3-9 眠れる闇

 飛龍フェイロンは、話題にされることを嫌うように身じろぎしただけで、黙々と厨房で野菜を刻んでいる。エリカが零一をここに連れてきた意味が、やっと分かった気がした。

 飛龍フェイロンに象徴されるような、『〝常夜〟で生き、〝常夜〟で死ぬと決めた住人』たちは、ミキが言うように大勢いるのだろう。そんな住人たちにとっては、〝常夜〟と〝現実〟を天秤にかける行為そのものが苦痛なのだ。〝常夜〟で生きる者たちの決意をおびやかさないために、零一にもできることがあるだろうか。

 すぐには思いつかないが、とにかく明日は絶対に寝坊できない。〝現実〟ではしょっちゅう寝坊していた零一が、会議という他人だらけの空間に自ら出向こうとしているなんて、以前の零一に言っても信じないだろう。

「……ごちそうさまっ。あたしと零一はそろそろ行きますけど、ミキさんたちはまだ飲んでいきますか?」

「そのつもりよぉ、エイジさんも付き合いなさいよ」

「フェイロン、もう酒は出すなよ」

 エイジは苦り切った顔で厨房へ声を飛ばすと、コートを着た零一とエリカに「俺たちも宇佐美うさみの爺さんの所に行くから、長居はしない。また明日な」と言った。エリカは明日への意気込みが見て取れる笑みで「はい」としっかり頷くと、カウンター席へ歩いていった。零一も、おっかなびっくりついていき、厨房に近づいた。

飛龍フェイロンさん、ごちそうさま! ありがとうございました!」

「えっと……美味しかったです」

 手を止めた飛龍は、エリカには頷いたものの、零一には投げやりな視線を寄越しただけだ。ひっそりと傷つく零一の隣で、エリカがおずおずと身を乗り出した。

飛龍フェイロンさん、お願いがあるんですけど……『雹華ヒョウカ』で仕入れた食料、少しだけ分けていただけますか? しばらく自炊をがんばってみたくて……」

「おい……家を出る前に言ってたアレ、本気だったのか……」

 零一は、呆れ果てながら言った。さかきに腹を立てたエリカが宣言した、数日間のレトルト食品断ちの覚悟は本物だったようだ。

「……」

 飛竜フェイロンは、無言でビニール袋に野菜を詰めて、紙パックに包んだ肉もたっぷりと入れてくれた。「こんなに、いいの?」とエリカが訊くと、「二人分」と低い声が返ってきた。初めて聞く声だった。存外に良い声だったので、零一は密かに衝撃を受けた。

「ありがとう、飛龍フェイロンさん!」

 エリカが、満面の笑みを見せた。飛竜フェイロンの耳が、また赤くなった。零一も「あの、ありがとうございます」と礼を言うと、不服そうに睨まれた。大笑いしたミキが、紹興酒しょうこうしゅのグラスを持って席を立ち、零一に近づいて耳打ちした。

「フェイちゃんのこと、嫌わないであげてね。零一君には少し複雑な気持ちがあるだけで、悪気はないのよ。それでも食材を分けてくれるくらいだから、本心では零一君を認めていると思うわよ?」

「……何なんですか、複雑な気持ちって。飛龍フェイロンさんとは初対面なんですけど……」

「じゃあ、こう言えば分かるんじゃない?」

 ミキは、零一を手招きした。怪訝に思いながら、零一はミキに従ってカウンター席を離れた。エリカは食材の袋を受け取って、飛龍フェイロンと話し込んでいる。

 そういえば、たびたび話題になる『食材の仕入れ』とは、どのように行っているのだろう。屋台の大将たいしょうも苦労しているそうなので、難解な仕組みが存在するのだろうか。

 一度訊いてみたかったが、ミキから内緒話の気配を嗅ぎ取り、零一は疑問を呑み込んだ。火鍋ひなべの具の揃い具合を見る限り、緊急性を要する話題ではないだろう。ミキはテーブル席に残ったエイジのそばまで戻ると、声をさらに潜めた。

「フェイちゃんね、実はエリカちゃんの大ファンなのよ」

「えっ? エリカの?」

「ほら、あの子って〝常夜〟に音楽を蘇らせた歌姫だもの。〝現実〟にいた頃から応援していたらしいわよ」

 心臓が、跳ねた。――歌姫。〝現実〟にいた頃から応援。やはりエリカは、〝現実〟で夢を叶えている。ミキの台詞を聞き取れたことからも、零一はこの記憶を取り戻しかけているに違いなかった。〝常夜〟の記憶喪失者の目と耳は、自発的に思い出していない情報を受けつけない。零一たちが暮らす世界は、人によって聞こえる音と、聞こえない音が入り乱れている。

「フェイちゃんが〝常夜〟で初めてエリカちゃんに会えたときの反応は傑作だったわね。屈強な強面が、最初はこそこそと浮かれまくってたのに、しばらくしてから『応援していた歌手が〝常夜〟に流れ着いてしまった』って気づいて、かわいそうなくらいに落ち込むところまでね。……ほら、あそこにサインが飾ってあるわよ?」

 ミキが、カウンター席の近くを指さした。こちらに背を向けたエリカの隣、飛龍フェイロンの正面に位置する壁を、赤いネイルが示している。零一は、息が止まった。

 壁には――最初、何も見えなかった。

 だが、何かがそこにあるのだと、一目見ただけで確信した。

 見つめ続けているうちに、壁の一点に歪みが生まれた。何の変哲もない絵画から、新たな絵が立体的に浮かび上がってくるように、無から有が顕現けんげんする。ラジオ局でユアに台本を見せてもらった際に、モザイクの霧に阻まれて文字が読めなかったことを思い出す。頭痛が脳を貫いて、白いフラッシュをかれた視界が縦にぶれた。

 風景のズレが、正常な位置に戻ったとき――壁には、一枚の色紙が飾られていた。懐かしい声が、頭の奥で確かに聞こえた。

 ――『サイン? どうしよう、あたし考えたこともなかった』

 大学の講義が終わった後で、ピンクがかった茶髪の少女が、友人たちの輪の中で、照れ臭そうに笑っていた。零一が『普通に書けばいいだろ』と適当な意見を投げかければ、他の学生たちから『それじゃあ面白くない』とか『プロっぽいものを考えよう』とか、好き勝手な意見がぽんぽん出てきて、ルーズリーフがサインの案で埋め尽くされた。

 そして今、『雹華ヒョウカ』に飾られた色紙には――勢いのある大きな文字で、少女の名前が書かれていた。名前の終わりに、花のマークが添えられている。大学図書館の植物図鑑で、同じ花の写真を見た覚えがあった。

「ファンって……」

 頭痛が、強くなっていく。呼吸が、乱れ始めていた。頭に血が上る感覚をはっきりと認識した瞬間、初めて零一は自覚した。

 この感情は――きっと、怒りだ。

「ファンって、どういうファンですか」

 ミキが、表情を変えた。零一は、ミキに詰め寄ろうとして――我に返った。

「……。俺……なんで……」

 刹那の怒りは、憑き物が落ちたように消えていた。けれど生々しい残滓だけは、身体に染みついて離れない。鳥肌が立った腕に、コート越しに爪を立てる。

「なんだったんだ、今のは……」

「……どういうって、訊かれたら……そうね。エリカちゃんの歌を聴くと、暗い気持ちが少しだけ明るくなったり、励まされたりする。そんな勇気をくれる歌手を応援したいし、これからも幸せに活動してほしい……そう願っている、一人のファンよ」

 ふっと表情を緩めたミキは、零一の肩に手を置いた。「ほら、深呼吸」と促されて、零一は深く息を吸う。たったそれだけの行為でも、少しだけ気分が落ち着いた。沈黙が降りると、テーブル席で成り行きを見守っていたエイジから声が掛かった。

「あんまり根を詰めるなよ。あと、フェイロンがお前さんを目の敵にしてるのは、〝常夜〟で生活するうちに、エリカちゃんが歌手としてだけじゃなくて娘みたいに可愛くなったからで、悪い虫がついたんじゃないかって気に食わんだけだ」

「わ、悪い虫……」

 そんなところだろうと思っていたが、案の定だった。気抜けしたことで、肩の力も抜けた。そろりと飛龍を盗み見ると、エリカとまだ話し込んでいるはずなのに、一瞬だけ目が合った。今回は、睨まれなかった。零一の心に巣食う悍ましい怒りを見透かしたのか、視線には労わりが含まれている気さえした。

「……俺も、飛龍さんのことを誤解してたと思います。……良い人、ですよね」

「分かってるじゃない」

 背中をばしっと叩かれて、零一は顔をしかめる。ミキのグラスの紹興酒は、いつの間にか空になっていた。

「ミキさんって……俺が思い出した記憶の内容、訊かないんですね」

「その話をするのは、今じゃないほうがいいんじゃない?」

 ミキは口角を上げると、エリカに視線を投げた。

「今日の様子だと、どうせエリカちゃんには話を聞いてもらえなかったんでしょ?」

「分かるんですか?」

「見てりゃ分かるわよ。エリカちゃんの気持ちも分かるから、急かすわけにはいかないけどね」

「エリカの気持ち……」

 零一は、ばつが悪くなる。〝常夜〟のエリカが何を考えているのか、零一にはまだ分からない。ミキに率直に訊ねたところで、解決する問題でもない気がした。ミキは面白がるように笑ってから、壁の一点を見つめた。

「でもね、全く脈なしってわけでもないはずよ? 零一君との話し合いを本気で拒否したいなら、この場所には連れてこなかったはずだもの」

 零一も、ミキと同じものを見つめて「はい」と重々しく頷いた。

 ――あのサイン色紙を、零一が直視できたとき。新たな〝現実〟の記憶を取り戻すことくらい、エリカは分かっていたはずだ。むしろ、だからこそ今まで零一を『雹華ヒョウカ』に連れてこなかった可能性は高いだろう。

 それでも連れてきたということは、エリカにも歩み寄る意思がある。それを確認できた分だけ前進できたはずなのに、零一は手放しで喜べなかった。

 ――零一が失った記憶には、何が眠っているのだろう? 一瞬だけ垣間見えた己の闇が与えた衝撃は、まだまだ身体から消えそうになかった。

「そいつに、負けるなよ」

 突然の叱咤しったに驚くと、エイジがテーブル席から零一を見上げていた。飛龍と性質がよく似た無表情には、〝常夜〟の実力者としての風格が感じられて、気圧される。

「そいつに負けるときは、モンスターに負けて死ぬときだ。……くじけかけても、抗え。続きの記憶も、思い出したいんだろう?」

「……はい」

 謎めいた激励だった。ミキとエイジたちには、これからも話を聞くべきことが多いようだ。今はその事実だけを念頭に置いて、飛龍との雑談を終えたエリカのもとへ行こうとすると、エイジが零一を呼び止めた。

「零一君。さっきの返事だが」

「さっきの?」

「食事中に、俺に言っただろう。明日の〝常夜会議〟は、穏便に済ませたいってな」

「ああ、はい」

 確かに、零一はエイジに訊いた。代わりにエリカが返事をしたので、その話は終わったと思っていた。エイジは、狡猾な笑みを覗かせた。幾度も死線を掻い潜り、知略を巡らすことにけた大人の顔だった。

「任せときな。悪いようにはしないさ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る