3-5 帰りたい?

 重い沈黙が、室内を支配した。零一は、さかきの生真面目そうな顔を見つめ返す。

 ――〝常夜〟から、〝現実〟に帰る?

 そういえば、零一が色違いの隕石捜しを始めた理由は、〝現実〟への足掛かりを見つけるためだ。それに、零一自身も初めてラジオ局へおもむいた際に、ラジオパーソナリティを務めるアユに、この疑問をぶつけている。〝常夜〟から〝現実〟に帰る方法はあるのか、と。他の住人たちにも訊いていたが、『いずれ分かる』と諭されたきり、零一は今も答えを知らないままだ。モンスター騒動で慌ただしかった所為もあり、この疑問と向き合うのが後回しになっていた。

 だが、記憶の一部を取り戻した今、さかきから初心を突きつけられると、据わりの悪さを感じて戸惑ってしまった。かつてアユに言われた台詞せりふが、脳裏に冷たく蘇る。

 ――『零一さんは、出たいんですか? 〝常夜〟から』

 そして、戸惑いを見せたのは、零一だけではなかった。

「……榊さん。昨日ここに来てくれたときと、少し雰囲気が変わりましたよね」

 エリカが、ぽつりと言った。声音は平静を取り繕っていたが、表情からは戸惑いを拭い去れていなかった。

 榊は少しだけ気まずそうに黙ってから、カーペットに座るヒロへ視線を向けた。幼い子どもの手前、踏み込んだ質問はしてほしい。そんな思惑が伝わる視線だった。

 しかし、榊の雰囲気が変わったというのなら、エリカの様子もまた普段とは明らかに異なっていた。他者から示されたあからさまな拒絶のラインを、エリカは珍しく堂々と踏み越えて、ソファの榊をひたと見上げている。

「みんなで〝常夜〟を脱出する。こころざしはご立派だと思います。でも、『脱出』ってなんですか? 榊さんの言い方だと、〝常夜〟で暮らすことは悪いことみたい」

 零一は、虚をかれた。榊から提案を受けたときに、ローテーブルを挟んだこちら側と向こう側で、目には見えない齟齬そごが生まれた理由を、今こそ悟る。零一が言語化できなかった異質さを、エリカは次々と言葉に置き換えていった。

「あたしは、榊さんが〝常夜〟の歴史や、〝現実〟との繋がりを調べていることを、非難しているわけではありません。むしろ、応援していました。榊さんの研究は〝常夜〟にとって有益で、役立つものだと信じています。でも、みんなは本当に『帰りたい』かどうか、全員の意見をきちんと訊きもしないで、『全員で脱出』という目標を勝手にかかげることには、あたしは賛成できません」

 エリカの抗議を呼び水にして、零一は〝常夜〟の住人たちの顔を思い出す。特に、ラジオ局に住み着いた、一人の身体を二人で使う、セーラー服姿の少女のことを。

 ――『ユアが、現在の状況をどう思っているのかは分かりませんが――私にとって、この〝常夜〟は楽園です』

 少なくとも、一人。〝常夜〟を楽園だと言った一人だけは、〝現実〟への帰還を望んでいない。アユだけでなく、他の住人たちだって、それぞれ〝現実〟で何かがあったのだ。零一は、思わず呟いた。

「〝常夜〟の誰もが……帰りたいって、思ってるわけじゃない」

「そういうこと」

 エリカは頷くと、居住まいを正して、榊に視線を戻した。

「榊さんが、あたしたちに話があるということは、分かりました。でも、ここにひー君を連れてきたのも榊さんです。ひー君を理由にして、自分の主張だけを都合よく話そうとするのは、公平性を欠くとは思いませんか?」

 存外に強い糾弾きゅうだんだった。榊の態度を『ずるい』と真っ向から非難せずに、わざわざ『公平性を欠く』という難解な言い回しを選んだのは、傍らに座るヒロに少しでも伝わりにくくするためだろうか。ヒロにとって榊は親代わりなので、ささやかな配慮だろう。

 案の定、ヒロは目を白黒させていた。ただ、それでも当然だが、ぎすぎすした雰囲気だけは隠しようがない。不安そうに榊とエリカを見比べている。エリカは笑みを作ると、〝星〟を抱えていないほうの腕をヒロの肩に回した。

「ひー君だって、立派な〝常夜〟の一員ですよ。聞く権利があります。逆に言えば、ひー君に話せないようなことを、あたしと零一に話すのはやめてもらえませんか。あたしたちには、聞きたくない話を聞かない権利があります」

「……弁が立つのね、エリカちゃん。それに、自分たちの不利益にも敏感で、頭も切れる。敵には回したくないわね」

 榊は、困ったように笑っていた。零一とエリカのくだらない喧嘩を目撃したときとよく似た笑みから、そういうポーズを取っているのだと分かる。弁が立つのは、榊も同じなのだ。エリカは沈黙してから、やがて言った。

「これでも、文学部の大学生なので」

 はっとした零一は、エリカを見た。視線には気づいているはずなのに、エリカはこちらを見ようとしない。零一は口を開きかけたが、ひとまず駆け引きを見守ることにした。

 少なくとも――やはりエリカには、記憶がある。それが確認できれば、今はいい。

「榊さんは、零一抜きであたしと話している間は、そんな話をしませんでした。このタイミングで話した理由は、二つありますね。一つは、この話を零一に聞かせたいから」

「俺に?」

 水を向けられた零一は、ぎょっとする。エリカは零一に構わず、榊だけを見据えていた。えた瞳は、〝現実〟の野外ライブでマイクを握ったときと似ているようで違っている。こんな目をしたエリカを、果たして〝現実〟の零一は知っているだろうか。

「もう一つの理由は……思い出したんじゃないですか? 榊さんは、昨日ここを出てから、今までの間に。――〝現実〟の記憶を、全て」

「! 記憶を……っ?」

 零一がソファを振り向いても、榊は作り物めいた笑みを崩さなかった。だが、根競べはすぐに終わり、榊は美貌に苦笑を浮かべると、素直な声音で謝ってきた。

「ごめんなさい。ちゃんと説明しなきゃ駄目よね。私が包み隠さず話したら、私のお話を聞いてくれるかしら」

 エリカが、返事をしかけた。その前に、零一が割って入った。

「……話してください。榊さん」

「零一」

 エリカが、ようやく零一を振り向いた。愁眉しゅうびを開いた表情は、零一が今朝倒れる間際に見た泣き出しそうな表情とひどく似ている。

「あたしは反対。零一は、まだ記憶を全て思い出してない」

「全て思い出さないと、榊さんの話を聞けないってことはないだろ?」

 言い返すと、エリカは急に黙り込んだ。〝現実〟でも勉強熱心で優等生だったエリカなら、零一の指摘くらいすぐに論破しそうなものなのに、少しばかり不自然だった。怪訝けげんに思ったが、零一は続けた。

「エリカ。さっきも言ったけど、俺は……絶対に、続きの記憶も取り戻す。先に記憶を全て取り戻した榊さんの話は、俺にとって参考になるかもしれない」

 エリカは唇を噛んでから、厳しい眼差しはそのままに、榊に向き直る。榊は了承と見做したのか、殊勝な笑みを見せた。

「二人とも、ありがとう。……まずは、昨日の出来事から説明します。図書館に出かけた私は、〝常夜〟で記憶を失った人たちの研究を進めていたわ。あの図書館には〝常夜〟の歴史をひもとく上で重要な資料が保管されているの」

「手記、ですよね」

「知っているのね」

「はい、ラジオ局でユアから聞きました。実は俺も、昨日は手記を読みたくて、図書館に行ったんです」

「そうだったの。ごめんなさいね。零一君が読みたい手記は、これのことね」

 榊は、ハンドバッグから冊子を取り出した。文庫本サイズの紙束は、想像以上に薄っぺらく、黒い紐でじられていた。紙の角が少し破けて傷んだ冊子は、予想よりも古びておらず、表紙の白さをランタンと〝星〟が照らしている。

「それが、手記……」

「ええ。情報量は、思っていた以上に少なかったわ。記録をつけるようになってからの歴史が浅いのね。手記と呼ばれてはいるものの、記憶喪失者たち全員の症状が網羅されているわけでもないの。自由に記入するスタイルだったらしくて、記載者が本人か代理人かどうかも不明な上に、正確な日付も書かれていないわ。〝常夜〟にも季節はあるけれど、今日が〝現実〟の何月何日に当たるのか、厳密には分からないからでしょうね」

 榊は、手記をぱらぱらと捲って見せた。ランタンと〝星〟があるとはいえ、他には月明かりくらいしかない夜色のリビングでは、零一の視力をもってしても、遠目には手書きの文字が綴られていることくらいしか読み取れない。

「けれど、さまざまなことが書かれているわ。住人の誰が〝常夜〟にどんな影響を与えたか、どんな商業施設を〝現実〟から連れてきたか、モンスターの被害に遭った人の氏名、被害に遭った回数もね。先日の大将たいしょうさんと、昨日のひー君の記録は、私が付けさせてもらったわ。……あら、エリカちゃんは読んだことがなかったのかしら」

 話の半ばで、エリカが顔色を変えていた。月光の青白さと、〝星〟のピンク色に照らされた硬い表情を、榊は一瞥する。

「それとも、あえて読まないようにしていたのかしら」

 空気のきな臭さは、もはや決定的だった。零一がリビングに入るまでは間違いなく友人同士だったはずの二人が、意見の相違で敵対している。固唾かたずを呑む零一に、ヒロがしがみついてきた。怖がっているが、子どもなりに大事な話をしていると感じているのか、意外なほどに大人しかった。

「……まだ貸出期間があるから、もう少しだけ私が読ませていただくわ」

 榊は、奥歯にものが挟まったような言い方をした。エリカが、表情の険しさは変えないまま、ほっと緊張感を緩めた気配が伝わってくる。

「話を戻すわ。昨日、図書館を出た私は、買い出しを済ませてから、自分のお店に戻ろうとしていたの。そのときよ、宇佐美うさみさんたちから零一君の話を聞いたのは。その直後にモンスター騒動があって、私はひー君を助けてもらったお礼をラジオ局へ伝えに行ったわ。次にエリカちゃんの家に伺って……ひー君と二人で自宅に帰ったときに、思い出したの。、って」

「それって……まさか」

「ええ。記憶が、戻ったのよ」

 手記をハンドバッグに仕舞った榊は、ニットワンピースを着た身体を、両腕で抱きしめた。セミロングの黒髪が揺れて、声の切実さが加速していく。

「思い出したら、居ても立っても居られなくなったの。だって、〝現実〟の私の身体は眠っていて、今の状況は夢みたいなものなのでしょう? 皆さんからは、そんな説明を受けているわ」

 その説明は、零一も受けている。〝現実〟の零一たちは眠っていて、〝常夜〟での生活は夢のようなものなのだと。

「でも、〝現実〟の私の身体が眠っている状態なんだとして、一体どこで寝ているの? この三か月を生き延びているということは、きっとどこかの医療機関で然るべき処置を施されているって想像できるけど、その間の仕事は? アパートの維持費は? お金の問題は、実家の家族が工面くめんしてくれたって信じたいけど、私がいない〝現実〟がどんなことになっているのか、〝常夜〟の私には確かめるすべがない……私は、この夢を終わらせなくてはならないの。〝現実〟に帰るために、早く目覚めなくてはならないの」

「……」

 かつてエリカと屋台へ出かけたときに、大将が零一に語った台詞が、今になって現実味を帯びてくる。

 ――『零一君。できれば気を悪くしないで聞いてもらいたいんだけれど、私は君が〝常夜〟に来たことで、実は少しだけ焦っていたかもしれないんだ』

 なけなしの記憶をモンスターに喰われた男が、懊悩おうのうを打ち明けた際の言葉。あのときの焦りが、榊の焦りと重なった。

 謎めいた終末世界に漂着し、〝現実〟で眠っているという身体の状態は不明であり、放り出してきた仕事も気になり、居ても立っても居られない――これが、普通の反応なのだ。〝現実〟の記憶を全て取り戻すということは、今の榊の姿を指している。

 逆にいえば、危機意識がこのラインに達していない零一は、まだ〝現実〟の零一から遠い所にいるのだろう。零一は、拳を握りしめた。

 手の平に爪が食い込む痛みには、確かな現実感があった。エリカの手が額に触れたときの温もりだって覚えている。

「夢って言われても、俺は……この世界が、夢だとは思いません」

 食事を怠れば腹が減り、事故を起こせば最悪の場合死に至り、モンスターに襲われたら身体も残さず消滅する。そんな存在を成り立たせている世界は、本当に『夢』の一言で片づけられるものだろうか。

 答えは、決まりきっていた。隣にいる少女だって、零一に昨夜言ったのだ。

 ――『深刻そうな顔しないでよ。あたしたち、ここで生きてるんだからさ』

「……零一君。〝常夜〟のことを夢だと言ったのは、言葉のあやよ」

 榊は冷静に切り返すと、零一を見た。ピンク色の〝星〟の光が、銀縁ぎんぶち眼鏡のつるで流れ星のように揺れ動く。窓から射す月光が、美女の頬の輪郭を輝かせた。

「私たちに現実感がある以上、この〝常夜〟は『夢のようなもの』であるだけで、決して夢ではないわ。だからこそ、零一君。私はあなたを研究したいの」

「……研究? 俺を?」

 突拍子もない台詞に、零一は面食らう。榊は至極真面目な顔で頷くと、ソファから身を乗り出してきた。

「そうよ。さっきエリカちゃんに指摘された通り、私は昨日ひー君を連れてここに来た時点では、今日は改めてお礼を言いに来るだけのつもりだったわ。でも、記憶を取り戻した今は、他にも目的が出来たの。零一君。あなたには価値があるわ。きっと他の住人の皆さんにはない、〝常夜〟という世界を変えるものを持っているはずよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。俺は、ただの大学生で……」

「でも、あなたは昨日、モンスターに狙われなかったわ」

 切り込むように告げられて、零一は黙った。零一に寄りかかって眠たそうな顔をし始めたヒロを、思わず見下ろす。

 そういえば、忘れかけていたが――ヒロを助け出す直前に、零一はモンスターと真正面から向き合っている。思えばあのとき、近くには榊もいたはずだ。陰で零一の様子を見ていたのかもしれない。

「それに、あなたは〝常夜〟に隕石を連れてきた」

 榊は、視線を零一からエリカに移した。正確には、エリカの両腕に抱かれた、色違いの隕石――ピンク色に輝く〝星〟に。

「娯楽や文化、生活に必要な施設を〝常夜〟にもたらした住人たちはいても、〝天災〟を連れてきた人間なんて、手記には一人だって例がないわ。零一君、あなたを除いては。モンスターに狙われなかったことも含めて、私はあなたのことを調べたいの」

 天災――その一言が、胸にずきりと突き刺さった。

 けれど、隣から聞こえた声が、言葉の痛みを打ち消した。

「榊さん、零一はモルモットじゃないよ」

 冴えた声が、空気を叩いた。薄暗い探求欲の熱気が霧散して、気の所為かピンク色の輝きが強くなる。同じ光を瞳に煌めかせたエリカの眼差しは、今度こそ〝現実〟の野外ライブでマイクを握ったときと同じだった。

「あと、天災だなんて二度と言わないで。榊さんは、この綺麗な石が、本当に災いを表してると思うの? あたしは、そうは思わない」

「災いでなければ、なんだというの?」

「希望」

 エリカは、即答した。〝現実〟で一限の講義に間に合わなかった零一を、電話で目覚めさせたときのように、不敵な笑みを浮かべて断言する。

「そう考えるほうが、夢があって素敵でしょ?」

 榊は、不意を衝かれた様子で黙り込み、やがて白熱したことを恥じ入るように微笑んだ。初対面のときの柔らかい印象が戻ってきたが、まだ議論は終わらなかった。

「エリカちゃん。私の研究に協力するか、それともしないか。それを選ぶのは、零一君だと思わない?」

「榊さん、本当に雰囲気が変わりましたね。まだ記憶を取り戻しきれてない零一に選択を強いるのは、人の弱みにつけこんでいるみたいで感心しません」

「そうね。認めるわ。でも、私も必死なの。分かるでしょう?」

「分かりません。想像して、共感することならできますが、そもそも榊さんの抱えた事情や焦りは、あたしたちには関係ありませんよね? 論点をずらして、同情を引いて、零一を巻き込まないでください。研究のことだけじゃなくて、さっき話していた『全員で帰る』っていう理想にも。住人たちの意思を、ないがしろにするべきではありません」

「それなら、確認しましょう」

 さらりと、榊は言ってのけた。エリカが、形のいい眉をひそめた。

「確認?」

「そうよ。私だって〝常夜〟滞在歴が三か月とはいえ、三か月もあればさまざまなことを調べられたわ。この〝常夜〟では不定期で、住人の皆さんが自由に集まる会合が開かれていたそうじゃない。最近はどういうわけだか、開催されていなかったようだけど」

「会合? そうなのか、エリカ」

「……〝常夜会議とこよかいぎ〟」

 エリカが、囁いた。唇を噛み、複雑な表情で榊を見上げている。榊のほうは、勝ち誇った顔をしているかと思いきや、こちらも複雑な表情をしていた。身体のどこかが痛んでいるような表情は、すぐに自信と冷静さに糊塗ことされた。

「ええ。〝常夜会議〟。住人たちの間で何かを取り決める必要が出た際に、皆さんで開いた会合の名前。議事録の存在は、この手記が教えてくれたわ。肝心の議事録の保管場所は突き止められなかったけれど、住人の誰かはご存知でしょう? それに、今は議事録が見つからなくても問題ないわ。……さあ、開催しましょう。久しぶりの〝常夜会議〟を。ラジオ局に行ってアユちゃんに声をかけたら、明日にでも皆さんを集めてくれるでしょう?」

 鋼の意思を宿した眼差しが、エリカを射抜く。次に零一が耳にした榊の台詞は、紛れもない宣戦布告だった。

「多数決よ、エリカちゃん。〝現実〟に帰りたい住人と、〝常夜〟に残りたい住人。一体どちらのほうが、多くの票を集めるかしら」

「そんな提案を、よりによってアユちゃんにするなんて……榊さん、本気なんですね」

 エリカは、受けて立ったようだ。黒いワンピースのリボンや飾りベルトを翻して、カーペットから立ち上がる。

「榊さん。これだけは、わざわざ約束を取りつけなくても、榊さんなら守ってくれると信じていますが、言わせてください。あなたも記憶を取り戻したなら、分かるはずです。〝常夜〟の人たちは、〝現実〟でつらいことがあって、傷ついてきた人たちです」

 エリカは、言葉を区切る。微かな息遣いから伝わる葛藤は、次の呼吸で断ち切られ、零一がまだ知らない覚悟のこもった声で、凛と響いた。

「心も、身体も」

 重い台詞が、頭の奥を揺らした。途方もなく大切なことを、告げられた気がした。眩暈の向こうに隠された何かを探ろうにも、今はまだ手が届かない。歯痒さに苦しむ零一を守るように、さやかな声がリビングの冷えた空気に染み渡った。

「〝常夜〟のみんなを、傷つけることだけはしないで。もし誰かを泣かせたら、あたしはあなたを許さない」

「……帰るためだもの。綺麗ごとだけじゃ、生きていけないのよ」

 その台詞を吐き出したときだけ、榊は俯いた。心細そうに肩を落とし、前髪の影が目元を覆った姿は、零一たちと歳が変わらない少女のように見えた。けれど、顔を上げたときにはもう、優美な笑みを湛えた大人の女性に戻っていた。

「今度こそ、そろそろおいとまします。エリカちゃん、今日はどうもありがとう。零一君、お大事にね。……ひー君。さあ、帰りましょう?」

「んー、もう帰るのぉ? 僕もっとここにいるぅ」

 ヒロは半分眠りかけていたようで、零一に寄り掛かりながら不機嫌そうに駄々をこねた。しかし榊が「お昼ごはんは、ドーナツ屋さんに行くんでしょう?」と優しく声をかけると、機嫌はころっと直り、弾む足取りで立ち上がった。

「零一にいちゃん、エリカねえちゃん、またね!」

「ああ、またな……」

「いつでもおいで、ひー君」

「エリカちゃん、安心して。その光る石を見つけたときは、これからもあなたたちに渡すと約束するわ」

 白いトレンチコートを腕に掛けて、玄関先で振り向いた榊は、穏やかに言った。零一の隣に並んだエリカは、警戒の眼差しを榊に向ける。

「どうしてですか。敵に塩を送っているつもりですか?」

「敵だなんて、思っていないわ。エリカちゃんには〝常夜〟の秘密を解き明かす気がないのは分かったけれど、その石の研究はするのでしょう? 希望を、証明するために」

 榊は、口角を上げた。エリカの頬が、かっと紅潮する。ヒロはきょとんと首を傾げ、零一は顔を引き攣らせた。険悪な空気の換気を促すように、早口で二人を送り出す。

「榊さん、さようなら。ヒロも、また今度な」

「ばいばーい!」

「ええ、さようなら。零一君、あなたの協力のお返事は、〝常夜会議〟のあとで聞かせてもらうわ」

「いや、それは……」

 今すぐ断ろうとしたが、榊はしとやかに一揖いちゆうすると、ヒロと手を繋いで家を出ていく。玄関扉が閉まり、カツン、カツン、と反響する靴音が聞こえなくなった頃、零一は肩の力をようやく抜いて、小声で言った。

「榊さんって……なんか、イメージと違う人だったな」

「違って当然なのかもね」

 エリカは、感情の読めない声で答えた。厳しい眼差しで、まだ玄関扉を睨んでいる。

「〝現実〟の痛みを失くした人と、それを思い出した人……同じ性格でいられなくても、仕方ないかもしれないよね」

「……」

 ひょっとしたら零一は、甘く見ていたのかもしれない。

 記憶を取り戻すということは、〝現実〟の痛みをもう一度呼び戻すということだ。手放したはずの傷痕は、人間の性格を変貌させる劇薬となり得てしまうのだ。

 そのときが来た時、零一はどうなるのだろう。今の零一のままでいられるだろうか。神妙に考え込んでいると、エリカがいきなり零一の胸倉を引っ掴んだ。

「ねえ零一。体調はどう? 本当にもう平気?」

「……気遣ってるくせに、労わりが感じられない行動だな……別に、もう平気だけど」

「じゃあ、お昼ごはんは外食にしよう。レトルトカレーは美味しいけど、今はレトルトカレーの気分じゃない! この決着がつくまで、レトルト食品は絶対食べない!」

 頬を怒気で染めたエリカは、今にも地団太を踏みかねない勢いで、ローテーブルからティーセットを片付け始めた。怒りが尾を引かないエリカにしては珍しく、今回ばかりは本気で怒っているようだ。たじろいだ零一は、触らぬ神に祟りなしとばかりに距離を取る。

「駅前広場の近くに、激辛の四川しせん料理で有名なお店があるから、そこに行こう! 冬季限定、麻辣マーラー白湯パイタンの二色鍋を、辛さは五倍に調整で! 今すぐ!」

「おい、卵粥を作るって話はどこにいった?」

「〆が雑炊じゃなくてラーメンかワンタンなところが不満なの? 大丈夫、店主特製の胡麻油とコチュジャンのタレがすごく美味しいし、お肉と野菜も仕入れに余裕があれば追加してくれるよ?」

「話を聞いてねえな……」

 げんなりした零一は、カーペットに置かれたままの〝星〟に気づき、抱え上げた。毎晩一つだけ降ってくるという謎の石は、手のひらにじんわりと温もりを伝えてくる。

 天災か、希望か。零一が〝常夜〟に与えた影響の名は、なんだろう。箱に閉じ込められた猫の生死が蓋を開けてみるまで分からないように、答えはまだ伏せられている。

 それなら、と零一は思う。榊の言葉か、エリカの言葉か。真実が明らかになるそのときまで、零一が信じたいほうを答えにしたい。〝星〟を昨夜と同じように玄関に飾ると、ふとエリカの部屋の前に落としたままだったモッズコートに気づいた。

「エリカ」

 片付けを終えたエリカも、玄関に来て靴を選び始めていた。落とし物を拾い上げた零一は、華奢な背中にモッズコートを掛けてやった。

「これ、ありがとうな」

 肩にモッズコートを引っ掛けたエリカが、振り返る。はにかむように笑った顔が、少しだけ切なげに見えたのは、気の所為ではないはずだ。エリカが重ねてきた嘘も、無関係ではないのだろう。

「零一。榊さんは、手強いよ」

 エリカが、改まった口調で言った。黒いブーツを履き、玄関扉に手を掛けて、気づけば真剣な目で零一を見ている。

「榊さんが、零一に自己紹介をしたときの台詞、覚えてる? 榊さんは零一と違って、『下の名前を思い出せない』って言ってた」

「ああ、そう言ってたけど……」

 それがどうしたと続けかけて、零一も気づく。エリカが、こくりと頷いた。

「榊さんは『下の名前を思い出せない』って言ったのに、〝現実〟の記憶が全て戻ったことは否定しなかった。――榊さんは、嘘をついてる。あの人は、自分の本当の名前を、もう思い出してる。嘘をついた理由は分からないけど、もし何か狙いがあるなら、警戒したほうがいいかもね」

「そんな人と、渡り合おうとしてるのか。俺たちは……」

「えへへぇ」

「……何だ? 笑うところじゃないだろ」

「だって、『俺たち』って言ってくれたから。零一は当然のように、あたしと一緒に戦ってくれるんだなぁって、嬉しくて」

「……〝常夜〟の人たちには、恩があるからな」

 エリカと目を合わさないまま呟くと、零一もコートに袖を通した。

 エリカと〝現実〟について語り合うのが先か、零一の記憶が完全に戻るのが先か。

 どちらにせよ、今のエリカは榊の件を優先するだろう。〝常夜〟の住人たちに関わる問題なのだ。アユたちに助けられた零一としても、なんとか円満な解決を目指したい。

「行こっか、零一」

 エリカが、玄関扉を開けた。廊下の非常灯のグリーンが、暗闇の中で瞬いている。午前中でも真夜中の色彩に包まれた世界へ、零一は一歩踏み出してから……足を止めた。

「エリカ。施錠は?」

「え? 鍵は、いつも掛けてないけど。〝常夜〟は全員が顔見知りだし、今日みたいに約束してる日以外は、誰も来ないし」

「……鍵は、持ってるか?」

「あるよ。ずっとコートのポケットに入れてるから……これ」

「貸せ」

 零一は、エリカから銀色の鍵を受け取ると、〝常夜〟に来てから初めて六〇二号室の扉を施錠した。鍵が掛かる冷え切った音が、頭痛を呼んだ。奥歯を噛みしめて堪えてから、何事もなかったかのようにエリカを見下ろす。

「行くぞ」

「……うん」

 エリカの小さな声が、真冬の〝常夜〟の空気に溶けて消えた。

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