3-8 紹興酒と七年前のビル火災
「計画的な犯行よ。七年前にニュースの話題をさらってた連続放火魔が、私たちのビルを標的にしたってわけ」
「俺は……たぶん、そのニュースを知っています」
割り箸を置いた零一は、額を抑えて
世間を騒がせた連続放火魔の報道は、確か零一が中学生の頃に盛んだった。報道の熱が鎮火するまでに七件の放火が行われ、ついに犯人は捕まった。
最後の犯行現場は、〝現実〟の零一が一人暮らしをしているアパートから遠く離れた、隣県の市街地にある雑居ビルで――どうして七年前に終わった事件を、零一は詳細に覚えているのだろう? エリカが、零一の腕に触れてきた。
「零一? やっぱりまだ、具合悪い?」
「……いや、平気だ」
心配そうな眼差しから逃れるように答えてから、思い直してエリカと見つめ合う。エリカは本気で零一を案じているようだが、瞳には明らかな戸惑いがあった。
零一の〝現実〟の記憶には、どうやら七年前の事件が関与している。しかし、この繋がりに驚いたのは、零一だけではないようだ。
エリカも、完全に〝現実〟の記憶が戻っているわけではない? その線は、考えられなかった。エリカが全てを思い出している場合、残された可能性は一つだ。
――〝常夜〟のエリカが知らなくて、〝現実〟の零一だけが知っている。
そんな何かが、あるのだろうか。エリカが〝常夜〟に迷い込み、零一が〝現実〟に取り残された一年という空白の時間に、ミキの事件が絡んでくるのだろうか。
「ミキさん……続けてください」
声を絞り出すと、ミキは隣のエイジと目を合わせた。エイジも不可解そうに眉を
「……周囲の建物にも
「……」
「私の同僚がほとんど死んだことも、お客さんも巻き添えになったことも。『
ミキは、大皿に残っていた野菜としらたきを、
「フェイちゃんが最後に担いでいた女が、私だってことも」
厨房からは、とんとんとん……と相変わらずリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。過去を振り返った程度のことで、現在の日常が崩れたりはしないと言わんばかりに、一定のリズムで刻んでいる。ミキが、気楽な声音で笑い出した。
「いやぁね、零一君。そんな辛気臭い顔しないでよ」
「だって……そんなのって……理不尽だ」
己が絞り出した台詞に、既視感を覚えた。
あれは、いつだっただろう。確か、零一が初めてモンスターを目撃した夜のことだ。マンションの六〇二号室から見下ろしたモンスターは、零一たちが見ている前で、屋台の店主から記憶を奪った。あのときにも、零一は言ったのだ。
――『理不尽だ。あの人が、何をしたって言うんだ……』
それに対して、エリカがなんと言ったのか。思い出すと同時に、ミキが言った。
「理不尽って、そういうものじゃないかしら」
妖艶な笑みが、零一に向けられた。弧を描く赤い唇が、凛とした毒を吐く。
「全く、くそったれだわ」
己の人生を踏みにじった仇敵にも、ミキは同じように笑って見せるだろう。不屈の意思を感じる強い笑みに、自虐の色はなかった。過去から目を逸らさない大人の笑みと、記憶の中のエリカの笑みが重なり合い、重ならなくて、切なさが込み上げる。
――『理不尽って、そういうものでしょ?』
あのときのエリカの、突き放すような冷淡さを思い出す。今になって、分かってしまった。ミキが乗り越えているものを、エリカはまだ、乗り越えていない。
隣のエリカに、目を向ける。エリカは、
声をかけようとして、今はやめた。代わりに前を向いて「ミキさん」と呼びかけた。
「ミキさんと
「生きてるわよ。だって、私たちは〝常夜〟にいるんだもの」
ミキは快活に答えると、
「余裕ですよ、ミキさん。本当は辛さを五倍にする予定だったんですよ?」
「そうこなくっちゃ。ねえ、〆は何にする?」
「んー、ラーメンも気になるけど……ワンタン!」
「……フェイロン、すまんな。仕入れは問題ないか?」
盛り上がる女性陣を横目に、エイジが同情のこもった声で、厨房へ声をかけた。頷いた
「あたしたちの〝現実〟には、もう『
「ええ。ビルは全焼しちゃったからね」
「悔しいな。こんなに素敵なお店が、〝現実〟にはもうないなんて」
「本当にね。世界の損失よ。あの放火魔め、私が〝現実〟に返り咲いたら、ただじゃおかないんだから……フェイちゃん?」
飛龍が、ミキの隣に立っていた。仏頂面で差し出したのは、小さなグラスに注がれた琥珀色の飲み物と、
「やっと出してくれたのね! これを待ってたのよ」
「ミキ、飲み過ぎるなよ。明日は会議だってことを忘れるな」
「そんな〝現実〟のサラリーマンみたいなこと言わないでよお、エイジさん。せっかくフェイちゃんが
ミキはスプーンでザラメ糖をひと掬いすると、
「砂糖はね、多いほうが美味しいのよ」
「ミキさん、どんな味がするの?」
「甘いわよ。大人を気が済むまで甘やかしてくれる、夜の味」
「いいなぁ、あたしも飲んでみたい」
その声が本当に羨ましそうだったから、どきりとした。エリカの誕生日は、いつだっただろう。こんなことまで忘れてしまう零一は、どこまで非情なのだろう。
「未成年はダメよぉ。大人になってからね」
「あたしはもう二十歳なんだけどなー」
「ふふ、飲ませてあげようと思ったけど、気が変わったのよ。あと少しだけ辛抱して、同居人に合わせてあげなさいよ。零一君、来月で
「は、はい」
「二十歳を迎えるのが〝常夜〟になるかもしれないなんて、とんだバースデーになりそうね」
「ここで生きる、事情と覚悟……」
ビル火災に巻き込まれたミキと飛龍が、その後どのようにして〝常夜〟に迷い込んだのか、もっと話を聞く必要があるだろう。だが、今の段階で分かることも十分ある。零一は、躊躇いながら小声で訊いた。
「
「ええ。火災の一年前に病気で亡くなったのよ。私たちが〝常夜〟に着いたばかりの頃は、こんな出鱈目な世界なら、もしかしたら
零一は、瞠目した。今のミキの台詞には、新事実がたくさん含まれていた。
――〝現実〟で死んだ人間は、〝常夜〟にも存在できない。
ミキの情報を信じるなら、こうして
だが、〝現実〟には『
「フェイちゃんは、〝常夜〟に骨を埋めるつもりよ。『〝常夜〟で生き、〝常夜〟で死ぬと決めた住人』は、その意思を公言していないだけで、フェイちゃん以外にも結構いるのよ」
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