3-11 廃駅と永遠の眠り

 噴水跡地を見下ろす廃駅はいえきは、色彩が抜け落ちたような灰色の煉瓦造りで、元々は美しい駅舎だったに違いない。

 しかし、今では天井の大半が崩落ほうらくし、残った屋根に穿うがたれた穴も増えている。零一が〝常夜〟に呼び寄せた隕石が、また廃駅を傷つけたのだ。唇を噛みしめて、改札口に繋がる階段を上った。隣に並んだアユが、明るい声で言った。

「零一さんは、廃駅に入るのは初めてですか?」

「いや、〝常夜〟に流れ着いた次の日に、エイジさんたちに自転車を見繕ってもらってから、この辺りも探検したけど……」

 言いながら、眩暈を覚えて、額を抑えた。お馴染みの頭痛とは、感覚が異なっている。フラッシュバックの気配もない。むしろ、この症状は逆だった。

〝常夜〟を自転車で一周した日の詳細を、どうにも思い出しにくい。代わりに現在の感覚は、今までになく研ぎ澄まされていた。肌に触れる空気はえていて、冷たい砂の匂いが混じっている。〝現実〟の冬を模したものの、完全には真似できなかった。そんな感想を、初めて抱いた。

「……そういうことか」

 零一は、独りちる。世界から受け取る情報の解像度が、以前よりも上がっていた。夢のようにふわふわと甘くはぐらかされていた現実感が、完全に近い状態まで戻っている。初めて廃駅を散策したときには、外壁の色なんて気にも留めなかった。昨日『雹華ヒョウカ』に現れたエイジは、すぐに零一を見抜いたのだ。

 ――『お前さん、昨日までよりも、人のことをちゃんと見るようになったな』

 これも、〝現実〟の記憶が戻り始めた影響だろう。〝常夜〟に来たばかりの自分がどれだけぼんやりしていたか、今となってはよく分かる。判断力も麻痺していた頃の散策では、観察に漏れがあるかもしれない。飛龍フェイロンの根城である地下だって、昨日初めて知ったのだ。頃合いを見てもう一度、〝常夜〟を探索したほうがいいだろう。

 階段を上り終えると、霧雨のように降る月光のシャワーが、普段より明るく感じられた。天井で剥き出しになった夜空が、寂れた切符売り場を照らしている。ベンチと瓦礫が点在するタイルの先では、改札口が砂塵さじんをかぶっていた。ゲートの向こうに横たわる線路が、ここからでもよく見える。零一は、瞠目した。以前にも線路に降り立って調べたのに、あのときには気づかなかった。

「あの線路、一本しかない」

「はい。単線です。というより、片道なんです。〝常夜〟発の電車は、誰も見たことがないそうです」

「……。じゃあ、〝常夜〟行きの電車は?」

「一度だけ、二年前に。〝常夜〟の住人たちに目撃された例があります。乗客は一人だけで、その人物が電車から降りると、みんなが目を離した隙に、電車は跡形もなく消えたそうです。その人物は、今も〝常夜〟で暮らしていますよ」

「今も? つまり、それは……〝現実〟から〝常夜〟に、新しい住人が流れ着いた瞬間だったってことか?」

「ええ、おそらく。こういうパターンもあるんですね。それまでに確認されてきた例は、噴水跡地に立っていた零一さんや、マンションのベランダにいたひー君みたいに、『気づけばそこにいた』というものでしたから、私も驚きました」

 アユは不可解そうに説明してから、気を取り直した様子で言った。

「なぜその電車に乗っていたのか、本人は覚えていません。きっと『〝現実〟発〝常夜〟行きの電車』だったんだろうって、住人の皆さんは言っていました」

「……電車に乗っていた、その住人は誰だ?」

「零一さんも、知っている人ですよ。名前は……あっ、もう誰か先に来ていたんですね。〝常夜会議〟を開く純喫茶跡地は、あちらです」

 アユにとって、この話題はさして重要なものではないようだ。駅構内を右に曲がり、ローファーの靴音を反響させて歩き出す。突き当りの壁に並んだ窓ガラスが、荒廃した駅構内を映している。そのうちの一つに、ぼうと橙の光が灯っていた。

 先に来た誰かが、懐中電灯を点けたのだろう。飛龍フェイロンの店のように、今も電灯が使える場所は、〝常夜〟では貴重なのかもしれない。零一もアユを追って、純喫茶跡地に向かった。さっきの話の続きは、別の機会に訊けばいいだろう。

 重厚な木製扉には、ステンドグラスのような色ガラスの窓が嵌っていた。白いインクの細い文字で、『最果さいはてにて』と店名が書かれている。

 この店も、〝現実〟のどこかには存在するのだろうか。ほこりで曇った色ガラスから、店主はすでに〝常夜〟のどこにも居ないことを、誰に言われなくとも直観した。

「〝常夜〟から消えた住人は……どこに行くんだ?」

 同じ質問を、零一は自転車屋でエイジたちに投げかけた。あのときに教えてもらえなかった理由も、今なら分かる。

「〝常夜〟に来たばかりの俺は、記憶の大半を失くしてたから……ラジオ局で台本を読めなかったときみたいに、まだ受け取れない情報が多すぎたんだ」

 木製扉を開きかけたアユが、零一を見上げた。零一は、独白を続けた。

「今までに俺が、アユたちと会話したときだって……たぶんだけど、時々は言葉が聞こえてなくて、無視する形になったはずだ。そんな状態の新人に、先輩の住人たちが、最初から多くのことを話すわけがなかったんだ」

 もしそうだとしたら、〝常夜〟の住人たちには親切にしてもらったのに、不義理な態度を取ったかもしれない。そんな罪の意識を持てるくらいには、受け取れるものが増えた今こそ、最初の疑問に立ち返る時が来たのだろう。

 ――〝常夜〟を去った住人たちは、〝現実〟に帰還できただろうか? 意識の暗がりで、闇が動いた気がした。胃の底が、しんと冷える。こんなものを全て思い出して、すんなり〝現実〟に帰還できると信じられるほど、単純な性格はしていない。

「俺は、少しずつ記憶を取り戻してる途中だから、その辺りについて考える時間があったけど……さかきさんは、どうなんだろうな」

 昨日六〇二号室で聞いた話によると、榊は一回のフラッシュバックで、〝現実〟の記憶を全て取り戻した。混乱と焦燥に畳みかけられる感覚は、零一の比ではないはずだ。住人たちが配慮して情報を伏せたことすらも、ひょっとしたら疑心暗鬼を育てる材料になったかもしれない。そう考えれば、エリカへの挑戦的な態度も納得できる。

「零一さんは、やっぱり賢くて優しい大学生だったんですね」

 アユは、零一を見上げて軽やかに笑った。初めてラジオ局を訪ねたときに、同じ台詞を言われたことを思い出す。つい先日のことなのに、ずいぶんと長い時間が流れた気がした。

「私たちは、敵同士ではない。それを分かり合うための会議になればいいですね」

「……なんか、アユもエイジさんも、笑い方が時々怖くないか?」

「気の所為ですよ。ただ、零一さんみたいに、榊さんのことを考えてあげられる人も必要ってことです。焦らなくても大丈夫ですよ、零一さん」

 落ち着いたトーンのまま、アユは声のボリュームを少し落とした。

「エイジさんから聞きましたよ。〝常夜会議とこよかいぎ〟が終わったら、あの場所に行くって。零一さんが知りたいことは、あの場所に着くまでに教えてもらえます」

「あの場所? ああ、確か……」

雹華ヒョウカ』で火鍋ひなべを待つ間に、エイジがそんな話をしていた。そのときエリカは、複雑な表情で黙っていた。エイジの話を、エリカは歓迎していなかった。

「でも、どこに行くかは聞いてないんだ。アユは知ってるのか?」

「ええ。私も半年前に行きましたから。〝常夜〟に来た住人たちの、通過儀礼のようなものですね。ああ、神聖な場所にお参りするのに、こんな言い方はいけませんね」

「神聖な場所……?」

「はい」

 アユは頷くと、笑みを収めて、神妙に言った。

「お墓です。〝常夜〟を創り、〝常夜〟を守り続けていく。代々受け継がれたその役目を、継承したはずだったのに――もうこの世界から消えたと見做されている〝常夜〟の神様が、永遠の眠りについたと語られている場所です」

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