3-10 思わぬ足止め

 翌朝の午前九時を過ぎた頃、予想外の使者がマンション前に襲来した。

雹華ヒョウカ』の食材で作った野菜炒めを平らげて、台所で食器を洗っていたときだった。青い月光が射す窓辺から、零一は大音声で呼び立てられた。

「――『零一さぁーん! お迎えに上がりましたぁー!』」

 底抜けに明るい少女の声が、キィンと喧しくハウリングする。ぎょっとした零一がシンクに皿を落としかけると、エリカも洗面所から顔を出した。

「アユちゃんの声だ」

 アッシュグレーの長い髪は、すっきりとポニーテールに結われている。モッズコートの下も、ブラウスとカーディガンにボトムスという、珍しく落ち着いたスタイルだ。今日の〝常夜会議とこよかいぎ〟に備えているのだろう。零一も昨日の昼食後に、古着屋でシャツとズボンを追加したので、エリカから見たら多少は新鮮に映るかもしれない。ともあれ、窓を開けた零一とエリカは、バルコニーから下界を見下ろした。

 マンションの入り口には、セーラー服にダッフルコート姿の女子中学生が立っていた。有り余る元気を振りまく右手には、大きな拡声器が握られている。零一はどっと疲れたが、エリカは笑顔で手を振って、音楽活動で鍛えられた肺活量で返事をした。

「アユちゃん、おはよー! 迎えに来てくれて、ありがとー! すぐ行くね!」

「――『はぁい、待ってますー!』」

「あのなぁ……なんだってこんな、近所迷惑なやり方で……」

「まあいいじゃん。この近くには、あたしたち以外に住人はいないし」

「それにしたって、わざわざあんな所から呼ばなくても、普通に家まで来れば……」

 そこまで口にして、はたと気づいた。この六〇二号室の前まで来れば、おとないを入れるために、当然インターホンを押すことになる。

 複雑な気持ちになった零一は、とにかく急いで支度を終えて、エリカとともに一階に下りた。外で待っていたアユに、憮然ぶぜんとした口調で問い質す。

「誰から聞いた?」

「ひー君ですよ」

 さらりと答えたアユは、肩口で切り揃えた黒髪を揺らして歩き出した。訊かれたこと以外には何も言わないところが、アユなりの配慮なのだろう。零一は頭を抱えた。

「ヒロの奴……」

 零一が〝現実〟の記憶のフラッシュバックで倒れたことは、〝常夜〟じゅうに広まっているらしい。起き抜けにエリカとひと悶着あった際に、ヒロが寝ていて本当によかったと思う。やり取りを聞かれていたら、何を言いふらされていたか分からない。

「アユちゃん、今日はよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いしますー」

 アユは元気よくエリカに答えると、舗道の脇に寄せられた瓦礫の上に、ひょいと身軽に飛び乗った。危なげない身のこなしで、瓦礫を飛び移って進んでいく。

「アユ、普通に舗道を歩けよ。そのうち転ぶぞ」

「大丈夫ですよー。あっ」

 言ったそばから、バランスを崩したアユは、瓦礫の山から転げ落ちた。

「うわっ、大丈夫か?」

 慌てた零一は、駆け寄ろうとして、足を止める。アユは舗道で膝を抱えて「うわああー、痛いですー」と騒いでいたが、台詞せりふはラジオパーソナリティとは思えぬ棒読みだ。零一は、胡乱な目で見下ろした。

「……何してるんだ?」

捻挫ねんざしたかもしれません。今すぐ手当てが必要ですー」

 白ける零一を無視したアユは、ちらっとエリカに視線を投げた。エリカは心配そうに「大変! 大丈夫?」と言ってアユに駆け寄り、肩を貸した。

「エリカさん。すみませんが、エリカさんの家で少し休ませていただけますか? あと、一人は怖いので一緒にいてください」

「おい、無人のラジオ局に半年も寝泊まりしてる奴の台詞か?」

 零一はげんなりしたが、エリカは怪しさ満点の演技を非難しなかった。アユをしっかりと支え直して、駅前広場に続く道を進もうとする。

「大丈夫だよ、アユちゃん。あたしがついてるから、一緒に行こう?」

「ええー、行くんですかぁ?」

「もちろん。大事な日だもん。あっ、でもアユちゃんはやっぱり〝常夜会議〟に出るのがつらい?」

「いいえ、全然」

 アユは、けろりと答えた。それから、ぼそりと小声で言う。

「……うーん。作戦その一は失敗ですね」

「え?」

「うわああー、見てくださいエリカさん。道が瓦礫で塞がっています。駅前広場に行けませんー」

 アユは、今度は前方を指さした。確かに普段よりも舗道に瓦礫がせり出しているが、頑張れば通れないほどではない。瓦礫の不自然な寄り集まり具合に作為さくいを感じた。

「アユ……何を企んでるんだ?」

「これはもう、私とエリカさんはマンションに戻るしかありませんね。あ、零一さんは頑張ってよじ登って、〝常夜会議〟に行ってくださいー」

「おい……」

「アユちゃん、これくらい平気だよ。遠回りになるけど、別の道があるから」

 エリカは、瓦礫の山に背を向けた。「それに、マンションに帰るときは、零一も一緒だよ」と言ったので、アユが唇を尖らせた。

「それじゃあ、〝常夜会議〟に出る人がいなくなっちゃうじゃないですかぁ」

「そうかもね。……でもね」

 青白い月光が、タクトのように揺れるアッシュグレーの髪をつやめかせる。エリカは屈託なく笑うと、不意打ちの無邪気さで言ったのだった。

「あたし、零一と一緒にいたいんだ」

 強い郷愁が、胸を打つ。本心を隠された所為で、忘れていた。本来のエリカは、感情表現がストレートな少女なのだ。大学で出会ってから今までの間、零一に届けられた言葉たちは、裏表のないものばかりだった。色違いの隕石を捜していたときだって、エリカはひたむきに思いを語っていた。

 ――『だって、隕石について調べたら、零一が〝常夜〟に来る直前のことが判るかもしれないでしょ?』

 ――『あたしも知りたいんだ。〝現実〟の零一のこと』

 零一との話し合いを拒絶しても、エリカの中で〝現実〟の零一を知りたいという願いは、今も変わっていないのだ。

 それなら、なぜ零一に嘘をつくのだろう? ――疑問は結局、記憶を取り戻さなければ解き明かせないという堂々巡りの結論を、何度でも零一に突きつける。

「……ああ、作戦その二も失敗ですね。こうなったら、最終手段です」

 アユが、またしても小声で言った。そして、朽ちかけた街路樹の陰を指さすと、「うわああー、見てくださいエリカさん。怪我人です!」と棒読みで騒ぎ出した。

 どうせ、くだらないハッタリだろう。そう高を括って適当に眺めると、油断した零一は、腰を抜かしそうなくらいに吃驚びっくりした。

 暗がりに佇んでいた人物も、びくっと身体を竦ませた。おろおろし始めた挙動不審な住人は、巨大な岩かと見紛う大男だ。エリカが、目を丸くした。

飛龍フェイロンさん? どうしたんですか? 『雹華ヒョウカ』の近く以外には、滅多に来ないのに」

 飛龍フェイロンは、たじたじと後ずさった。服装は『雹華ヒョウカ』で動き回っていたときと似たような薄着で、何者かによって仕事中にここまで駆り出されたのだと一目で判る。腕まくりした右腕には、なぜか包帯がぐるぐると大袈裟に巻きつけられていた。

「エリカさん、大変です! 今すぐ手当てが必要ですー」

「いや、作戦その一とネタが被ってるし、手当ても済んでるだろ……」

 間髪を入れずに、零一は指摘した。アユも飛龍フェイロンも、それぞれが己の得意分野では優れた能力を発揮するのに、演技は壊滅的に下手だった。

 そもそも、アユも飛龍フェイロンも――どうして、エリカの邪魔をするのだろう? そう率直に訊ねかけたとき、モッズコートの細腕に制された。

「エリカ。いいのか?」

「んー、よくはないけど、こっちも譲歩できるところは譲歩したいなと思って」

 三文芝居を立て続けに見せられて、エリカは折れたようだ。仕方なさそうに苦笑して、アユに問う。

「アユちゃん。一応確認だけど、榊さんの差し金で、そんなことをしてるわけじゃないんだよね?」

「もちろんですよ。この顔ぶれが、それを証明しています」

 ずっと棒読みだったアユの台詞に、明るい張りが戻ってきた。確かに、エリカの行方を阻む二人は、〝現実〟ではなく〝常夜〟で生きたい者たちだ。

「エリカさん。私たちを信じて〝常夜会議〟に参加せずに、零一さんを待っていただけませんか?」

「ふーん、零一は連れていくんだ」

「連れていかないと、納得できないんじゃないですか? エリカさんの喧嘩の行方、零一さんに託してみませんか?」

 エリカは、唇に指を当てて考え込んだ。零一も、一同を見渡してから、考える。急ごしらえの決意は、エリカよりも先に固まった。

「エリカ。俺は、アユと飛龍フェイロンさんを信じる。だから……俺に任せろ」

 言ったそばから、重い台詞だと実感した。だが、こんな台詞ひとつに怖気づいているようでは、この先に待ち受けている〝現実〟の記憶に耐えられない。己に巣食う闇にだって、立ち向かえはしないだろう。

 今よりも、少しだけでいい。きっと零一は、強くならなければいけないのだ。

「……うん。分かった」

 顔を上げたエリカが、零一に微笑みかけた。大学一年生の夏に、蛍を見つけたときの笑顔だった。郷愁を、再び掻き立てられた。記憶を取り戻せないもどかしさが、こんなにも強いものだなんて、〝常夜〟に来たばかりの頃は知らなかった。

「じゃあ、あたしは『雹華ヒョウカ』で待ってるね。飛龍フェイロンさん、杏仁豆腐とゴマ団子を食べたいなー。作ってほしいなー」

 エリカは飛龍フェイロンに近づくと、右腕の包帯を指でつついた。はらりと嘘が解けて、傷一つない筋骨隆々たる腕が露わになる。悄然しょうぜんと項垂れる飛龍に、アユが「飛龍さん、ご協力ありがとうございました!」と全く悪びれていない声で礼を言った。

「あとは、私たちに任せてください」

「アユは来るんだな」

「もちろんですよ。司会進行役は、私が務めさせていただきますから」

 アユがいるなら、頼もしい。年齢はユアより年上だと聞いているとはいえ、身体は中学一年生の少女に心強さを感じるなんて、我ながらどうかしている。反省した零一は、エリカと飛龍フェイロンに見送られながら、一つの誤解に思い至った。

「アユ。あの下手くそな演技は、わざとだろ」

「あれぇ、なんでバレちゃったんですかぁ?」

「お前なら、もっと上手くやる。飛龍フェイロンさんを巻き込みたかったんだな?」

「えへへ。エリカさんと零一さんを引き離すのは申し訳ないですし、胃が痛くなりそうな〝常夜会議〟の日に、エリカさんを一人で待たせるのも心配ですから」

 アユなりに、エリカを案じていたようだ。しばらく歩いてから背後を振り返ると、エリカと飛龍フェイロンは瓦礫の撤去作業を始めたところだった。ふと、零一は気づく。

「……ん? 変だな……」

「どうかしましたか?」

「……俺は昨日、飛龍フェイロンさんがエリカのファンだってことを知ったけど……時期が合わないんだ。エリカがオーディションに受かったのは、俺が大学一年生の秋だから……メジャーデビューは、エリカが〝常夜〟に来るよりも少し前の時期だ。でも、飛龍フェイロンさんが〝常夜〟に流れ着いたのは……ミキさんと同時期なら、七年前だ」

 ファンという己の言葉に、胸の奥がずきりと痛む。なぜこの言葉に対して神経を過敏に尖らせているのか、今はまだ分かりそうにない。

「……零一さんは、本当に〝現実〟のことを思い出し始めたんですね」

 アユが、緩い坂道を下りながら言った。達観を窺わせる笑い方は、昨日『雹華ヒョウカ』で〝現実〟を偲んだミキの笑みに通じるものがあった。

「零一さんが、大学一年の秋まで思い出しているなら、今から私が言う台詞も、ちゃんと聞こえるはずですね」

「……? アユは、何か知ってるのか?」

「はい。零一さんなら、私よりも知っているかもしれませんよ? つまり飛龍フェイロンさんは、エリカさんのメジャーデビュー前から、エリカさんのファンなんです」

「え? ……あ」

「エリカさんは、中学時代から年上のメンバーとバンドを組んでいたんですよね? インディーズでCDも出したと聞きました。その頃の知名度は決して高いわけではないそうですが、知る人ぞ知るユニットだったそうですね。飛龍フェイロンさんは、お店の常連さんの紹介で知ったらしいですよ」

 脳裏に、すうと映像が蘇ってきた。――エリカにメジャーデビューの話が持ち上がった頃に、旧知のバンド仲間と開いた小さなライブに、零一も招待されたのだ。

 アングラな雰囲気が漂う地下のライブハウスの片隅で、赤や水色の照明に染まったスモークと一緒に立ち込める熱気の中から、零一は初めてのライブを見上げていた。メンバー全員が奇抜なメイクと衣装で武装していて、雰囲気に慣れない零一を圧倒した。昼間に彼らを紹介された際にはスーツ姿だったので、別人としか思えない混乱が収束するまでに時間を要した。

 最後に彼らを見たのは、確か――頭痛が、赤く弾けた。血飛沫のようなペンキに塗り潰されて、回想が途切れる。赤に侵食される間際に、彼らは零一から少し離れた暗い部屋で――泣き崩れていた。

「……だから、飛龍フェイロンさんには、嬉しい気持ちもあったと思うんです」

 アユの落ち着いた声で、我に返った。

 身体に取り憑いた悲しみが、すうと剥がれて霧散する。あの日のライブハウスのスモークみたいに、この世界には存在しない幻の熱気に紛れて、消えていく。簡単に手放してはいけないと知っているのに、喉につかえた空気の塊を、零一はようやく吐き出せた。

「エリカさんが〝常夜〟に来てしまったことを辛く感じても、幼かったボーカルが〝現実〟でメジャーデビューできたことを知って、嬉しかったんじゃないかなと思います」

 嘘っぽい満月を見上げたアユは、大人びた顔で笑っていた。

「プロでも、プロでなくても。頑張ってる人のことって、見てる人は見てくれてるんですよね」

「……ああ、そうだな」

 昨日のミキの教えを思い出して、大きく深呼吸する。白い吐息が、荒廃した街に棚引いた。坂道の終わりが近づいて、円形の駅前広場が見えてきた。

 この道は、きっと茨の道だ。さっきのフラッシュバックの続きにも、いずれ向き合う時が来るだろう。それでも愚直に前を向くことでしか、零一は強さを得られない。

「アユ。どうしてエリカを〝常夜会議〟から外したんだ? このこと、エイジさんたちは知ってるのか?」

「知っていますよ。理由は、そうですね」

 アユは歩調を早めると、くるりと零一を振り向いた。

 悪戯っぽい微笑みは、昨日エイジが別れ際に見せた不敵な笑みと同じだった。

「エリカさんがいないからこそ、できる話がたくさんあるじゃないですか」

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