3-14 神様システム
「それでは、仕切り直しましょう。皆さん、ご着席くださいー」
カウンター席で居住まいを正したアユが、全員に呼びかけた。ヒロは店内の一番奥へ歩いていき、四人掛けのテーブル席に着く
「ヒロを同席させて、本当にいいんですか」
「遅かれ早かれ、ヒロにも真実を伝えないといけない日は来る。保護者代わりのお嬢さんが〝常夜〟で暮らしているうちに、話しておくのも悪くない」
「真実? それに、
「必ず帰る気でいるだろう。あのお嬢さんは、〝現実〟に」
――来た。零一は、身構える。〝常夜〟から〝現実〟には、どのようにして帰るのか。それは零一も疑問に思っていた。ただ、エイジの表情の険しさが気になった。
「エイジさんは……いえ、〝常夜〟の皆さんは。榊さんが〝現実〟に帰ることを、どういうふうに受け止めてるんですか」
榊が〝現実〟に帰ることに反対なのか、とストレートに訊くのは
「〝現実〟に帰りたい住人を、俺たちは止めようとしているわけじゃないさ。帰りたいなら、帰ればいい。協力が必要なら手を貸すさ。ここにいる全員が、ミキも含めてそう思っているのは間違いないさ」
エイジの笑みが、陰る。榊へ視線を投げた横顔は、再び険しいものに戻っていた。
「帰れるものなら、な」
「え?」
訊き返そうとしたときだった。視界の端に、大判のストールとロングスカートが翻ったのは。零一の意識が、そちらに逸れる。
まだ着席していなかった
「榊さん、ヒロ君。お席をご一緒させてください」
普段はおっとりしている杉原が、頬を仄かな緊張と勇気で上気させて、二人の返事を待っている。ヒロは丸い目をきょときょとさせて、杉原の顔を見上げていた。榊も
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。……ヒロ君。おばさん、お隣に座ってもいい?」
「……」
ヒロはしばらくのあいだ黙ってから、「いいよ!」と意を決したような大声で答えて、窓際の席へ移動した。
「ありがとう」
杉原が椅子に座ると、ヒロは肩をもじもじと左右に揺り動かした。親子のように並んだ二人を、カウンター席からアユとミキが、微笑ましげに見守っている。連帯感に気づいた零一も、
〝現実〟で子どもを亡くした杉原と、〝現実〟の親元を離れて暮らすヒロ。
欠け合う者同士、惹かれ合うものがあるのかもしれない。――その欠けが、〝現実〟で暮らしていた頃と同じ形で埋まる日は、決して来ないと知っていても。
やるせない痛みを感じたとき、ヒロが小さなくしゃみをした。低い位置にある顔を、杉原が気遣わしげに覗き込む。
「ヒロ君、寒くない?」
「寒いよ!」
ヒロは、当然だと言わんばかりに主張した。威張って言うことだろうかと零一は呆れたが、ヒロの言葉は意外だった。真冬の〝常夜〟を真夏の服装で
「その格好だと、風邪を引くわ。これを……」
「やだ! 着ない!」
叫んだヒロは、きっ、と杉原を睨みつけた。
「ママがくれた服しか、着ない!」
拒絶の声が、ぱしんと室内の空気を冷たく叩く。
「本人がこう言っていますから、お気遣いなく……」
「ですが……」
杉原が、心配そうに眉を曇らせた。零一の隣でエイジが溜息を吐いてから、「杉原さんでも駄目だったか」と呟いた。
「俺たちも、ヒロの痩せ我慢をただ見てるだけじゃないさ。毎日のように無理やり厚着をさせてきたが、脱ぐわ暴れるわの大騒ぎで、最後は好きにさせてるのさ」
エイジの声が聞こえたのか、カウンター席からアユが「その件は、私たちからも説明しますね」と口を挟んだ。
「零一さんも、衣服は〝常夜〟の古着屋さんで調達していますよね。あの服、どういう基準でお店に並んでいると思いますか?」
「どういう基準って……あ、まさか」
〝常夜〟暮らしに慣れたことで、すぐに結論を導き出せた。アユの隣で、ミキが苦笑した。
「あの古着屋の服は、現在までの〝常夜〟の住人たちが、〝現実〟で着ていたものがベースになっているみたいね。その証拠に、アユちゃんはこの通り、中学校の制服からコートまで、冬服は欠けなく揃っているもの」
「えっへん」
無意味に胸を張ってポーズを決めるアユを無視して、零一は「それじゃあ、ヒロは」と言葉を重ねた。
「〝現実〟で着ていた、自分の服しか着ないつもりで、こんな格好を……?」
「そうよ。ただ、古着屋に流れ着いた〝現実〟の服には偏りがあって、ヒロ君のものは夏服ばかりなのよねぇ。運良く冬服を見つけても、サイズが小さすぎるのよ」
「実は私のセーラー服も、夏服はないんですよね。ひー君のつらさは分かりますよ」
「アユちゃんの
ヒロの母親は、どんな人物なのだろう。〝現実〟で眠り続ける我が子を、どんな気持ちで待っているのだろう――そんなふうに考えてから、はっとした。
待っているとは、限らない。その可能性に、気づいてしまった。
不自然に痩せた軽い身体、実年齢よりも幼く感じる言動、伸ばして一つに縛った黒髪、足りない衣服……不穏さを物語る材料なら、すでにいくつも揃っている。
「……エイジさん。ヒロの親って、どんな人なんでしょうか」
「さあな。……いつかそのときが来た時に、ヒロを〝現実〟に帰しても大丈夫なのか、それも俺たちが考えていかなきゃならない課題の一つだ」
そう言って、エイジは榊たちのテーブルを眺めると、不意に
杉原は、先ほど拒絶されたストールを大きく拡げて、両肩にマントのように被っていた。それをヒロの座る右側だけ持ち上げて、優しく微笑んで言ったのだ。
「ヒロ君。着るんじゃなくて、こうするならどう? 一緒に入ってみない?」
「……」
ヒロは唇を引き結んで黙ってから、「いいよ!」と喧嘩でもしに行くような大声で答えた。「はい、どうぞ」と杉原が拡げたストールの片側へ、孤高の野良猫のように警戒を怠らない素振りで寄り添う。それから、杉原をじっと見上げた。
「あったかいね」
「そうね。あったかいね」
「……僕、これなら、かぶってもいいよ」
「それなら、おばさんのストール、ヒロ君にあげるわ」
ヒロはこくりと頷くと、杉原の腕に頭を寄せて黙り込んだ。一連のやり取りを見守っていた榊は、瞳に静かな驚きを湛えている。やがて諦めを染み込ませたような笑みを作り、何も言わない。そんな榊に代わって、エイジが言った。
「杉原さんを連れてきて、よかったな」
「……はい」
零一が心からの同意を込めて頷くと、一段落したと見做したのだろう。アユがもう一度カウンター席から声を張った。
「それでは、第百四十五回〝常夜会議〟を開催します。事前に皆さんから挙がった議題の中から、今回は二つに絞りました。その他の議題は、別の機会に回します」
「アユちゃん。その二つの議題とやらに、私が提案した多数決は、どうやら入っていないようね」
榊が、嫋やかに微笑んだ。先ほど見せた
「アユ。〝常夜会議〟は、今までに百回以上も開かれてきたのか?」
「はい。ただし、この百四十五回という数字は、記録をつけるようになってからの数字ですね。年号や日付の記載がないのは仕方ありません。今日が正確には何月何日なのか、〝常夜〟で把握できている人なんていませんからね。前回の〝常夜会議〟がいつ頃だったのか、この中に分かる方はいらっしゃいますか?」
「一年前の冬よ。たぶんね」
ミキが、アユの隣で答えた。赤いネイルが施された手の中で、いつの間にか握られていたボールペンをくるくると
「エリカちゃんが〝常夜〟に来るよりも少し前くらいだったかしら。そのときには、アユちゃんみたいに仕切ってくれる人なんていなかったから、会議なんて名称は合わないわね。みんなで生存を確認し合って、適当にお茶して解散しただけよ」
「あれぇ? でも、前回の〝常夜会議〟について書かれたページに、名前が書いてありますよ? 『クサカベ・マモル』って」
「くさかべ、まもる……?」
名字も、下の名前も、零一は初めて耳にした。「はい」と答えたアユは、月明かりの斜光に議事録を翳して、小首を傾げた。
「草花の草、部屋の壁に、衛星の衛で、『
「名前の読み方は合ってるわよぉ。この方は、
ミキが問いかけに応じると、アユから議事録を受け取った。
「この議事録って、記入欄が独特なのよね。アユちゃんは半年前に〝常夜〟に来たから、見慣れなくても無理ないわね。このページの『
「あ、本当ですね。それじゃあ、この非常に紛らわしい氏名の記入欄は何ですか?」
「神様の名前を、記す欄だ」
エイジが、
「神様って……そういえば、さっきアユが話してたな」
〝常夜〟には神様が存在し、その神様の名は――
「なんか……普通の名前ですね」
零一は、正直な感想を述べた。神様という浮世離れした存在と、俗世を生きる人間の名前が結びつかない。ただ、久しぶりに日本人のフルネームを聞いたとき、頭の奥がずきりと痛んだ。何が頭痛を呼んだのか、悔しいが今は突き止められない。
「なるほど。神様の名前は、私も初めて知りました」
アユが、零一を振り向いて微笑んだ。含みのある笑みだった。意図を察したのか、ミキも心得た様子で笑っている。
「それではミキさん、今回の〝常夜会議〟でも、神様の欄には『
「どうかしらねえ。みんなはどう思う?」
「いない神様の名前を書くっていうのは、どうだかな」
エイジも二人の思惑に乗ったのか、肩を竦めて会話に加わった。
――いない? 神様が? 話を注意深く聞きながら、零一はアユの台詞を振り返る。
――『お墓です。〝常夜〟を創り、〝常夜〟を守り続けていく。代々受け継がれたその役目を、継承したはずだったのに――もうこの世界から消えたと見做されている〝常夜〟の神様が、永遠の眠りについたと語られている場所です』
「それでは、一つ目の議題に移らせていただきます」
話の流れを本題に導けて満足したのか、アユは伸びやかに宣言した。
「――火が消えたあとの世界で、私たちがこれからどう生きていくか。この議題について、皆さんの考えをお聞きしたいと思います。日々の心配事や悩み相談、問題提起など、なんでも結構ですので、意見をどんどん挙げてくださいね。そのためにも、まずは〝常夜〟の新人の皆さんに、〝神様システム〟について軽く説明させていただきます」
「……神様システム? それに、火が消えたあとの世界、って……?」
先ほどの『
「零一さん。そもそも〝常夜〟の街並みは、どうしてこんなにボロボロなんだと思いますか?」
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