3-18 実力者の資質
「
ミキがカウンター席から
「杉原さん、どうしたの?」
「なんでもないのよ、ヒロ君」
「ねえ、どこに行くの?」
「え?」
「どこか、遠い所に行くんでしょ? ママと、おんなじ顔してる。僕、お留守番はもういやだよ」
ぐずり始めたヒロを、杉原が茫然と見下ろした。
「ひー君……〝現実〟の記憶が、戻り始めているの?」
「ヒロが……?」
呟いた零一は、新たに発覚した二つの事実を、受け止めるだけで精一杯だった。
――
――ヒロも、〝現実〟の記憶を取り戻し始めている? つまり、ヒロもまた墓参りに同行する資格を得たということだろうか。隣のエイジを盗み見ても、静かに構えた壮年の男は、思考をおくびにも出さなかった。沈黙を破ったのは、杉原だった。
「……大丈夫よ、ヒロ君。おばさんは、ここにいるわ」
「本当に?」
「本当よ」
杉原は穏やかに答えると、正面に座る榊へ向き直った。
「榊さん。お願いがあります。私がアユちゃんたちに隠した意見を、この場で正直に申し上げます。代わりに、その手記を仕舞っていただけませんか? 手記の内容について話題にするのも、控えていただきたいんです」
杉原が頭を下げると、ミキが榊へ文句を言いたそうに口を開いた。そんなミキを止めたのはアユで、代わりに
「モンスターに対抗するためには、住人たちにとってどんなにつらい出来事であれ、徹底的に調べ尽くして、必要であれば議論を重ねるべきでしょう。ただ、議論に苦痛を感じる住人を、同席させる必要はないと思います。議論に耐えられる住人だけで、考察を深めれば十分ではないでしょうか。その手記に記載された出来事につらさを感じている住人は、杉原さんだけではなく大勢います」
「……そうね。分かったわ。杉原さん、軽率な振る舞いをお詫びします。頭を上げてください。私も、この場では手記の内容に関わる話は伏せますから」
杉原は、ほっとした様子で顔を上げた。だが、「ただし」と榊は付け加えた。
「〝常夜会議〟では伏せますが、この純喫茶跡地を出たら、話は別です。私は自分だけが〝現実〟に帰れたらいいと思っているわけではなく、モンスターの謎も解明したいと考えています。そのためにも、この手記を他の住人たちにも見せて、意見を求める場面が出てくると思います。そんな私の行動まで、制限されたくはありません」
「……分かりました」
杉原は、身体のどこかが痛んだような顔をしていたが、毅然とした目で頷いた。やはり何らかの覚悟を決めた表情が、零一にはどうにも引っ掛かった。
「さっきの私の隠し事ですが……大したことではないんです。なぜ零一君がモンスターに狙われなかったのか、もう一つだけ意見があります。榊さんのご指摘通り、私は何度かモンスターに狙われています。モンスターに繰り返し狙われた住人は、私だけではないそうです。つまり……」
杉原は言葉を区切ると、僅かな間だけ言い淀んでから、はっきりと言った。
「モンスターに狙われやすい人と、狙われにくい人がいる。私は、そんな気がします」
榊は、肩透かしを食らったような顔をした。もの言いたげに柳眉を
「……一理ありますね。ですが、杉原さんの考え方だと、モンスターに知能があると捉えることも可能です。あの黒い霧に、命が宿っているとは考えにくいです」
「でも、実際に人間を『喰う』わよねぇ」
会話に加わったミキが、嫌そうに顔を歪めた。
「突然に現れたり消えたりする現象は謎だけど、標的の住人を追いかける動きも確認されているわ。ヒロ君のケースみたいにね。霧状のアメーバみたいな見た目でも、一応は生き物なんじゃないの?」
「うへえぇ、改めて聞くと気持ち悪いですね。大きな虫みたいで」
アユは身震いすると、ダッフルコートに袖を通した両腕で、華奢な身体を抱きしめた。ミキは顔色一つ変えずに「虫だったら楽でいいわね。丸めた新聞紙で潰してやるのに」と言い切ったので、さすが〝常夜〟の実力者は格が違う。モンスターを害虫扱いする胆力の差を見せつけられて、慄いた零一は舌を巻いた。榊もアユ同様に虫は苦手と見えて、整った顔を引き攣らせてから、気を取り直した様子で杉原に言った。
「杉原さん。貴重なご意見をありがとうございます。ですが、このご意見を隠したかった意図が、私には理解できませんでした。もっと複雑な秘密が隠されていると思ったものですから……差し支えなければ、隠した理由を教えていただけますか?」
「それは……」
杉原が、言葉を閊えさせた。ヒロもさっきから落ち着きを失くしていて、しきりに杉原の顔色を窺っている。零一はヒロに声を掛けようか迷ったが、榊の指摘も気になった。そんな零一の葛藤と懸念をほどくように、杉原はヒロに「大丈夫よ」ともう一度声をかけてから、榊の視線を真っ向から受け止めた。
「私がモンスターに初めて狙われたのは、〝現実〟の記憶の一部を、取り戻したばかりの頃でした」
榊が、目を見開いた。杉原は、寂しそうに微笑んだ。儚げな笑みは、なぜだか酷く美しかった。
「モンスターが暴れたことで〝常夜〟の建物をたくさん壊してしまいましたし、皆さんに助けていただいた際に、私の所為で怪我を負わせてしまったこともあります。私ではなく別の住人の方が、モンスターに狙われているのを見たときも……哀しい表情に、共感できたんです。住人それぞれの過去については知らなくても、かけてしまった迷惑の重みなら、同じ気持ちを経験した私には分かるから」
「杉原さん……」
突然の打ち明け話に、零一も驚きを隠せなかった。ヒロが狙われたモンスター騒動が収束したとき、杉原が泣いていたことを思い出す。あの涙の意味は、〝現実〟で亡くしたという子どもに思いを重ねただけではなかったのだ。杉原は零一を振り向くと、淡い笑みを見せてから、榊と再び目を合わせた。
「モンスターに狙われやすい方って、繊細な方が多い気がするんです。だから、あまり話題にしたくなかったんです。モンスターから命からがら逃れられても、気に病まれる方はいらっしゃいますから。〝常夜会議〟の議事録に残ってしまうのも不安でしたので、つい嘘を。すみませんでした」
「……分かりました。おつらい体験を話してくださり、ありがとうございます」
榊は、殊勝に頭を下げた。長い髪が前に垂れて、榊の横顔を隠している。榊も気づいているのかいないのか、遠目には読み取れなかったが、零一は漠然と直感した。
――杉原の話は、建前だ。痛みを伴う告白からは、嘘ではなく真実を話していることが伝わってくる。だが、真実を語ることで、榊の質問への回答を躱している。
杉原は、何を隠したいのだろう。一見か弱い主婦の女性が、榊の追及から守り抜いた秘密について想像すると、不意にエリカの台詞を思い出した。
――『榊さん。これだけは、わざわざ約束を取りつけなくても、榊さんなら守ってくれると信じていますが、言わせてください。あなたも記憶を取り戻したなら、分かるはずです。〝常夜〟の人たちは、〝現実〟でつらいことがあって、傷ついてきた人たちです』
思い出した理由は、すぐに分かった。杉原が言った『ある言葉』が、意識に引っ掛かっているからだ。昨日六〇二号室でエリカが語った内容と、言い回しは違うが似ているのだ。エリカは、確か、こういった。
――『心も、身体も』
「心と、身体……それに、繊細……」
うっすらと見え始めた点と点は、線で繋げられそうで繋がらない。〝現実〟の夜空に輝く星々のように散りばめられた手掛かりを、どう結びつければいいのだろう。今はまだ分からないが、エリカと杉原が与えてくれた情報は、モンスターの謎を
「榊さん、お話は以上です。申し訳ありませんが、手記を……」
「はい。こちらこそ、配慮が足りず申し訳ありません」
榊は、テーブルに置いていた手記をハンドバッグに仕舞った。安堵の息を吐く杉原の姿が、エリカの姿と重なった。
「そういえば、エリカも……」
あの手記を、六〇二号室で見せられたとき――思い返せば、様子がおかしかった。さっき聞かされたばかりのアユの台詞が、頭の中で不協和音を奏で始める。
――『その手記に記載された出来事につらさを感じている住人は、杉原さんだけではなく大勢います』
「さて、榊さんと杉原さんから意見が挙がったところで、ミキさんとエイジさんにもお話を伺いましょう。お二人は、榊さんたちとは違う考えをお持ちですよね?」
アユが話を振ると、エイジはなぜか渋面になり、ミキは面白がるように笑い出した。
「まあね。私はさっき言ったように、零一君を特別だとは思っていないわ。かといって明確な意見があるわけじゃないから、杉原さんに近い感じかもね」
「零一君が〝常夜〟に隕石を降らせていても、特別ではないと?」
榊がすかさず問いかけても、ミキは平然とした態度を崩さない。「隕石の話は、今回の議題とは関係ないんじゃない?」と言い放ち、沈黙を守るエイジに目を向けている。榊は、納得がいかない様子で食い下がった。
「そうでしょうか。零一君の異質さを、軽視すべきではないと思いますが」
「隕石の件を軽視しているわけじゃないわ。ただ、モンスターを寄せつけないのは、零一君だけじゃないもの」
「あ……ミキさん、もしかして」
零一は、はっとした。一等星の明るさに霞んでいた点と点が、期せずして結びついて線を描く。昨日『
――『〝常夜〟の実力者って何? って顔をしてるわね』
ミキも、昨日のやり取りを振り返っていたのだろう。「ええ、そうよ」と肯定して、改めて〝常夜〟の実力者の定義について教えてくれた。
「エイジさんと宇佐美さんも、モンスターを退けた経験を持つわ。私もね。――四人いる〝常夜〟の実力者のうち三名に、零一君と同じことができるわ」
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