3-12 純喫茶跡地『最果てにて』
「墓……? 〝常夜〟の、神様の……?」
予想外の言葉に面食らう零一へ、アユは薄く微笑むと「続きは、会議でお話しましょう」とだけ答えて、木製扉を押し開けた。
カラン、と
店内は広く、正面のカウンター席を囲むように丸いテーブル席が配置されていた。座席ごとに吊るされたペンダントライトは見立て通り役目を終えていて、窓から射す月光の反射が照明の代わりを
そんな純喫茶跡地『
「零一君、おはよう」
落ち着いたアルトの声が、零一を呼ぶ。店内の一番奥に位置するテーブル席で、白いトレンチコートに細身のパンツスタイルの美女が立ち上がった。癖のないセミロングの黒髪が、ハイネックニットの胸元に垂れている。切れ長の目が、
「
「あら、ごめんなさいね。今のあなたは、アユちゃんね」
「そうですよ。司会進行の役目は、私が担いますから」
「〝常夜会議〟は、五分後よ。〝常夜〟をモンスターから守る音楽を発信しているヒーローで、本日の司会進行役のあなたは、もう少し早く来ていると思っていたわ」
「準備は昨日のうちに済ませましたから、問題ありません。それに、ヒーローは遅れてやって来るのが、〝現実〟の小説やドラマ、アニメの
「……あなたの堂々とした態度や、その身体にそぐわない聡明さが伝わる喋り方は、本の虫のユアちゃんが持つ膨大な知識をデータベースにして、人格を構成しているのかしら。〝常夜〟に隕石を呼んだ零一君も気になるけれど、あなたも興味深い存在ね」
「あの、榊さん。……そんな言い方は、よくないと思います」
零一は、アユを
「私はへっちゃらですよ、零一さん。私は私の存在を、誰よりも強く信じていますから。似たような言葉だって、〝現実〟では百回くらい言われていますし」
「慣れてるから別にいい、って問題でもないだろ」
そう
「ありがとうございます。今回はお互いさまなところがありますし、本当に大丈夫です。ユアが同じように言われたときは、庇ってあげてくださいね」
「あなたたちの中で、私はすっかり悪者ね」
窓際の月光を斜めに浴びた榊は、肩を竦めた。さっきのアユの仕草を真似たのだと、零一は瞬時に見抜く。他人のマイナスの感情に敏感なところは、〝現実〟で生活していた頃から変わらない。息苦しさから逃れるように呼吸すると、仄かな珈琲の残り香が、埃っぽさとないまぜになって鼻孔を抜けた。
「気分を害したのなら、ごめんなさいね」
「いえいえ。こちらこそ、すみませんでした。榊さんが本当に一昨日までの榊さんと違っていて、私も驚いてしまったんです」
「あら、アユちゃんでも動揺するのね。私たちはもっと話し合って、互いを分かり合う必要がありそうね。……零一君、こちらへ。席をご一緒しましょう?」
榊が四人掛けのテーブル席を腕で示して、悠然と微笑んだときだった。渋さを感じる低い声が、横合いから割り込んだ。
「悪りぃな。零一君は先約があるんだ。なぁ?」
零一が立つ入り口付近、古風なレジスターの裏側に位置する席で、壮年の男がひらりと片手を上げた。鍛えられていると分かる痩せ型の身体を、厚手のジャンパーに包んでいる。テーブルの懐中電灯が、白髪交じりの短髪を照らしていた。
「エイジさん」
ほっとした零一は、助け船に飛びついた。榊に軽く頭を下げて、そそくさとエイジの隣の席に滑り込む。榊は微笑を崩さないまま嘆息すると、元々座っていた席に腰を下ろした。アユも零一についてくるかと思いきや、カウンター席の端から厨房に入った。司会進行役として、室内を見渡せる配置についたのだろう。
「エイジさん、ありがとうございました。他の皆さんは?」
今のところ、ここには零一とアユ、榊とエイジの姿しか見当たらない。本来であれば参加していたはずのエリカを足しても、あまりにも人数が少なすぎる。エイジは零一の内心を
「集まった住人が少ないから、あのお嬢さんも気が立ってるんだろうな」
「ああー……」
そんな気はしていた。アユと静かに火花を散らしていた榊の様子は、笑みで平常心を
「安心しな。ミキと杉原さんは、じきに会議中の飲み物を持ってくるから」
「飲み物? ここは純喫茶跡地なのに、外から持ってくるんですか」
やはり『最果てにて』のマスターは、すでに〝常夜〟を去ったのか。だが、「まあな」と続いたエイジの台詞で、零一は予想が外れたことを知った。
「ここのマスターは、そもそも〝常夜〟に流れ着いてなんかいないからな。怪我も病気もせずに生きているなら、今も〝現実〟の『最果てにて』で働いているだろうさ」
「えっ? そうなんですか?」
「ああ。本当の主に代わって仕入れをする物好きなんかいねえし、材料がなけりゃ当然、客に出すものなんか何もない」
エイジは傷んだメニューを手に取ると、適当に開いて眺めている。零一も一緒に覗き込むと、フードメニューにはグラタントーストにフレンチトースト、フルーツサンドにホットケーキと、見ているだけで腹が減りそうな文字が並んでいた。
「この『クロックマダム』って、どんな料理ですか」
「食ったことないのか」
「えっと……たぶん」
こういうとき、記憶喪失者たちの返答は、否応なく歯切れが悪くなるに違いない。エイジは気にした様子もなく頷くと、平坦な口調で言った。
「クロックマダムを知らないなら、クロックムッシュも知らないな?」
「は、はい」
「まず、クロックムッシュってやつは、チーズやハムを挟んだパンを、バターを引いたフライパンで焼いて、ベシャメルソースとかを塗った料理だ。『ムッシュ』なんて名前がついた由来は諸説あるらしいが、
エイジは投げやりに言うと、メニューを手放して余所見をした。
「このクロックムッシュに、目玉焼きをのせたやつが、クロックマダム。片方がムッシュだから、もう片方はマダムにしたってところだろうさ。これも諸説あるらしいがな。……なんだ? 人の顔をじろじろ見て」
「いや、その……詳しいんですね。エイジさん。ちょっと意外で……」
本当は、かなり意外だった。エイジは、虚を
「詳しくて当然だ。俺が〝常夜〟に与えた影響は、この場所なんだからな」
「……え?」
「常連だったんだよ。〝現実〟で十年以上前に、ガキを連れて出ていった女房と、よく行った店さ。女房とガキがいなくなってからは、朝飯を作るのが面倒臭い休日なんかに、よくそいつを食ってたってわけだ」
「……」
今度は、零一が黙った。こちらを振り向いたエイジは、辟易した顔になった。
「なんだ? 俺が所帯を持ってたのが、そんなに意外か?」
「いえ、そんなわけでは……ただ、あの、なんて言ったらいいか分からなくて」
「……昔、仕事で結構でかい怪我をしたときに、女房に言われたのさ。危険な仕事をする旦那についていけない、とかなんとか……ったく、
「それじゃあ、ここは……ご家族との思い出がつまった喫茶店なんですね」
「どうだかな。少なくとも、俺が〝常夜〟にこの店を連れてきちまった感傷に、女房とガキは関係ねえはずだ」
「え? でも……」
実際に、純喫茶跡地『最果てにて』は、こうして〝常夜〟の駅構内に出現している。エイジの配偶者や子どもへの思い出が理由でないなら、他に理由があるのだろうか。気になったが、立ち入った質問は憚られた。エイジは再びそっぽを向いて、レジスターのそばですっかり枯れた観葉植物を眺めている。
「〝常夜〟の連中も、がっかりしただろうな。せっかく〝常夜〟に純喫茶ができたってのに、そいつを連れてきた人間は大工で、
「そんなことは……エイジさんが、大工として皆さんに力を貸してくださっている話は、聞いています。『
ふと思い出して、零一は訊いた。
宇佐美という〝常夜〟最高齢の
「
「忙しい?」
「宇佐美の爺さんと零一君は、近いうちにまた会ってもらうさ。あの場所でな」
「あの場所って……お墓、ですか」
「なんだ、知ってたのか」
「はい。さっきアユから……詳しい話は、まだですけど」
「そうか。
「あの爺さん、も……?」
その言い方が、引っ掛かった。宇佐美の他にも、いるのだろうか。エイジにこう言わしめる、頑固一徹な住人が。
知り合いの顔を一人一人思い浮かべている途中で、カラン、と再び扉のベルが鳴った。
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