3-16 火が消えたあとの世界

宇佐美うさみさんが?」

 零一は、つい声を上げた。ユアやヒロといった幼い子どもを可愛がっていた老翁ろうおうが、そんなにも重要な話を〝常夜〟に広めた一人だとは知らなかった。そういう実績も含めて、〝常夜〟の実力者ということだろうか。ミキは、首を縦に振った。

「ええ。宇佐美うさみさんは、とんでもない情報を教えてくださったわ。私たちが知らないうちに、〝常夜〟の〝神様〟が代替わりをしていたということをね」

「それは、つまり……」

 宇佐美うさみが〝常夜〟に来たのは一年と六か月前で、『草壁衛くさかべまもる』という〝神様〟が失踪したと思しき時期は二年前。零一が異質さに気づいたとき、さかきも眉をひそめて苦言を呈した。

「〝神様〟が『草壁衛くさかべまもる』さんに継承されていた件について、皆さんは宇佐美うさみさんが〝常夜〟に来るまでの六か月間、誰も把握していなかったのですか?」

「そうよ。なんであんたが不満そうなのよ」

「代替わりの件なら、『草壁衛くさかべまもる』さんの前任の〝神様〟を訪ねるだけで分かったはずです。なぜ半年もの間、こんなにも重要なことに誰も気づかなかったのでしょうか?」

「訊きたくても、訊けるわけがない状況だったのよ」

 足を組み直したミキは、つっけんどんに言い返した。

「さっきも言ったけど、この時期はモンスターの被害が凄まじかったのよ。最低限の食料調達に出かける以外は、みんな自宅に立てこもっていたし、住人の誰が死んで、誰が今も生き残っているかなんて、全く分からなかった時期なのよ。あとで知ったことだけど、『草壁衛くさかべまもる』の前任を務めた〝神様〟だって、この騒動の最中に亡くなったんだから」

「そんなに酷かったんですか……」

 零一は、うめいた。太陽を失った世界で、月明かりしか射さない部屋に引きこもり、命を繋ぐために決死の思いで外出しても、往来にはモンスターが跋扈ばっこしている――アユは〝常夜〟を楽園だと断言したが、ミキの話から想像する過去の〝常夜〟は、まさに地獄だ。ミキはシニカルな笑みを浮かべたが、目は笑っていなかった。

「ええ。私は、食料の仕入れができる住人の家にかくまってもらったし、そんなに危険な目には遭わなかったけどね。……さかきさん、この時代の〝常夜〟について、他の住人に話題を振るのはやめたほうがいいわよぉ? あの時期のことを、あんたみたいな女に根掘り葉掘り訊かれるのは嫌だろうし、夜道で刺されても知らないから」

「ご忠告、痛み入ります」

 榊は、慇懃いんぎんに微笑んだ。零一は「あの、ミキさん」と声をかけて、会話の相手を榊から自分へ無理やり変えた。

宇佐美うさみさんは、他にも何か言ってませんでしたか?」

「ええ、言ってたわよ。〝神様〟の継承の方法は、さっきアユちゃんが言ったように詳細は伝わっていないけど、『草壁衛くさかべまもる』のことなら一つだけ分かっているわ」

 ミキは、ボールペンの先端を議事録に当てた。一年前の〝常夜会議〟時点の〝神様〟として記された、『草壁衛くさかべまもる』の文字を指しているのだろう。

宇佐美うさみさんが例の住人から聞いた話によると、『草壁衛くさかべまもる』という住人は、どうやら二年前に〝常夜〟に流れ着いてすぐに、〝神様〟を引き継いでしまったらしいわね」

「〝常夜〟に来てすぐって……俺とさかきさんとヒロみたいな、新人だったんですか?」

〝神様〟の話だけでも寝耳に水なのに、エイジたちのような〝常夜〟の実力者ならまだしも、よりによって新人が、〝神様〟の座に就いたのか。唖然あぜんとする零一に、「ええ」とミキは頷いてから、口をへの字に曲げた。

「言うなれば、人選ミスね。〝現実〟の記憶が戻っているか、戻っていないかすら分からない人間に、全知全能の神としての能力を継承させてしまったのだから」

「そんな……それって、あの、まずいですよね……?」

「めちゃくちゃまずいわよ。〝神様〟が座るはずの席に、いけしゃあしゃあと〝死神〟が座ってるくらいにまずいわよ。零一君だって選挙に行くときには、立候補している人間が掲げた公約をよく読んでから、清き一票を投じるでしょう?」

「はあ……まあ」

「じゃあ、こういう例えならどう? もし零一君が、明日から全国民のリーダーになってくださいって言われたら、どうする?」

「嫌です。無理です。絶対、俺には向いてません」

 即答した。その大任を断るためのあらゆるネガティブな言い訳だけで、大学の講義で提出したレポートの二倍は余裕で書けるだろう。エイジが呆れまなこで「そう露骨に面倒臭そうな顔をするな」と言ったので、ミキが思いきり吹き出した。

「まあ、そういうことよ。〝神様〟としての器かどうか、はっきり分からない人間に、上に立たれるのは怖いってわけ。いきなり〝神様〟にされた住人だって、突然に降って湧いた大役を、今の零一君みたいに持て余すかもしれないもの」

「なんか、すみません……」

「謝ることじゃないわよ。自分の可能性を制限する言い方は感心しないけど、無責任な『できる』よりも、正直な『できない』のほうが好ましいわ」

 あっけらかんとミキが笑ったので、零一は少しだけ心が軽くなる。消極的な選択を、こういうふうに捉えてくれる人もいるのだ。ミキの大らかさは、エリカに通じるものがある気がした。「ただ」と話を再開させたミキは、気難しげに眉根を寄せた。

「新人が〝神様〟になったのは、やっぱり厄介ね。特に〝常夜〟に流れ着いたばかりの新人は、記憶の大半を失っている場合がほとんどだし、人によっては記憶を取り戻すまでに長い時間をかける場合だってあるわ。屋台の大将たいしょうさんみたいにね」

 大将の名が出たことで、零一は小さな後ろめたさを覚えた。今となっては、はっきり分かる。零一のほうがあとから〝常夜〟に流れ着いたが、おそらく全ての記憶を取り戻すのは、零一のほうが先だろう。そんな状況に焦りを覚えるのは、生きている限り当然だ。アユが「つまり」と口を挟み、要点を再びまとめてくれた。

「――『草壁衛くさかべまもる』さんは『〝常夜〟に流れ着いた新人』であり、『〝神様〟を継承した住人』であり、『現在も消息不明』である。また、『これらは全て、二年前の同時期に起こった出来事』である。……この理解で、間違いありませんか?」

「ええ、ばっちりよ。二年の歳月が流れているから、もし存命なら新人という呼び方は微妙だけどね」

 ミキはボールペンをくるりと回すと、長い語りに終止符を打った。

「私が宇佐美うさみさんから聞いた話は、以上よ。素性が分からない新人に〝神様〟が継承された経緯は不明だし、『草壁衛くさかべまもる』の生死も不明。よって、『草壁衛くさかべまもる』が誰かに〝神様〟を継承したかどうかも、真相は確かめられないわ。でも、この滅びに向かっているのが明らかな風景を眺めていたら、察しはつくんじゃないかしら?」

 沈黙が、月影つきかげで青く染まる純喫茶跡地を支配した。各々が『草壁衛くさかべまもる』という〝神様〟に、あやふやな思いを馳せているのだろう。零一は、ぽつりと呟いた。

「火が消えたあとの世界……」

〝常夜〟という謎のベールに包まれた世界を支えるために、要となる人間の代替わりを聖火リレーのように繰り返すことで、保たれてきた平和と調和。その均衡が崩れたということは、『草壁衛くさかべまもる』という〝神様〟は、脈々と受け継がれてきた炎を誰にも託さないまま蒸発して、どこかの時点で死亡した。少なくともミキたちは、そう考えているようだ。波乱の人生を歩んだ『草壁衛くさかべまもる』は、どんな人物なのだろう。

 だが、そもそも『草壁衛くさかべまもる』は実在するのだろうか? 話のスケールこそ大きいが、現在の〝常夜〟の住人たちは、この口伝くでんを広めた宇佐美うさみを含めて、誰も『草壁衛くさかべまもる』の姿を見ていない。一つだけ納得できたのは、アユの台詞の意味くらいだ。

 ――零一たちが暮らす〝常夜〟は、〝神様〟に捨てられた世界であり、人々の祈りを託した聖火を、二年前に失った。そんな、火が消えたあとの世界、なのかもしれない。

 漫然と思考を泳がせていると、たおやかなアルトの声が耳朶じだを打った。

「……ミキさん、お話は分かりました。『草壁衛くさかべまもる』さんという住人の実在については、宇佐美うさみさんのお顔を立てて、ひとまず実在を信じるという形にしておきます。私も宇佐美うさみさんには〝常夜〟に来たばかりの頃に、大変お世話になりましたから」

 さかきは、カウンター席のミキを見つめて、悠然と微笑んでいる。「もっとも」と続けた声には、明らかな棘が含まれていた。

「正直に申し上げますと、お話を聞かせていただいたことで、私は『草壁衛くさかべまもる』さんの実在を、かえって信じられなくなりました。善良な宇佐美うさみさんが嘘をついているとは思いたくありませんし、誰かに嘘を吹き込まれたのではないかと疑っています」

「榊さん……っ?」

 驚いた零一は、腰を浮かしかけた。榊は、ミキだけを見つめて畳みかけた。

「〝神様システム〟だって同じことです。こちらについては『草壁衛くさかべまもる』さんほど実在を疑っているわけではありませんが、誰かの妄想を語り継いでいる可能性や、皆さんが口裏を合わせて演技をしている可能性も捨てきれません」

「……っ」

 口を挟めなくなったのは、零一も『草壁衛くさかべまもる』に関しては、榊と同じ疑念を持ったからだろうか。――〝神様〟は、本当にいるのだろうか。声にならない問いかけは、〝現実〟で誰かが救いをこいねがうときのような、祈りの言葉の形をしていた。

「さあ、ミキさん。〝神様〟には何ができるのか、詳しく教えていただけませんか? 内容次第では、私も『草壁衛くさかべまもる』さんの実在を信じられると思います」

「待って、榊さん。落ち着いて話し合いましょう? ね?」

 零一に代わって杉原すぎはらが、榊を懸命に諫めている。杉原のストールに包まったヒロは、意外にも大人しく話を聞いていた。六〇二号室でエリカと榊が口論になったときも、ヒロは最初こそ不安そうな顔をしていたものの、あとは眠そうにしていただけで、泣き出したり怖がったりはしなかった。ミキが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ふん、化けの皮が剝がれてきたわね。分かりやすい挑発をしてきたって、あんたにはまだ〝神様〟の特権については教えないわよ」

「どうしてですか? 私ではなく零一君なら、教えていただけましたか?」

「そうかもね」

「ちょっ、ミキさん」

 零一は、大いに狼狽えた。さしもの榊も面食らったのか、唇を結んで黙り込む。その唇が反論の台詞を紡ぐ前に、エイジが取りなすように口を挟んだ。

「墓参りをするまでは、教えない。そんなしきたりが、どうして生まれたと思う?」

 榊が、エイジに視線を転じた。ミキが渋い顔で「言うの? 中途半端に教えても、余計に気になるだけよ」と文句を言ったが、エイジは「仕方ないさ」と低い声で応じてから、榊の視線を受け止めた。

「〝神様〟の特権を巡って、無用な争いが起きるのを防ぐためだ。己に負けかけている人間は、〝神様〟の特権に安易に飛びつく。そんな人間が〝神様〟になろうなんて邪心を抱けば、ここで必死に生きている住人たちの毎日が、台無しにされかねないからな」

「今の私が、己に負けかけていると?」

「違うか?」

「……。いいでしょう。ここでエイジさんの機嫌を損ねたら、お墓参りに連れていってもらえないでしょうから。『草壁衛くさかべまもる』さんの実在を疑うような議論は、この場では終わりにすると約束します。〝神様〟の特権についても、お墓参りの道中で聞かせていただくのを楽しみにしています。ぜひ宇佐美うさみさん本人にも、口伝くでんについて直接お話を伺いたいですね。〝常夜会議〟のあとで、会いに行っても構いませんか?」

「今日はしてもらおう。墓参りの日まで待ってくれ」

「お墓参りには、いつ連れて行っていただけますか?」

「お嬢さん次第だな」

「……。では、明日は?」

「今の言葉は、相応の態度で臨むという返事だな?」

「もちろんです。明日のお墓参りでも、本日の〝常夜会議〟でも、〝神様〟に対する不敬な発言は慎みます」

「そうか。……ということだ、零一君。少し遠出するから、そのつもりでいてくれ」

「は、はい」

 零一が慌てて頷くと、こちらを振り向いたヒロが「零一にいちゃん、遠足? いいなぁ」と羨ましそうに言った。杉原が優しい声で「遠足じゃないのよ」と諭す姿を見ていると、ほんの少しだけ気持ちが和んだ。榊も二人の様子に思うところがあったのか、気まずそうに目を伏せている。そんな榊へ、エイジが重々しく告げた。

「墓参りには、宇佐美うさみの爺さんも来る予定だ。……向こうも、お前さんに会いたがってるよ」

「そうですか。光栄です」

 榊は憂いの表情を消し去ると、再び悠然と微笑んだ。ミキが鬱陶しそうに片眉を上げて、「余裕綽綽よゆうしゃくしゃくな顔をしてるわね」と皮肉を言っても、優美な笑みは揺るがない。

「ええ。もし『草壁衛くさかべまもる』さんが実在するという前提を信じるなら、私が先ほど申し上げた『誰かが『草壁衛くさかべまもる』さんの名をかたり、偽物の〝神様〟をでっち上げた』という推測は、確かに否定されますね。ですが、推測の全てが否定されたわけではありませんから」

 ミキが、嫌悪感を露わに目を細める。その隣ではアユがまたもや肩を竦めていた。零一は意味を汲み取れなかったが、一拍遅れて理解した。

「二年前の時点で〝神様〟だった『草壁衛くさかべまもる』さんが、もし秘密裏に、住人の誰かに〝神様〟を継承していたなら。やっぱりこの中にいるということになりますから。――〝神様〟でありながら、〝常夜〟の窮状きゅうじょうを知っているのに、見て見ぬふりをしている人間が。……いいえ、裏切り者が」

「ああもう、勝手に言ってなさいよ」

「同感ですね。皆さんー、〝神様システム〟の説明は以上です。ここからは一つ目の議題について、皆さんの意見を募っていきますー」

 ミキとアユが〝常夜会議〟を進めたことで、純喫茶跡地にこごった重い空気が動き出した。榊は髪を耳にかけて微笑むだけで、持論を一笑に付されても意に介さない。エイジが、零一を一瞥した。

「零一君、気にするな。君が信じたいものを、信じればいい」

「あ……はい」

 頷いた零一は、榊の台詞を意識的に頭の隅へ追いやった。

 だが、裏切り者という冷えた言葉は、心臓に刺さった鏡の欠片のように残り続けて、なかなか消えてくれそうになかった。

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