3-6 火鍋と秘密基地

 駅前広場は、普段よりも出歩いている人間の数が少なかった。

 噴水跡地を中心にして円形に拡がる舗道には、夜中に降った隕石が焦げた金平糖のように散っている。大将たいしょうが屋台を出していた辺りの路面にも、瓦礫がれきに交じって黒い汚れの跡があった。隕石見物の賑わいはまだ続いていたはずなのに、異様な静寂が終末世界を満たしていた。

「なんで、こんなに人けがないんだ……?」

「みんなも、何かを察してるのかもね。〝常夜〟の人たちは繊細な人が多いし、誰かの心の変化に敏感だから。さかきさんの変化に気づいて、様子を見守ってるのかも」

「それは、大袈裟じゃないか? 〝現実〟の記憶を取り戻すことは、そこまで大ごとに扱われることなのか?」

 零一にとって今日のさかきは、他の住人たちから聞いていた榊と、印象がかなり違っていた。実際に、今までの榊と今日の榊は、性格に乖離かいりがあるだろう。だが、駅前広場から人が消えるほどの自己防衛は、いささか過剰な反応に思えた。

「うん、大袈裟かもね。でも、その理由なら、あたしよりも零一のほうが分かるんじゃないかな」

「俺のほうが?」

「分かるというより、共感できる、親身になれる、のほうが近いかな。四川しせん料理のお店に行けば、はっきりするよ。……榊さんとひー君は、もう自分のお店に戻ったみたい」

 エリカの視線が、二か所の間を行き来する。一つ目は、駅前広場からほど近い場所にあるドーナツ屋だ。暗闇でもカラフルだと分かる店舗のはす向かいで、ビルの窓ガラスが月光を弾いている。一階の店舗の軒先で、以前には見られなかったランタンの灯りが点いていた。榊とヒロは、そこで昼食を取っているのだろうか。

「零一、こっち。四川しせん料理のお店は、このビルの裏手にあるから」

 エリカについて歩いた零一は、背後に遠ざかっていくランタンの灯りを気にしながら、「いいのか?」と訊いてみた。

「榊さんとヒロが店にいる間に、俺たちはラジオ局に行ったほうがいいんじゃないか? 榊さんは、今日中にアユと話をつけるつもりだろ」

「もちろん、ラジオ局には行くよ。でも、今回のことを先に知らせたい人がいるから」

 エリカは、ドーナツ屋が入ったビルを迂回うかいして、横断歩道を渡った。榊の店がある大通りは、ビル群に隠れて見えなくなる。この辺りは以前にモンスターが暴れたのか、建物の損壊が特に酷かった。瓦礫に足を取られないよう注意深く進むうちに、エリカは雑居ビルの一つの前で立ち止まった。一階のファミレス跡地を素通りして、闇がこごったビルのエントランスに入っていき、零一を振り返って手招きする。

「着いたよ。火鍋ひなべをみんなで囲むのって、久しぶり。わくわくしちゃう」

「……地下?」

 零一は、思わず呆けた声を上げた。

 月明かりが射し込んでも濃い闇がわだかまるエントランスの奥に、地下に続く階段が延びていた。行き止まりの扉にはまった窓ガラスから、橙の灯りが漏れている。格子こうしによって十字の切り込みが入った光は、雑居ビルが居並ぶ地上はおろか、零一たちが立つエントランスにすら届かない。

「〝常夜〟を一周したときにも、この道は通ったのに……全然気づかなかった」

 というよりも、地下の存在自体が盲点だった。目から鱗が落ちる思いを味わっていると、エリカが得意げに胸を張った。

「この場所をいまだに知らない住人って、かなり多いんじゃないかな。〝常夜〟滞在歴三か月の新人なら、なおさら。榊さんのお店からは近いけど、灯台下暗しってこういうことを言うんじゃない?」

「でも、店は激辛で有名って言ってなかったか?」

「火鍋のもとをテイクアウトできるから、常連さんが他の住人に配ってるの。だから、お店に一度も来たことがない住人のほうが多いよ」

 エリカは、おもむろに屈み込んだ。ブーツの紐でも解けたのだろうかと見下ろすと、足元の瓦礫をかき分けて、豆電球がついたコードを引っ張り出している。店先に出す電飾だと予想できるが、瓦礫で隠していたのは明らかだ。

 エリカは慣れた手つきでコードを往来の手前まで引き出すと、電飾のスイッチを操作した。ぱっとマッチの炎のようなオレンジが弾けて、小学生時代の理科の授業で見た光が、〝常夜〟を包む巨大な闇に、小さな輝きで立ち向かう。

 かと思いきや、今度は灯りのスイッチをオフにした。エリカはすぐにまた電気を点けて、独特のリズムでスイッチのオンオフを繰り返している。

「何してるんだ?」

「あっ、応答があった!」

 エリカは嬉しそうに囁くと、エントランスの出口の闇を指さした。零一も見上げた夜色のビルで、きらりと何かが瞬いた。一瞬の流れ星のような光を見届けたエリカは、今度こそスイッチを切ってから、コードを元通り瓦礫に埋めた。

「これでよし、っと。それじゃ、行くよ。すぐにミキさんたちが来るから、先にお昼ごはんの注文を済ませとかなきゃ」

「ミキさんが? どうして……」

 昨夜のモンスター騒動後に、零一からオープンサンドを最も多く毟り取っていった、年齢不詳の美女の顔が、頭に浮かぶ。真っ暗な階段を下り始めたエリカを見下ろすうちに、零一にもカラクリが読めてきた。

「モールス信号か? おい……相手が向かいのビルにいるのが分かってるなら、まどろっこしい通信よりも、普通に呼びに行けばいいだろ……」

「いいじゃん、スパイ映画とか推理小説っぽくて楽しくて。これをやるためにみんなでモールス信号を覚えたんだから」

「暇人かよ……」

「君はとことん冷めてるね。こういう雑学が、何かの役に立つかもしれないじゃん。零一だって、ちょっとは楽しそうな顔してるくせにー」

「俺は、別に……」

 不平を述べようとしたが、はしゃいでいるエリカを見ていたら、些細なことなんてどうでもよくなってきた。〝現実〟の零一が知り得なかったエリカの日常が見えた気がして、改めて思う。

 零一は本当に、〝常夜〟のエリカを知らないのだ。

 ――『みんなで〝常夜〟を脱出する。志はご立派だと思います。でも、『脱出』って何ですか? 榊さんの言い方だと、〝常夜〟で暮らすことは悪いことみたい』

 エリカが〝常夜〟の住人たちを大切に思っていることは、伝わった。だが、榊との議論で交わされた言葉の中には、住人たちへの思いやりだけでは言い表せない、抜き差しならないものがあった。水面に落とした墨汁のように、懸念けねんが胸に拡がっていく。

 エリカは――〝現実〟に、帰りたくないのだろうか。

 かつて零一と共に過ごし、夢を叶えたはずの〝現実〟に。

「零一? 早くおいでよ」

 アッシュグレーの髪がなびき、闇の中でエリカが振り向く。地獄へ続く洞穴のような暗がりを見下ろした零一も、覚悟を新たに階段を下りた。

 胸中の懸念を言葉に変えて問い詰めても、〝現実〟の記憶に関わる会話すら拒否したエリカは、頑として口を割らないだろう。少なくとも、今はまだ。ならば今の零一にできることは、記憶を全て取り戻すことであり、榊の件を早急に解決することだ。

 階段の中腹まで下りたところで、終着点の扉に掲げられた木の看板に気づく。墨痕ぼっこん鮮やかな筆致で『四川しせん料理・雹華』と書かれているのが、薄明りでかろうじて読み取れた。

「なんて読むんだ? 『ヒョウカ』か?」

「そうだよ。『雹華ヒョウカ』は、店主の奥さんの名前なんだって」

「へえ、珍しい名前だな」

「日本では珍しくても、向こうでは人気の名前かもよ? あ、足元に気をつけてね。今度エイジさんが階段の補修をしてくれるけど、あちこち脆くなってるから」

「向こうって……日本人じゃないのか」

「日本人と中国人のハーフだよ。無口だけど、すごく良い人なんだ」

 地下に降り立つと、周囲は思いのほか広かった。『四川料理・雹華ヒョウカ』の隣にも飲食店があったようだが、すっかり風化が進んで入り口の扉が外れている。エリカはそちらに寄り道すると、瓦礫で汚れた手をシンクの水道で洗い始めた。この辺りのインフラも、死んでいるようで生きている。電気や水道を使えることが、記憶喪失者たちの不安を和らげているのかもしれない。そんな考えを、零一は〝常夜〟に来てから初めて抱いた。

「お待たせ。入ろう」

「ああ」

 木製扉を思い切って押し開けると、橙色の輝きが全身を包んだ。

 光に目が慣れてくると、目の前に細長い空間が現れた。四人掛けのテーブル席が手前に二つ、奥にカウンター席が設けられた小さな店は、電灯で煌々と明るかった。エリカの六〇二号室とは違い、ここは電球が切れていない。白いタイルと板張りの壁、赤い提灯の飾りが目に眩しい。香辛料の刺激的な香りが、鼻孔にするりと滑り込む。落ち着いた雰囲気のBGMまで流れていて、零一は呆然としてしまった。〝現実〟と見紛う空間なのに、〝常夜〟の暗さに慣れた所為か、それこそ異界に流れ着いた気分だった。

飛龍フェイロンさん、こんにちは!」

 エリカの華やいだ声が響くと、カウンター奥の厨房で、びくりと気配が跳ね上がった。零一はそちらを振り向いて、心臓が止まりそうなくらいに吃驚びっくりした。

 清潔な印象の厨房に、岩かと思うほどの大男がいたのだ。

 年齢は、四十代くらいだろうか。大工のエイジとそう変わらない気がした。エプロンをつけたTシャツ姿から、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうたる身体のラインが見て取れる。短く刈った黒髪と、いかつさが前面に出た無表情も、職人気質な風情を伝えていた。

 存在感の塊のような大男にもかかわらず、零一はエリカが声を掛けるまで気づかなかった。相手もエリカを見るとそわそわと視線を泳がせているので、日頃から気配を殺すことにけた人物かもしれない。

 親近感を抱いていると、目が合った。零一が会釈すると、殺気に満ちた視線が返ってきた。冷や汗が噴き出た零一は、後ずさって扉に衝突する。

「エリカ……俺、睨まれてないか?」

「何言ってるの? 普通だよ?」

 エリカが厨房に顔を向けると、大男から放たれる殺気は消失した。しかし、エリカが零一に向き直って「もう、失礼なことを言っちゃだめだぞっ」と言ったときには、やはり大男が不動明王ふどうみょうおうも顔負けのすごみを利かせてきた。零一は、ぎこちない笑みを顔に貼りつけて、一応エリカに耳打ちする。

「昼食は、別の所にしないか?」

「零一ってば、さっきから本当に何言ってるの? すぐにミキさんも来ちゃうんだから。飛龍フェイロンさん、火鍋ひなべを食べにきました! 麻辣マーラー白湯パイタンの二色鍋、今日は用意がありますか? あと二・三人来る予定なんだけど、大丈夫かな」

 フェイロン、とエリカに呼ばれた大男は、エリカと目を合わさないまま、かくかくと人形のような動きで頷いた。頬と耳が、なぜか赤い。「よかったぁ」と言って破顔したエリカは、零一の腕を引き、無情にもカウンター前まで連行していく。

飛龍フェイロンさん、紹介するね。二週間前に〝常夜〟に来た零一だよ」

「初めまして……零一です」

 隣にエリカがいるからか、大男が零一に向ける殺気は多少マイルドになったようだが、エリカがまだ零一の腕を掴んでいる姿に気づいたからか、雰囲気が般若はんにゃのように凶悪な尖り方をした。エリカだけは、大男の殺気にも零一の狼狽にもまるで気づいていない様子で、今度は零一に大男を紹介した。

「零一、この方は呉飛龍ウーフェイロンさん。陰暦六月を表す『い涼呉月すずくれつき』の呉に、飛ぶ龍って書いて、ウー・フェイロン。格好いい名前だよね」

 大男の殺気が、分かりやすく円やかになった。零一は胸をなでおろし、「そうだな」と相槌を打つ。途端に、零一の横面に刺さる視線が、剣山けんざんのように鋭くなった。零一の発言は、誉め言葉であれかんに障るらしい。

「二人とも、緊張してるの? そういえば二人とも似てるところがあるし、気が合いそうだよね」

 どこがだ、という文句を吞み込んで、零一は硬い笑みを作る。呉飛龍ウーフェイロンはにこりとも笑わずに、業務用冷蔵庫から食材を取り出し始めた。エリカは零一の腕を再び引いて、入り口付近のテーブル席まで導いた。とんとんとん……と包丁でまな板を叩くリズミカルな音が、店内のBGMと調和する。

 零一はコートを壁に掛けてから、飛龍フェイロンの横顔を盗み見た。仕事に専念する男の目は真剣で、零一に別の人物の顔を思い出させた。

「零一、どうしたの?」

 モッズコートを壁に掛けたエリカが、零一の視線を追いかけた。「いや……」と零一は口を濁してから、声を潜めて打ち明けた。

「〝大将たいしょう〟って呼び名は、こういう人のほうが似合ってるな、って思っただけだ。……大将には、悪いけど」

「ああ、確かにね。大将って穏やかな雰囲気のイケメンだし、屋台の店主よりも公務員ですって言われるほうが納得できそうって、ミキさんも言ってたなぁ」

「イケメンって……まあ、そうかもしれないけど」

 話の流れが、面白くない方向に舵を切り始めた。仏頂面で着席した零一に気づいているのかいないのか、エリカも零一の隣に座ってから、考え込むように言った。

「大将も、自分の名前だけでも思い出せたらいいのかもしれないけど……人には人のペースがあるからね」

 声音は何げない調子なのに、台詞にはしんみりとした重みがあった。「……そうだな」と零一も同意してから、不意に気づく。

「そういえば、最近あの人を見てないな……」

 零一が最後に大将の顔を見たのは、エリカと一緒に屋台で夕食を取ったときだ。エリカとヒロからは、大将に食料を分けてもらったと聞いているので、あれからも変わりなく暮らしているのだと信じていたが、モンスターに襲われた件もある。顔を見ていない時間が長いと、少しばかり不安になった。

「そういえば、あたしも卵を分けてもらったとき以外は、零一と屋台に行ったときしか顔を見てないや。大将、また仕入れに苦労してるのかなぁ。たまに零してるんだよね、仕入れが大変だーって。生鮮食品を多く扱うからかな」

 エリカは、割り箸をテーブルに並べると、不思議そうに小首を傾げた。

「大将って、屋台の予定が分かってるときは会いやすいけど、そうじゃないときは神出鬼没というか、どこにいるか分からないんだよね。住まいにしているマンションは知ってるけど、そこにいないことも多いらしいし……そういう人って〝常夜〟じゃ珍しくないから、特に気にしてなかったな」

「……そうか」

 住人の私生活には、深入りしない。そんな〝常夜〟の性質が、あらゆる場面に染みついている。孤独の気楽さは、零一も知っている。だが、〝現実〟の妻子のことすら忘れ去り、ネックレスに結婚指輪を通した男の儚げな微笑を思い出すと、なんだか放っておけない気持ちになった。

「また今度、一緒に行くか。屋台に」

 エリカが、零一を見つめた。やがて明るい笑みが花開き、「うん!」と嬉しそうに頷いてくる。零一は気まずくなったが、そう悪くない気分に浸っていると、ぬっと頭上から影が差した。飛龍フェイロンがそばに立っていて、カセットコンロをテーブルにセットし始めた。

「あ、どうも……」

「……」

 露骨な殺気を返事代わりに、巨体は厨房へ去っていく。謎の天敵扱いにげんなりする零一をよそに、エリカは楽しそうにメニューを開いていた。

飛龍フェイロンさんのお店、普段は激辛の麻婆豆腐丼だけの営業だけど、冬の間は火鍋ひなべもやってるんだ。仕入れが上手くいったときの限定メニューだけどね」

「いまさらだけど、火鍋ってどんな料理なんだ?」

「中国の鍋料理だよ。これから食べるのは、唐辛子とかの調味料で真っ赤な色の麻辣マーラースープと、魚介類と豚骨で作った白湯パイタンスープの二色鍋。太極の『陰陽』みたいな仕切りがついた丸鍋なら、零一も見たことがあるんじゃない? 具はメニューから選んで好きに追加できるけど、ここは〝常夜〟だからね。〝現実〟ほど食材は豊富じゃないよ。ラム肉とか砂ずりとかは、さすがに仕入れ失敗だろうなー」

 メニューの写真には説明通り、勾玉を二つ円形に嚙み合わせた形の金属鍋に、紅白のスープが入っていた。豆腐、野菜、肉に海鮮。具は一般的な鍋料理と変わらないようだ。『ユアとアユの常夜鍋とこよなべ』というラジオ番組名を連想し、やはり少し気になった。

「アユは、本当に大丈夫か?」

「うん。アユちゃんはしたたかなところがあるし。それに、榊さんがアユちゃんと話をしても、すぐにラジオで〝常夜会議とこよかいぎ〟の開催を呼びかけたりはできないよ」

「なんで、そう言い切れるんだ?」

「だって、周囲の人を巻き込む大きな決断をするときに、独断で物事を進めたりする? 〝常夜会議〟の招集は、榊さんの一存じゃ決められないし、アユちゃんに頼むだけじゃ無理だよ。〝常夜〟の実力者四人のうち、最低一人の承認を得ない限りね」

「実力者……四人?」

 そう訊き返したときだった。木製扉がおもむろに開き、冷たい外気とともに、ハスキーな声が飛び込んできたのは。

「来たわよー、エリカちゃん、フェイちゃん。……あら、意外。零一君も、ついにここに来ちゃったのねぇ」

 黒いファーが付いたコートに、やたらと短いスカートと、これまたやたらと高いヒールをコツコツと鳴らして入ってきたのは、インチキ霊能者のミキだった。マフラーを外して緩いウェーブの掛かった髪を手で払うと、こちらに妖艶な流し目を送ってくる。『ちゃん』付けで呼ばれた飛龍フェイロンが、厨房で嫌そうに気配を淀ませたのが分かった。

「ミキさん、こんにちは!」

「エリカちゃん、寂しかったわよぉ? 零一君が〝常夜〟に来てから、女子会にも全然顔を出さないんだもの」

「あはは、ごめんなさい。今度は零一を連れて行きますね」

「やだ、それ面白そうじゃない。零一君なら大歓迎よ?」

「いや、俺は女子会には……それより『ついにここに来た』って、どういう意味……」

 二人の会話に割り込もうとすると、開いたままの木製扉から「賑やかだな」と男性の声が聞こえてきた。渋さを感じる低い声だ。短髪に少し白いものが混じり始めた男は、厚手のジャンパーを着ていても、鍛えられた身体つきがよく判る。垂れ目がちの瞳に、飛龍フェイロンとよく似た職人気質を感じた。零一は、目をしばたいた。

「エイジさん」

「ああ、零一君も来ていたのか」

「はい……あの、杉原すぎはらさんと、宇佐美うさみさんは?」

 ミキとエイジ。この二人が揃えば、行動を共にすることが多い他の二名も一緒だろう。そう当たりをつけた通り、エイジの背後からまた一人、店内に入ってきたのは清楚な身なりの女性だった。品の良いロングスカートが似合っていて、零一とエリカに気づくと穏やかに微笑みかけてくる。

「こんにちは。零一君。エリカちゃん」

「わあ、杉原さん! 来てくれたんですね!」

「ええ。お食事はご一緒できないけれど、エリカちゃんがいると聞いたから、少しでも顔を出したくて……」

 席を立ったエリカが、杉原と手のひらを合わせた。親密な様子の二人を見て、零一は気づく。この面々とエリカが話しているところを見るのは、初めてだ。また一つ、〝常夜〟のエリカを知るパズルのピースが手に入った。ジャンパーを脱いだエイジが、「宇佐美うさみの爺さんなら、今日は来ねえよ」と言って、さっきの零一の疑問に答えてくれた。

「フェイロンの店の前、足場が悪いからな。転んでも医者はいねぇからなって言い含めてきた。火鍋のもとを持ち帰ってやるよ」

「医者……やっぱりいないんですね」

 なんとなく察していたが、その通りだと突きつけられると、うっすらと気圧されるものがある。「ああ。平和に生きたきゃ、怪我や病気に気をつけることだな」とエイジは言って、なぜか零一を見つめて、黙り込んだ。

「? あの……?」

「お前さん、昨日までよりも、人のことをちゃんと見るようになったな」

「え……?」

「……いや。今はいい。あとでな」

 エイジは、今度はエリカをちらと見た。さっきのミキの台詞といい、店主の飛龍フェイロンの攻撃的な態度といい、何かが零一に隠されている。答えを求めてエリカを見ると、悪戯いたずらっぽい笑みが返ってきた。よく通る透明な声が、人数が増えて活気づいた店内に響き渡る。

「零一。あたしたちの秘密基地へ、ようこそ」

 エイジが苦笑いで「秘密基地って言っても、本気で隠してるわけじゃないからな。ヒロあたりには近々バレるだろうよ」と合いの手を入れて、ごく軽い調子で続けた。

「さて、と。エリカちゃん。そこいらの住人たちが怯えてるから、何が起こっているかは、こっちでも把握してるけどな。事実確認といこうじゃねえか。何があった?」

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