3-7 ここで生きる

さかきさんが、記憶を全て取り戻しました。〝現実〟に帰りたい住人と、〝常夜〟に残りたい住人の多数決を取りたいそうです」

 エリカが簡潔に答えると、ミキが「はんっ」とせせら笑った。

「ほぅら言わんこっちゃない! あの女、ついに本性を現したわね!」

 鬼の首を取ったように文句を言いつつも、嬉しそうだ。エリカの隣で、主婦の杉原すぎはらが優しく笑っている。そういえば、さかきは器量良しの美人なので、ミキがへそを曲げているのだと、昨夜ラジオ局で知ったばかりだ。

「だから私は反対したのよ、図書館の手記に禁帯出きんたいしゅつシールを貼って、他の住人の貸出を制限するなんて! ユアちゃんだって羨ましくなっちゃうでしょう? あの女は自分だけの特権を獲得できて、さぞ鼻が高いでしょうねー!」

「ミキは、少し落ち着け」

 エイジは嘆息して宥めると、杉原すぎはらに視線を向けた。

「杉原さん、頼まれてくれるか」

「分かりました」

「すまないな」

「お気になさらないでください。用事が済んだら、宇佐美うさみさんと合流します。お土産を楽しみにしていますね。……皆さん、お先に失礼します。エリカちゃん、また日を改めてランチに行きましょうね」

「はい、ぜひ! 杉原さん、お気をつけて」

 杉原は微笑むと、柔和な表情を引き締めた。ユアとアユより少しだけ長い髪を翻して、秘密基地から一人出ていく。階段を上がる足音を聞きながら、零一はエイジに訊ねた。

「杉原さん、せっかく来たのに……どちらへ行かれたんですか?」

「ラジオ局だよ」

「やっぱり」

 会話に加わったエリカが、仕方なさそうに眉を下げた。

「開催するんですね。〝常夜会議とこよかいぎ〟」

「良い時期だろう。あのお嬢さんに全ての記憶が戻ったなら、こっちから呼び出す手間も省けてちょうどいい。明日の午前十時に、廃駅構内の純喫茶跡地で〝常夜会議〟を開催する。そうさかきさんに伝えてもらうよう、杉原さんに頼んでおいた」

「アユちゃんにも協力してもらって、ラジオで呼びかけるんですか?」

「いや、ラジオでの呼びかけはなしだ。住人同士で呼びかけ合って集合する」

「つまり、誰に声をかけるかは、あたしたちの好きにさせてもらう、ってことですね。……榊さん、それで納得してくれるかな」

「してもらうさ。こういうのは好かんが、俺の権限でな」

 エイジは、一仕事を終えた顔でテーブル席に着いた。零一は、エリカとともに向かいの席に座り直して、おずおずと訊く。

「権限って、もしかして……さっきエリカが言ってた実力者四人のうちの一人って、エイジさんですか?」

「そうよぉ、〝常夜〟四天王の一人はエイジさん。怒ったらモンスターも裸足で逃げ出すくらいに怖いんだから」

「ミキ、その呼び方はもっと好かん。やめろ」

 エイジが、青汁を飲み干したような顔をした。体格は細身だが、〝常夜〟でもたびたび工事を請け負っているからか、腕はがっしりしていてたくましい。エイジの隣に着席したミキが、零一に笑いかけてきた。

「〝常夜〟の実力者って何? って顔をしてるわね。簡単に言えば、〝常夜〟滞在歴が長い住人や、モンスターに対抗できた強い住人のことを、みんながそう呼ぶようになったのよ」

「そうなんですか……って、モンスターに対抗って、どういう意味ですか?」

「疑問が尽きないわよねえ。その話は長くなるから、また今度ね。今は、この四人の実力者には宇佐美うさみさんも入っていることだけ、教えてあげる」

「宇佐美さんが?」

「お爺ちゃんなのに、意外でしょ? 近年は足腰が弱って『雹華ヒョウカ』に来るのも控えているけど、ああ見えて剣道の達人だったのよ」

「えっ」

「零一、宇佐美うさみさんだけじゃなくて、ミキさんも実力者の一人だよ」

 エリカが口を挟むと、ミキはおどけた笑みで応えた。

「私は、エイジさんと宇佐美さんみたいな武闘派じゃないけれど、〝常夜〟滞在歴なら群を抜いているものね。何しろ七年よ、七年! 同じ年数を生きた住人は、もうフェイちゃんだけになっちゃたわねー」

 ――突然に、頭痛が襲ってきた。

「っ……?」

 テーブルにのせた拳に、力がこもる。エリカもエイジも、ミキの話に耳を傾けていて、零一の異変には気づいていない。厨房に立つ飛龍フェイロンだけが、ぴくりと眉を動かした。見られたかもしれない。零一は、表情を取り繕った。今朝のように倒れるわけにはいかないのだ。ここに居続けるために気丈なふりを装って、何が己を刺激したのか考える。

 ――『何しろ七年よ、七年!』

 おそらく、これだ。だが、ミキの〝常夜〟滞在歴なら、以前から知っていたはずだ。今になってこの数字に恐ろしさを感じたのは、記憶が戻りかけている証だろうか。頭を振って、零一は訊く。

「エイジさんと宇佐美さん、ミキさんが〝常夜〟の実力者なら、まさか、いつも一緒にいる杉原さんも……?」

「杉原さんは違うわよぉ、むしろ守ってあげたくなるような可憐さがあるじゃない。ろくでもない四天王入りなんてさせたら、かわいそうよ」

 ミキは大げさに笑って、手をひらひらと振った。榊に対しては屈折した感情を持っていても、主婦の杉原のことは気に入っているようだ。エリカが、嬉しそうに頬を緩めた。

「杉原さん、お元気そうでしたね。ミキさんたちと一緒にいるおかげだと思います」

「ありがとう。エリカちゃんと仲良くなったことも、心の支えになってると思うわよ? 人生経験豊富な宇佐美さんとか、ぶっきらぼうだけど実は優しいエイジさんもね」

「よかった。エイジさんが単独行動を任せるくらいに、杉原さんが元気を取り戻してくれて」

 皆が杉原を案じている姿を見て、零一も気づく。

 杉原は、〝現実〟で子どもを亡くしている。そんな悲しみの記憶を〝常夜〟で取り戻したときに、どれほどの絶望と喪失感に苛まれたかは、想像に難くない。以前よりも胸が痛んだのは、零一もまた記憶の一部を取り戻したことで、杉原の苦難が他人事ではなくなったからだろうか。〝現実〟の記憶を手放した分だけ、痛みに鈍感になっていた。そんな自分に、嫌悪感が湧いた。

 ただ、杉原が実力者に該当しないなら、残る一名は誰だろう。

 訊ねようとしたとき、ぬっと頭上から再び影が差した。無言で現れた飛龍フェイロンが、丸鍋をカセットコンロに載せた。真っ白な湯気が、ほわりと視界を覆う。湯気が晴れると、「わあ」とエリカが歓声を上げた。

 メニューの写真通りの仕切りが付いた金属鍋に、紅白のスープが注がれていた。真っ赤な麻辣マーラースープには、長ネギやクコの実の他に、木の実の果皮かひのような赤茶色の香辛料が浮いている。メニューに記載があった花椒ホアジャオだろう。白湯パイタンスープは色彩が対照的で、ほんのりと黄金色に輝いている。大将たいしょうの屋台で食べた豚骨ラーメンよりも濁りはなく、銀色の鍋の底がよく見える。

 続いて飛龍フェイロンが配膳した小皿には、胡麻油が注がれていた。つややかな琥珀色にコチュジャンの赤が沈んでいて、キラキラした半透明の細かな粒も、小皿の底に溜まっていた。エリカが、零一に説明してくれた。

「胡麻油と特製コチュジャンと塩だよ。かなり濃い目の塩辛さだから、お肉と野菜を浸すときは少しずつね」

「このジャンクな辛さが癖になるのよねー。零一君、よく混ぜてね」

「は、はい。皆さん、慣れてますね」

「当然よ。ここにいるメンバーは、みんなこのメニューが大好きだもの」

 飛龍フェイロンが、鍋の具材が盛られた大皿をテーブルに運んできた。牛肉はさしの入り方が絶妙で、一目で上等だと分かる。水菜に豆苗、チンゲン菜にキクラゲと椎茸。久しぶりに見る新鮮な食材は、意識していなかった食欲を急速に引き出していく。

「来たわね。さて、火鍋ひなべを楽しむわよ」

「お肉と野菜、適当に両方のスープに分けますねー。煮えたら各自取っていくスタイルで。あっ零一、お肉を何回食べたとか、そんなの気にしなくていいからね」

「そうよぉ、足りなかったら追加すればいいからね」

「仕入れが失敗してなけりゃな」

「エイジさんってば、テンション下がること言わないでくれるぅ?」

 ミキとエリカが菜箸さいばしを握り、テキパキと具材を鍋に放り込んでいく。エイジが取り皿を指さして「小皿のタレを付けなくても、取り皿に好きなスープを入れて食べても美味うまいからな」と教えてくれた。零一は手持ち無沙汰でどぎまぎしながら、鍋の支度を大人しくエリカたちに任せることにして、正面のエイジに向き合った。

「あの、エイジさん」

「ん?」

 垂れ目がちの凛とした瞳が、零一を見る。これから先の台詞を続けるには、多大な勇気が必要だった。だが、ここにいる人物たちなら、零一の意見を無下むげにはしないだろう。出会ってからの日数は僅かながら、培ってきた信頼感が、零一の背中を押していた。

「〝常夜〟の人たちが、今のさかきさんに怯えていることは、なんとなく伝わってくるんですけど……でも、榊さんの言ってることが、必ずしも悪だってわけじゃないですよね」

 エリカとミキも、零一を見た。二人とも、特に表情を変えなかった。ひとまず頭ごなしに否定されなかったことにほっとして、零一は続ける。

「榊さんの主張は極端だったかもしれませんが、〝現実〟に帰りたいって気持ち自体は、自然な感情だと思います。だから……その、穏便に解決したいというか、〝常夜会議〟を開催しない……というふうには持っていけないんですか?」

「零一。それはできないかな」

 エリカが、エイジに代わって答えた。榊と敵対したエリカに言われるとは思いがけず、零一はたじろぐ。

「榊さんの要望を突っぱねたら、〝常夜〟の実力者たちの独裁どくさい政治みたいになっちゃうでしょ? それに、零一もさっき言ってたけど、〝現実〟に帰りたいって気持ちそのものは自然な感情だし、他人が口出ししていい感情でもないよね」

 エリカは菜箸を大皿に置くと、「だからこそ」と言葉を継いだ。

「榊さんも、他の住人たちの決断に、こんな形で干渉するのはよくないと思う。〝常夜会議〟の開催は仕方なくても、多数決なんて、あたしはやっぱり反対。少なくとも榊さんは、飛龍フェイロンさんの存在すら知らないだろうし、ここで生きる事情も覚悟も知らない」

「事情と……覚悟……?」

「あっ、お肉そろそろいいですよ」

「本当ね、麻辣マーラーのほうから頂こうかしら」

「じゃあ俺は白湯パイタンで」

「いただきまーす! ほらっ、零一も!」

「あ……じゃあ、こっちで」

 真っ赤なスープから牛肉を引き上げると、真っ白な湯気もついてきた。続いて水菜を取り皿にのせると、こちらは赤いスープもひたひたと潤沢に連れてくる。

 まずは牛肉をタレに付けようとして、エリカとミキの説明を思い返し、割り箸で胡麻油を混ぜる。とろんとした琥珀色に、透明な塩の粒が揺蕩たゆたった。小皿の底で椿の花のように落ちたコチュジャンへ、牛肉を少しだけ浸してから口に運ぶと、衝撃的な辛さに舌が吃驚びっくりした。香辛料の熱さがツンと鼻を抜けていき、胡麻油の豊かな風味と、罪悪感を覚えるほどに背徳的な塩味が、牛肉の旨味を暴力的に高めている。続いて口に運んだ水菜も、麻辣マーラースープが染みている分、花椒ホアジャオの香りが鮮明だった。

「美味い……」

「でしょ? 白湯パイタンのほうも美味しいよ。ちょっと飲んでみて」

 エリカが、取り皿に白湯パイタンスープを注いでくれた。豚骨と海鮮から出汁だしを取っているという澄んだスープに口をつけると、見た目からは想像できないほどにコクがあり、食材の味がきていた。それでいて食材同士が喧嘩せずに、上品に慎ましく調和している。なるほど、と零一は思う。麻辣マーラースープの強い辛さに舌が悲鳴を上げてきたら、優しい白湯パイタンスープで舌を休める。見事によくできた仕組みだった。

「フェイちゃーん、しらたきも追加でよろしくー。あと紹興酒しょうこうしゅあるぅ?」

 飛龍フェイロンが、しらたきの皿を持って現れた。ミキの注文は予想していたと言わんばかりの早さだった。「あら、お酒ないの? 隠してるんじゃないでしょうね」と息巻くミキを、エイジが呆れ顔で「やめんか恥ずかしい」とたしなめている。

「フェイちゃん、久しぶりに同郷どうきょうのよしみに会ったっていうのに、つれないじゃない。しばらく顔を見なかったから、とっくに死んだかと思ってたわよ」

「同郷のよしみ?」

 あけすけな言いようにぎょっとした零一が訊くと、ミキはしらたきを麻辣マーラースープに沈めながら、あっけらかんと言い放った。

「フェイちゃんと私、〝現実〟で知り合いだったのよ」

 驚いた零一は、キクラゲを胡麻油の小皿に落としてしまった。ミキは平然と笑っていて、白湯パイタンスープを堪能している。飛龍フェイロンは、その隙にそそくさと厨房へ逃げていた。

「別に驚くことはないんじゃない? 〝現実〟の知り合いと〝常夜〟で再会することって、この世界じゃ別に珍しいことじゃないもの。零一君だって、エリカちゃんと知り合いなんだから」

「えっ……な、なんで、それを知って……!」

「みんな察してたんじゃないの? 見ず知らずの男を拾って、家に上げる時点で、ねえ? あーこいつかぁ、って」

「? こいつ……?」

 話が読めなかった。隣のエリカを見ると、珍しく頬を赤く染めていた。やはり悪い気はしなかったが、新たな疑問が浮上した。

 ――ミキが、〝現実〟の零一とエリカについて話題にしたのは、初めてだ。エイジが麻辣マーラースープに野菜を追加しながら「まあ、今はその話はいいじゃねぇか」と言って、三者三様の思惑が渦巻く空気を断ち切った。

「問題は、それよりも……今のミキの話が、零一君に聞こえたということは、だ。お前さん、やっぱり記憶が戻ったのか」

 いきなりの指摘に、零一は動揺した。まただ、と思う。榊による〝常夜会議〟の要請を受けたときにも、エイジは否定せずに受け入れた。ミキだって、今までとは打って変わって、零一とエリカの〝現実〟に踏み込んできた。〝常夜〟の住人たちは、他の住人の人生を、詮索しなかったはずなのに。

「戻りました。でも……途中までです」

 慎重に答えると、エイジが目を細めて頷いた。〝現実〟の記憶が多少なりとも戻ったことを条件に、〝常夜〟の住人たちは重い口を開いている。漠然と、そんな気がした。

「零一君。取り戻せた記憶は、全体の何割くらいか分かるか?」

「何割かは……はっきりしません。ただ、〝現実〟の俺は十九歳で、あと一か月で二十歳になる大学二年生だってことは、なんとなく分かりました」

 隣で、エリカが気配を固くした。零一はそちらを一瞥し、全く目が合わないことを確認してから、エイジに報告を続けた。

「でも、俺の記憶は、大学一年の秋で途切れていて……自分の名字とか、ラジオで流れている曲の名前とか……大事なことを、まだ思い出せません」

「そうか。……ちと早いが、君も良い時期かもしれんな」

「え?」

「エイジさん、まさかあの女だけじゃなくて、零一君もあの場所に連れていくつもり? もう少し記憶が戻ってからのほうがいいんじゃない?」

「確かに早いが、問題ないだろう。零一君、確認だが、君は〝現実〟の記憶を取り戻したいか?」

 気づけば、誰もが箸を止めていた。店内のBGMだけが空々しく流れる店内は、先ほどまでの団欒だんらんが嘘のように寒々しい。ひりひりする緊張感を跳ねのけて、零一はエイジの瞳を見る。この覚悟だけは、ここに来るまでに決めている。

「はい。俺は、続きの記憶も取り戻したいと思っています」

「決まりだな」

 エイジが、苦笑した。場の緊迫感が、ふっと緩む。

「零一君。明日の〝常夜会議〟には、君も参加してもらう。それから、近日中に榊さんと一緒に来てもらいたい場所がある」

「来てもらいたい場所……?」

「ああ。〝現実〟の記憶を取り戻した住人や、記憶を取り戻そうとしている住人に、一度は必ず行ってもらう場所だ。俺とミキ、宇佐美うさみの爺さんも同行するから心配するな。詳しい話は、〝常夜会議〟のあとだ」

「……分かりました」

 エイジが手短に話をまとめたので、零一も逆らわずに頷いた。エリカの口数が減ったことから、エリカがこの話題を歓迎していないことが伝わってくる。零一が〝常夜〟に来たばかりの頃にも、似たような出来事があったはずだ。

 そのとき、またしても頭上から影が差した。厨房から戻ってきた飛龍フェイロンが、エリカの前にオレンジジュースを置いたのだ。エリカはきょとんと目を瞬いてから、飛龍フェイロンを見上げて微笑んだ。ミキは唇を尖らせると、膨れっ面で抗議した。

「ちょっとぉ、フェイちゃん。エリカちゃんと食事に来たときだけ、やけにサービスが良いじゃない。お肉もやたら上等だし。あたしにも酒くらい出しなさいよ。一緒に死にかけた仲じゃないのよう」

「待ってください、ミキさん。一緒に死にかけたって……?」

「ああ、さっきフェイちゃんは同郷のよしみだって言ったでしょ? 私、〝現実〟では占い師をやってたのよ。誰かさんは、インチキ霊能者ってうるさいけどね」

「事実だろう」

 エイジが半眼で睨むと、ミキは肩を竦めて「だからぁ、そっちは足を洗ったってばぁ」と弁解して、麻辣マーラースープから赤く染まったしらたきを引き上げた。

「ともかく、本業は占い師よ。雑居ビルの五階の隅で、暗幕で窓を隠した怪しい部屋で、私みたいな占い師たちがシフト制で勤務していたのよ。同じビルの六階に、フェイちゃんが奥さんと二人で切り盛りしていた『雹華ヒョウカ』もあったの」

「だから、飛龍フェイロンさんと顔見知りなんですね」

「そうよお。私は〝現実〟の『雹華ヒョウカ』の常連だったの。フェイちゃんの奥さんが元気だった頃は、仕事の愚痴をよく聞いてもらったっけ。フェイちゃんはそのときから不愛想だったけど、腕は確かだし、常連さんたちの体調を誰よりも熟知した料理を出していたから、みんなから愛されてたわね。あのビルに出入りしていた頃は、楽しいことばかりじゃなかったけれど、振り返れば悪くない日々だったわ」

 ミキが、飛龍フェイロンを見上げた。飛龍フェイロンは小さく頷いてから、厨房に戻っていく。その背中を見送ったミキは、火鍋に舌鼓を打っていたときとさほど変わらない口調で、言った。

「七年前に、そのビルで火災が起こるまではね」

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