、モンスターを追い払う戦闘用BGMにされていても平気なの?」

「……別に、俺も構いませんけど……いや」

 恋の歌と言われて狼狽えたが、零一は首を横に振ると、正直な気持ちを言葉にした。

「今のままは、やっぱり嫌です。ちゃんと〝現実〟でも、あいつの歌が聴けるようにならないと……俺は……」

 ミキたちが言うように、エリカは人前で歌わなくなったかもしれない。だが、モンスター騒動が収束した夜に、六〇二号室から聞こえた歌の美しさが、言葉を慈しむ声の柔らかさが、零一に教えてくれていた。

「あいつは、今も歌が大好きで……本当は、歌いたいはずなんです」

「零一君がそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」

 ミキが微笑むと、零一は俯いた。口先だけなら、何とでも言えるのだ。己の言葉に説得力を持たせるためには、早く全てを思い出さなければならないのに、零一にはまだ〝道〟が見えない。――きっと、おそらく、榊にも。

 榊は、複雑な表情で黙っている。対面のヒロから注がれる心細そうな視線にも、もはや気づいていないようだ。そんな二人を杉原が気にしていて、気怠い沈黙が煙草たばこ紫煙しえんのように揺蕩った。鋭い追及で住人たちと衝突を繰り返してきた榊も、週刊誌の件で疲弊した零一も、体力と精神力の限界が近づいている。ミキが「さて」と明るく言って、アユを振り向いた。

「アユちゃん、どうする? 新人たちへの情報共有で、結構話し込んじゃったわね。モンスターの件については、これからも意見を出し合うことにして、今日はみんな疲れてるみたいだし、そろそろお開きにしない? ……アユちゃん?」

 ぼんやりしていた零一は、ミキの怪訝そうな声で異変に気づいた。

 純喫茶跡地の中央で、零一たちに背中を向けて、榊のほうを向いていたアユが――ミキの声に、返事をしない。それどころか、びくりと両肩を弾ませて、青い逆光で影に包まれた全身を、硬い動きでこちらに向けた。

 怯えが浮き彫りになった表情に、先ほどまで堂々と司会進行役を務めていた少女の面影はない。ミキが「あらぁ」と声を上げて、アイライナーに縁取られた目を瞬いた。

「ユアちゃんじゃないの。久しぶりね。女子会にはいつもアユちゃんのほうが来るから、私とはあんまり話したことがなかったわよねえ」

「ユアっ……?」

 会議メンバー全員の視線が、アユ――否、ユアに集中する。月影つきかげの青に照らされたユアの頬が、かっと赤く染まった。震える唇が、細切れの言葉をつたなく紡ぐ。

「わ、私……なんで……アユ、アユっ! どうして……!」

 悲愴な声で呼びかけても、少女の身体に宿るもう一人の魂は応えない。予想外のタイミングで行われた人格交代を見せつけられて、零一も呆気に取られていた。

 ――アユが、消えた?

 人格が入れ替わる瞬間なら、今までに何度も目にしてきた。にもかかわらず驚愕したのは、目の前でかわいそうなくらいに硬直している女子中学生が、アユとして過ごす時間に慣れ過ぎた所為だ。

 最後にユアと会ったのは、いつだろう? 記憶を手繰り、時間をかけて思い出す。一昨日の夜だ。女子会を遠慮した零一は、ユアに見送られてラジオ局を辞した。その翌朝に、榊が六〇二号室を訪ねてきて、〝常夜会議〟の開催が決まり、そして現在に至るまで――推測に過ぎないが、ユアの人格は、ほとんど表に出てこなかった。

「ユアちゃん、落ち着きましょ。誰もあなたを取って食いはしないんだから」

 ミキが苦笑して近づくと、ユアは天敵に出くわした小動物のように後ずさった。杉原も「ユアちゃん、大丈夫?」と優しく呼んだが、ユアは頑なに俯くだけで、誰の声にも耳を貸さない。きょとんとしたヒロが「ユアねえちゃん? アユねえちゃんはどこ?」と無邪気に訊いたのが、ユアの中で何らかのトリガーを引いたようだ。

「……っ!」

 はっきりと歯噛みしたユアは、目元を前髪のカーテンで隠したまま、出口めがけて駆け出した。零一とエイジが座るテーブル席の真横で、制服のプリーツスカートと肩口で切り揃えた黒髪が翻る。はっとした零一が「あっ、おい! ユア!」と呼び止めても無駄だった。カラン、と扉のベルが鳴り、純喫茶跡地の静けさを搔き乱す。

「あらぁ、やっぱり怖がられちゃってるわね。私、あの子に何かしたかしら?」

「お前は口が悪いからな。毒舌どくぜつけなされると思って逃げたんだろう」

「エイジさんってば、酷いじゃないのよう。私くらいにふところが深い女、〝現実〟にもそうそういないわよ? 大体、毒舌ならあの子だって負けてないじゃない」

「ユアちゃん、心配ですね。急に司会の役割を振られた気分になって、びっくりしちゃったのかもしれませんね……」

「気負わなくてもいいのにねえ。まあ、もうすぐお昼時だし、杉原さんたちもお腹空いてきたでしょ? 仕切ってくれるアユちゃんがいなくなっちゃったわけだし、第百四十五回〝常夜会議〟は、これでお開きにしましょ。榊さんも、異存はないわね?」

「……ええ。これから、明日のお墓参りに備えようと思います。エイジさん、待ち合わせ場所や時間について、打ち合わせをしましょう」

「ああ。その前に、ヒロに昼飯を食わせてやれ。詳細を決めるのは、その後だ」

「……もちろんです。皆さん、今日はありがとうございました」

「あの……俺、ユアの様子を見てきます」

 零一は、急いで席を立った。ミキが肩を竦めて、零一にひらりと手を振った。

「ま、そういう役回りの人間が、一人くらいは居てあげなきゃね。ユアちゃんによろしく。ああ、私は別に怒ってないわよ? 何しろ懐の深い女だから」

「ミキさんって……優しいですよね」

 早くユアを追わなくてはならないのに、つい零一は言っていた。ユアの態度は緊張と怯えが理由とはいえ無礼だが、ミキは寛容かんような姿勢を崩さなかった。杉原のこともモンスターから何度も守ったと聞いたので、庇護ひごを必要としている住人たちに、ミキは根気強く手を差し伸べ続けてきたのだろう。

 そう考えたとき、ミキが榊を嫌う理由の一つが、なんとなく読めた気がした。榊が告げた糾弾の台詞が、頭の中でリフレインする。

 ――『一人の女の子を〝常夜〟に縛りつけて、救いを求めているからですか?』

 その救いを、本当に求めているのは、ひょっとしたら。先ほどのエイジの指摘に導かれるようにテーブル席へ目を向けると、榊は杉原に頭を下げてから、ヒロの小さな手を取ったところだった。榊は零一の視線に気づくと、微苦笑で言った。

「零一君、また明日ね。お墓参りで会いましょう」

「はい……また明日」

〝道〟が見えない孤高の美女が、誰かに手を伸ばす日は来るのだろうか。そんな己の存在を否定する限り、ミキとの確執かくしつは続く気がした。ミキはカウンター席に戻って議事録を開くと、全てお見通しだと言わんばかりに零一を振り向き、にいと笑った。

「零一君、早く行かなきゃ見失うわよ?」

「は、はい。今日は、ありがとうございました!」

 慌てて頭を下げた零一は、純喫茶跡地を飛び出した。真冬の冷気と廃墟の埃っぽさがないまぜになった空気の中へ、足を踏み出したときだった。

 スニーカーの爪先が、何かを蹴飛ばしてしまったのは。背後の木製扉が鳴らしたベルの音に、蹴飛ばしたそれが転がるカランと軽い音が重なった。天井が崩落ほうらくした廃駅構内に降る月明かりが、それの正体を照らし出す。

「エサ皿……猫か?」

 小さなステンレス皿が、ひび割れたタイルに落ちていた。銀色の皿には干からびた固形物が少し残っていて、いくつかは周辺に零れている。アユの案内で『最果てにて』を訪れた際には気づかなかったが、エサ皿は純喫茶跡地の壁際に置かれていたようだ。たたらを踏んだ零一は、先を急ごうとして、見過ごせなくて、立ち止まる。

 足元に散らばったキャットフードと思しき固形物を、目視できる範囲で拾い集めて、エサ皿に戻す。それを壁際に置いてから、すっかり見失ったに違いない女子中学生を捜すために、駅前広場に続く階段へ走り出した。

『最果てにて』の窓ガラス越しに、零一を見送るエイジの顔が、視界の端によぎった。

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