3-7 ここで生きる
「
エリカが簡潔に答えると、ミキが「はんっ」とせせら笑った。
「ほぅら言わんこっちゃない! あの女、ついに本性を現したわね!」
鬼の首を取ったように文句を言いつつも、嬉しそうだ。エリカの隣で、主婦の
「だから私は反対したのよ、図書館の手記に
「ミキは、少し落ち着け」
エイジは嘆息して宥めると、
「杉原さん、頼まれてくれるか」
「分かりました」
「すまないな」
「お気になさらないでください。用事が済んだら、
「はい、ぜひ! 杉原さん、お気をつけて」
杉原は微笑むと、柔和な表情を引き締めた。ユアとアユより少しだけ長い髪を翻して、秘密基地から一人出ていく。階段を上がる足音を聞きながら、零一はエイジに訊ねた。
「杉原さん、せっかく来たのに……どちらへ行かれたんですか?」
「ラジオ局だよ」
「やっぱり」
会話に加わったエリカが、仕方なさそうに眉を下げた。
「開催するんですね。〝
「良い時期だろう。あのお嬢さんに全ての記憶が戻ったなら、こっちから呼び出す手間も省けてちょうどいい。明日の午前十時に、廃駅構内の純喫茶跡地で〝常夜会議〟を開催する。そう
「アユちゃんにも協力してもらって、ラジオで呼びかけるんですか?」
「いや、ラジオでの呼びかけはなしだ。住人同士で呼びかけ合って集合する」
「つまり、誰に声をかけるかは、あたしたちの好きにさせてもらう、ってことですね。……榊さん、それで納得してくれるかな」
「してもらうさ。こういうのは好かんが、俺の権限でな」
エイジは、一仕事を終えた顔でテーブル席に着いた。零一は、エリカとともに向かいの席に座り直して、おずおずと訊く。
「権限って、もしかして……さっきエリカが言ってた実力者四人のうちの一人って、エイジさんですか?」
「そうよぉ、〝常夜〟四天王の一人はエイジさん。怒ったらモンスターも裸足で逃げ出すくらいに怖いんだから」
「ミキ、その呼び方はもっと好かん。やめろ」
エイジが、青汁を飲み干したような顔をした。体格は細身だが、〝常夜〟でもたびたび工事を請け負っているからか、腕はがっしりしていて
「〝常夜〟の実力者って何? って顔をしてるわね。簡単に言えば、〝常夜〟滞在歴が長い住人や、モンスターに対抗できた強い住人のことを、みんながそう呼ぶようになったのよ」
「そうなんですか……って、モンスターに対抗って、どういう意味ですか?」
「疑問が尽きないわよねえ。その話は長くなるから、また今度ね。今は、この四人の実力者には
「宇佐美さんが?」
「お爺ちゃんなのに、意外でしょ? 近年は足腰が弱って『
「えっ」
「零一、
エリカが口を挟むと、ミキはおどけた笑みで応えた。
「私は、エイジさんと宇佐美さんみたいな武闘派じゃないけれど、〝常夜〟滞在歴なら群を抜いているものね。何しろ七年よ、七年! 同じ年数を生きた住人は、もうフェイちゃんだけになっちゃたわねー」
――突然に、頭痛が襲ってきた。
「っ……?」
テーブルにのせた拳に、力がこもる。エリカもエイジも、ミキの話に耳を傾けていて、零一の異変には気づいていない。厨房に立つ
――『何しろ七年よ、七年!』
おそらく、これだ。だが、ミキの〝常夜〟滞在歴なら、以前から知っていたはずだ。今になってこの数字に恐ろしさを感じたのは、記憶が戻りかけている証だろうか。頭を振って、零一は訊く。
「エイジさんと宇佐美さん、ミキさんが〝常夜〟の実力者なら、まさか、いつも一緒にいる杉原さんも……?」
「杉原さんは違うわよぉ、むしろ守ってあげたくなるような可憐さがあるじゃない。ろくでもない四天王入りなんてさせたら、かわいそうよ」
ミキは大げさに笑って、手をひらひらと振った。榊に対しては屈折した感情を持っていても、主婦の杉原のことは気に入っているようだ。エリカが、嬉しそうに頬を緩めた。
「杉原さん、お元気そうでしたね。ミキさんたちと一緒にいるおかげだと思います」
「ありがとう。エリカちゃんと仲良くなったことも、心の支えになってると思うわよ? 人生経験豊富な宇佐美さんとか、ぶっきらぼうだけど実は優しいエイジさんもね」
「よかった。エイジさんが単独行動を任せるくらいに、杉原さんが元気を取り戻してくれて」
皆が杉原を案じている姿を見て、零一も気づく。
杉原は、〝現実〟で子どもを亡くしている。そんな悲しみの記憶を〝常夜〟で取り戻したときに、どれほどの絶望と喪失感に苛まれたかは、想像に難くない。以前よりも胸が痛んだのは、零一もまた記憶の一部を取り戻したことで、杉原の苦難が他人事ではなくなったからだろうか。〝現実〟の記憶を手放した分だけ、痛みに鈍感になっていた。そんな自分に、嫌悪感が湧いた。
ただ、杉原が実力者に該当しないなら、残る一名は誰だろう。
訊ねようとしたとき、ぬっと頭上から再び影が差した。無言で現れた
メニューの写真通りの仕切りが付いた金属鍋に、紅白のスープが注がれていた。真っ赤な
続いて
「胡麻油と特製コチュジャンと塩だよ。かなり濃い目の塩辛さだから、お肉と野菜を浸すときは少しずつね」
「このジャンクな辛さが癖になるのよねー。零一君、よく混ぜてね」
「は、はい。皆さん、慣れてますね」
「当然よ。ここにいるメンバーは、みんなこのメニューが大好きだもの」
「来たわね。さて、
「お肉と野菜、適当に両方のスープに分けますねー。煮えたら各自取っていくスタイルで。あっ零一、お肉を何回食べたとか、そんなの気にしなくていいからね」
「そうよぉ、足りなかったら追加すればいいからね」
「仕入れが失敗してなけりゃな」
「エイジさんってば、テンション下がること言わないでくれるぅ?」
ミキとエリカが
「あの、エイジさん」
「ん?」
垂れ目がちの凛とした瞳が、零一を見る。これから先の台詞を続けるには、多大な勇気が必要だった。だが、ここにいる人物たちなら、零一の意見を
「〝常夜〟の人たちが、今の
エリカとミキも、零一を見た。二人とも、特に表情を変えなかった。ひとまず頭ごなしに否定されなかったことにほっとして、零一は続ける。
「榊さんの主張は極端だったかもしれませんが、〝現実〟に帰りたいって気持ち自体は、自然な感情だと思います。だから……その、穏便に解決したいというか、〝常夜会議〟を開催しない……というふうには持っていけないんですか?」
「零一。それはできないかな」
エリカが、エイジに代わって答えた。榊と敵対したエリカに言われるとは思いがけず、零一はたじろぐ。
「榊さんの要望を突っぱねたら、〝常夜〟の実力者たちの
エリカは菜箸を大皿に置くと、「だからこそ」と言葉を継いだ。
「榊さんも、他の住人たちの決断に、こんな形で干渉するのはよくないと思う。〝常夜会議〟の開催は仕方なくても、多数決なんて、あたしはやっぱり反対。少なくとも榊さんは、
「事情と……覚悟……?」
「あっ、お肉そろそろいいですよ」
「本当ね、
「じゃあ俺は
「いただきまーす! ほらっ、零一も!」
「あ……じゃあ、こっちで」
真っ赤なスープから牛肉を引き上げると、真っ白な湯気もついてきた。続いて水菜を取り皿にのせると、こちらは赤いスープもひたひたと潤沢に連れてくる。
まずは牛肉をタレに付けようとして、エリカとミキの説明を思い返し、割り箸で胡麻油を混ぜる。とろんとした琥珀色に、透明な塩の粒が
「美味い……」
「でしょ?
エリカが、取り皿に
「フェイちゃーん、しらたきも追加でよろしくー。あと
「フェイちゃん、久しぶりに
「同郷のよしみ?」
あけすけな言いようにぎょっとした零一が訊くと、ミキはしらたきを
「フェイちゃんと私、〝現実〟で知り合いだったのよ」
驚いた零一は、キクラゲを胡麻油の小皿に落としてしまった。ミキは平然と笑っていて、
「別に驚くことはないんじゃない? 〝現実〟の知り合いと〝常夜〟で再会することって、この世界じゃ別に珍しいことじゃないもの。零一君だって、エリカちゃんと知り合いなんだから」
「えっ……な、なんで、それを知って……!」
「みんな察してたんじゃないの? 見ず知らずの男を拾って、家に上げる時点で、ねえ? あーこいつかぁ、って」
「? こいつ……?」
話が読めなかった。隣のエリカを見ると、珍しく頬を赤く染めていた。やはり悪い気はしなかったが、新たな疑問が浮上した。
――ミキが、〝現実〟の零一とエリカについて話題にしたのは、初めてだ。エイジが
「問題は、それよりも……今のミキの話が、零一君に聞こえたということは、だ。お前さん、やっぱり記憶が戻ったのか」
いきなりの指摘に、零一は動揺した。まただ、と思う。榊による〝常夜会議〟の要請を受けたときにも、エイジは否定せずに受け入れた。ミキだって、今までとは打って変わって、零一とエリカの〝現実〟に踏み込んできた。〝常夜〟の住人たちは、他の住人の人生を、詮索しなかったはずなのに。
「戻りました。でも……途中までです」
慎重に答えると、エイジが目を細めて頷いた。〝現実〟の記憶が多少なりとも戻ったことを条件に、〝常夜〟の住人たちは重い口を開いている。漠然と、そんな気がした。
「零一君。取り戻せた記憶は、全体の何割くらいか分かるか?」
「何割かは……はっきりしません。ただ、〝現実〟の俺は十九歳で、あと一か月で二十歳になる大学二年生だってことは、なんとなく分かりました」
隣で、エリカが気配を固くした。零一はそちらを一瞥し、全く目が合わないことを確認してから、エイジに報告を続けた。
「でも、俺の記憶は、大学一年の秋で途切れていて……自分の名字とか、ラジオで流れている曲の名前とか……大事なことを、まだ思い出せません」
「そうか。……ちと早いが、君も良い時期かもしれんな」
「え?」
「エイジさん、まさかあの女だけじゃなくて、零一君もあの場所に連れていくつもり? もう少し記憶が戻ってからのほうがいいんじゃない?」
「確かに早いが、問題ないだろう。零一君、確認だが、君は〝現実〟の記憶を取り戻したいか?」
気づけば、誰もが箸を止めていた。店内のBGMだけが空々しく流れる店内は、先ほどまでの
「はい。俺は、続きの記憶も取り戻したいと思っています」
「決まりだな」
エイジが、苦笑した。場の緊迫感が、ふっと緩む。
「零一君。明日の〝常夜会議〟には、君も参加してもらう。それから、近日中に榊さんと一緒に来てもらいたい場所がある」
「来てもらいたい場所……?」
「ああ。〝現実〟の記憶を取り戻した住人や、記憶を取り戻そうとしている住人に、一度は必ず行ってもらう場所だ。俺とミキ、
「……分かりました」
エイジが手短に話をまとめたので、零一も逆らわずに頷いた。エリカの口数が減ったことから、エリカがこの話題を歓迎していないことが伝わってくる。零一が〝常夜〟に来たばかりの頃にも、似たような出来事があったはずだ。
そのとき、またしても頭上から影が差した。厨房から戻ってきた
「ちょっとぉ、フェイちゃん。エリカちゃんと食事に来たときだけ、やけにサービスが良いじゃない。お肉もやたら上等だし。あたしにも酒くらい出しなさいよ。一緒に死にかけた仲じゃないのよう」
「待ってください、ミキさん。一緒に死にかけたって……?」
「ああ、さっきフェイちゃんは同郷のよしみだって言ったでしょ? 私、〝現実〟では占い師をやってたのよ。誰かさんは、インチキ霊能者ってうるさいけどね」
「事実だろう」
エイジが半眼で睨むと、ミキは肩を竦めて「だからぁ、そっちは足を洗ったってばぁ」と弁解して、
「ともかく、本業は占い師よ。雑居ビルの五階の隅で、暗幕で窓を隠した怪しい部屋で、私みたいな占い師たちがシフト制で勤務していたのよ。同じビルの六階に、フェイちゃんが奥さんと二人で切り盛りしていた『
「だから、
「そうよお。私は〝現実〟の『
ミキが、
「七年前に、そのビルで火災が起こるまではね」
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