3-23 ユアがいない楽園
〝常夜会議〟から逃げ出した少女の姿は、意外にもまだ駅前広場にあった。円形の噴水跡地の影で、ダッフルコートを着た小さな背中が
「ユア!」
ユアの肩が、びくりと動いた。振り向いた頬に、一筋の銀色が光っている。ユアは袖で涙をぐいと拭うと、足をもつれさせながら走り始めた。
「逃げるな! 待てって! ……ユア!」
駅前広場から大通りに入ったところで、追いつけた。肩を掴むと、ユアは抵抗なく立ち止まった。零一は、乱れた呼吸のまま文句を言った。
「お前な……気持ちは分かるけど、あんな態度はないだろ?」
「……バッカみたい」
「はあ?」
「アユも、零一さんも、バッカみたい!」
赤い目をしたユアが、振り向きざまに零一の手を跳ねのけた。むっとした零一も、感情に任せて口を開きかけて、思いとどまる。喧嘩は、もう
「ユア。なんであのタイミングで、アユと入れ替わったんだ? さっきは、望んで表に出てきたわけじゃないんだろ?」
「……知らない。すぐに、もう一度アユと入れ替わろうとしても、できなかった。こんなこと、今までになかったのに……」
「入れ替われなかった? 原因に、何か心当たりはないのか?」
「知らないってば。……私だって、アユに訊きたいよ。どうして、こんな酷いことをするの、って……」
「俺は……酷いとまでは、思わなかったけど」
ユアの性格を思えば、確かに入れ替わりのタイミングはまずかったかもしれない。だが、この身体は二人のものだ。アユにだって都合はあるだろう。どちらかといえばユアに同情的な考えを持つ零一でも、さすがにユアが思い詰め過ぎている気がした。
そんな考えを嗅ぎ取ったのか、ユアが低い声で「酷いのは、アユだけじゃない」と呟いたので、零一は眉根を寄せた。さっきから、どうにも零一への当たりが今まで以上に強いと感じていたが、気の所為ではないようだ。
「俺に、何か怒ってるのか? ……言えよ。聞くから。そのあとで、ミキさんたちに謝りに行くぞ。ミキさんは気にしてないって言ってたけど、ちゃんと謝ったほうが……」
話の途中で、ユアが頬を紅潮させた。くるりと背を向けて逃げ出したので、油断した零一は「あっ、こら!」と叫んだが、追いかける必要はなくなった。
ほんの数メートル走っただけで、ユアが足を止めたからだ。夜空に浮かぶ青白い満月と、廃ビルが林立する終末世界の風景を背にして、制服姿の少女が振り返る。真夜中の海のように凪いだ感情を湛えた目が、零一に少女の名前を知らせていた。
「アユだな?」
「はい。このまま追いかけっこが続いたら、ユアに軍配が上がりそうでしたので」
「俺は、そこまで貧弱じゃ……いや。アユ、訊きたいことがある」
溜息を吐いた零一は、アユとの距離を詰めようとして、やめた。光が消えた二つの街灯くらいに開いた距離が、今の零一たちにはちょうどいい気がした。
「なんで〝常夜会議〟にユアを出した? どんなタイミングで入れ替わろうと、アユの自由だって分かってるけど……ユアは、アユと入れ替われないって泣いてたぞ」
「零一さんには、お伝えしましたよね。〝常夜〟の図書館を案内したときに、ユアが少しずつ変わり始めていることを」
アユは、明るい声で言った。感情の読めない声だと、零一は思う。ラジオパーソナリティを務めるだけあって、演技に
「本の貸出期限を守ったり、他にも少しだけ外出の時間が増えたり……零一さんとの出会いは、ユアを間違いなく良い方向へ導きました」
「……ああ。言ってたな」
「私は、そんなユアの変化を歓迎していました。その気持ちに、嘘はありません。ただ、零一さんが〝常夜〟に与えた影響は、思いのほか大きなものでした」
「俺が〝常夜〟に与えた影響……? 隕石のことを言ってるのか?」
「いいえ。もう一つあります。私としては隕石よりも、こちらのほうが重要です」
アユの頭上で、ジジッと耳障りな音がした。消えていたはずの街灯が、弱々しく不規則に明滅する。壊れたスポットライトの下で、アユは大人びた笑みを見せた。
「いろいろなことがありましたよね。ひー君をモンスターから守ったり、
「……アユ、お前は……」
話の落としどころが、見えてきた。アユは、明るい声のまま続けた。
「私とユアが、〝現実〟でどういうふうに過ごしてきたか。こちらについても、零一さんにはラジオ局でお伝えしましたよね。〝現実〟がつらくなると、人付き合いが苦手なユアは、私に日常生活の大半を任せるようになった、って。このまま〝現実〟でユアがひっそりと存在感を消してしまって、いつかこの身体から消えてしまうんじゃないかって、私には恐怖があった、って」
「……ああ。覚えてるよ」
「私はユアよりあとに生まれましたが、ユアより年上だと信じていますし、誰かとお話をすることも大好きです。……そんな片割れに、全てを任せておけば、それでいい。本当にユアがこんなふうに考えているかどうかは、分かりません。ですが、零一さんのおかげで前向きになれたユアが、零一さんによって〝常夜〟の住人たちが結束を強めたことで、表に出てくる時間が再び減ったことは、事実です」
「……みんなが団結することは、悪いことじゃないはずだ」
「私も、そう思います。でも、その輪に入ることを尻込みする人間の気持ちを、零一さんなら分かってあげられるのではないでしょうか」
ジジッと再び音がして、街灯が橙の光を失った。月光の青を浴びたアユの顔からも、明るい笑みが消えている。
「今のままでは、私とユアの関係は、〝現実〟のときと同じです。ユアがいない〝常夜〟を、それでも私は楽園と呼べるのか……ユアがたくさんのことに悩んでもがいているように、私もいろいろと考えることが増えてきました」
「だから、ユアを〝常夜会議〟に出したのか?」
「私が司会進行役を務めることに、不満を持ったわけではありませんよ。適材適所という言葉もありますから。ですが、強いて言えば、抗議でしょうか。私は現在の状況を、変えていきたいと思っています」
「……ユアが苦しんだのは、俺の所為なんだな」
だから、泣いて怒ったのだ。零一が〝常夜〟に来なければ、ユアをあんなにも苦しめずに済んだのだ。そう卑屈に考えた瞬間には、〝現実〟でも〝常夜〟でも耳に馴染んだ歌声が、荒んだ考えを打ち消した。零一は、アユと目を合わせた。
「それでも、俺は……俺が〝常夜〟に来たのはたぶん、あいつのためで……ここに来たのは、間違いじゃないって思ってる。それに、ユアが変わろうとしてるなら、手助けだってしてやりたい。俺にできることなんか、そんなにないかもしれないけど……」
アユは、束の間黙った。事切れた街灯に輝きは戻ってこなかったが、微笑みを取り戻したアユの姿は、先ほどよりも雰囲気が柔らかくなっていた。
「零一さんに謝られなくて、ほっとしました。集団に交われない孤独と疎外感は、ユアが向き合うべき課題ですから」
その台詞が、頭痛を誘発した。赤いフラッシュが視界で弾けて、零一は歯を食いしばる。まただ。アユの台詞の中に、大事な手掛かりが潜んでいる。〝常夜会議〟で聞いた言葉と、今の台詞の共通点は何だろう? 零一が答えを出す前に、アユは照れ笑いをこちらに向けた。
「零一さん。これからも、自分の信念を大事にしてくださいね。誰にも遠慮しないで、本心を偽らずに、零一さんが良いと思うことを、今みたいに誰かに伝えくださいね。そんな誠実さに救われてきた人は、たくさんいると思いますから。あ、でもユアはしばらく怒っていると思うので、申し訳ありませんが、引き続きフォローをお願いします」
「そこを人任せにするなよ……アユも、ユアとは話せないのか?」
「話せるときもありますが、話せないときもあります。そういった事情を抜きにしても、零一さんからのフォローでしか、癒えない傷もありますから。ああ、でもこの場合、傷口に塩を塗ることになるかもしれませんねー」
「? 何の話だ?」
つい疑問を投げかけてから、息を詰めた。この台詞は、零一がエリカを傷つけたときと同じものだ。そんな動揺を見透かしたかのように、アユは
「零一さんは、一つだけ誤解をしていますよ。ユアが泣いたのは、私と入れ替われなかったからではなく、突然に〝常夜会議〟に放り込まれて緊張したからでもなく、皆さんの前で恥をかいたからでもありません」
「じゃあ、何だっていうんだ……?」
「この謎は、謎のままにしておきましょう。ユアもそれを望んでいるようですから」
「……気になるだろ。理由も分からないのに、ユアに怒られる身にもなれよ」
「では、ヒントを出します。〝現実〟でも〝常夜〟でも日々を消極的に過ごしていたユアは、〝現実〟のエリカさんについての情報を、今日まで何も知りませんでした」
「は? 〝現実〟のエリカのことが、なんでユアと関わってくるんだ?」
〝常夜会議〟で週刊誌を見せられた際に、アユたちは〝現実〟のエリカについて秘密裏に調べたと言っていたが、その件と何か関係があるのだろうか。アユは、眉を下げて微笑んだ。ビターチョコレートのようなほろ苦さの笑みだった。
「私たちは、全ての記憶を共有しているわけではありません。おまけに、私がエリカさんについて調べていた時期のユアは、現在に輪をかけて他人に興味がありませんでしたから。エリカさんが〝現実〟で親しくしていた『一般男性』について、ユアは今日の〝常夜会議〟で初めて知ったようですね」
「えっと、つまり……」
零一とエリカが〝現実〟で知り合いだったことを、アユは以前から知っていたが、ユアは全く知らなかった。一昨日の昼にユアと図書館で会ったときにも、零一とエリカの関係に探りを入れてきたくらいなので、アユの話は真実だろう。
「どうしてそれが、俺に怒ることに繋がるんだ? ……ああ、アユたちは知ってたのに、自分だけ知らなかったから
「ふふ、そういうことにしておきましょう。それでは零一さん、あとは頼みました」
そう言って笑顔で手を振ったアユは、みるみる表情を強張らせた。先ほどよりも真っ赤に染まった顔を隠すように、ぱっと身を翻して走り出す。
「あっ、アユ……じゃなくて、ユア! 逃げるほどのことじゃないだろ!」
「忘れてください! アユに何か言われたんでしょ! 全部忘れて!」
「お前が拗ねてることくらい、別に恥ずかしがることじゃないだろっ?」
追いかけた零一の台詞で、ぴたりとユアは立ち止まった。図書館が入ったビルのそばで振り返り、涙が滲んだ目で零一を睨みつける。
「私の気持ちなんて、零一さんに分かるわけない! エリカさんと〝常夜〟で再会できて浮かれてる人に、私の気持ちなんて……っ!」
「エリカのことは、関係ないだろ」
喧嘩はもう懲り懲りだと思っていたのに、険しい声を返してしまった。だが、次に放たれたユアの言葉で、零一は何も言えなくなった。
「エリカさんがどうして〝常夜〟に来たのか、そんな大切なことも思い出せない人のお説教なんか、聞きたくない! 零一さんなんて、どうせ〝現実〟の週刊誌でスクープされたあとに、エリカさんと破局してたんじゃないですかっ?」
悲鳴のような涙声が、夜色の世界に響き渡ったときだった。背後から聞こえた女性の声が、柔らかく割って入ったのは。
「ユアちゃん」
はっとした零一とユアは、駅前広場を振り返る。品の良いロングスカートとノーカラーコート姿の女性が、少し離れたところに立っていた。ユアとアユよりも少し長い黒髪が、終末世界の冷たい風にふわりと靡く。零一は、掠れた声で呼んだ。
「
主婦の杉原は、儚げに
「〝常夜会議〟では、びっくりさせちゃったわよね。普段あまり話さない人たちが、大勢集まっていたから。でも、大丈夫よ。誰もあなたを傷つけないわ。〝常夜〟の皆さんは本当に、ユアちゃんとアユちゃんが大切で、可愛くて仕方ないのよ」
ユアの目に溜まった涙が、頬を滑る。歪めた顔を背けたユアは、白い霧が
「零一君、ごめんね。立ち聞きをするつもりはなかったんだけど……心配で様子を見に来たら、つい出過ぎた真似をしてしまって」
「いえ……杉原さんが来てくれて、助かりました」
自業自得の痛みが、胸で
「大丈夫よ。エリカちゃんと一緒にいたら、伝わってくるでしょう? エリカちゃんは、あなたのことを大切に想っているわ」
「でも……俺は……」
「……零一君。私ね、エリカちゃんから聞いたことがあるの。エリカちゃんが〝常夜〟に来たときのことと、お墓参りのときのこと。それから、零一君。あなたのことを」
「……え?」
顔を上げた零一に、杉原は悪戯っぽく微笑みかけた。
「少しだけ、二人で話さない?」
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