3-4 榊とヒロ
にっこりと笑いかけられた零一は、じわじわと赤面した。この部屋に入ってから現在に至るまで、とんでもない
「初めまして……零一と申します。あの、なんか……やっと会えましたね」
「ええ、本当に。零一君には、そのことで謝りたかったの」
「私たちがここに来ることを、零一君が知らされなかったのは、私の所為なの。私と零一君って、驚くほど出会えなかったでしょう? ここまで出会えないとなんだか楽しくなってしまって、昨日エリカちゃんにお願いしたの。ひー君を連れて明日改めてここに来ることは、零一君には内緒、って」
「昨日……ってことは、やっぱりあのオープンサンドも、榊さんが?」
「零一、オープンサンドだけじゃないよ? うちにあるレトルトカレーとかの食料も、ほとんどが榊さんのお店の商品だもん」
喧嘩は打ち止めと決めたのか、エリカが普段通りの声で言った。切り替えの早さが、不意打ちの懐かしさを呼び起こす。怒りとか、悲しみとか、他者に向けるネガティブな感情を、さっぱりと潔く振るい落として、数分後には笑っている。〝現実〟のエリカは、そんな少女だった。
「そうなのか。……って、えっ? 榊さんの、店っ?」
「あー、やっぱり気づいてなかったんだ。それでよく食料調達ミッションに挑んだよね。惨敗の結果にも納得だよ」
エリカは、やれやれと言わんばかりに肩を
「私は、あのお店を〝現実〟で任されていたの。〝現実〟ではありふれたお店だと思うけれど、〝常夜〟の皆さんに歓迎していただけて嬉しかったわ」
そういえば、零一が〝常夜〟に来たばかりの頃に、エリカからも同じ説明を受けていた。〝常夜〟に流れ着く者たちは、〝現実〟に
にもかかわらず、零一が〝常夜〟に連れてきたものは、隕石だった。背筋を、薄ら寒いものが這っていく。
零一は、なぜ〝常夜〟に隕石を降らせているのだろう? 記憶の一部が戻った所為で、今まで以上にこの疑問が不可解で、気味の悪さも、初めて感じた。
「昨日は、
「いえ……」
「榊さんは、零一をベッドまで運ぶのも手伝ってくれたの」
驚いた零一は、エリカを見下ろす。エリカは、先ほどの榊同様に申し訳なさそうな顔に変わっていて、神妙な小声で続けた。
「お客さんを勝手に家に上げたら、零一が困るかなって、気になったけど……あたしも混乱しちゃって、迷ったけど榊さんの手を借りたんだ。ごめんね。榊さんの訪問を、秘密にしてたことも。そんなにびっくりするなんて、思わなくて……」
「いや……こっちこそ。……悪かった」
今度は、零一が気まずく謝る番だった。エリカは、零一がインターホンを聞いて昏倒した後、騒ぎを聞きつけて室内に来てくれた榊と二人がかりで、零一をベッドまで運んだのだ。きっと、心細い思いをさせてしまった。榊は「気にしないで」と言って品よく笑い、エリカも「それくらい、平気だよ」と明るく答えてくれた。
「言ったでしょ? 音楽活動は体力がいるからね。……もう平気?」
エリカの手が、零一の額に触れた。温もりが、頭痛を少しだけ和らげる。夢の中で見た少女と、目の前の少女の姿が重なった。
だが、あの
きっと、これからなのだ。零一が取り戻すべき記憶の中に、〝常夜〟のエリカに繋がる鍵が眠っている。
「……大丈夫だ。エリカ。俺は、どのくらい寝てた?」
「三時間くらい。そろそろお昼ごはんにしようかなって考えてたけど、食欲ある? 卵粥作ろうか?
「違うよ、卵を運んだのは僕だよ!」
高めの声が、会話に割って入った。ソファで眠っていたヒロが、いつの間にか身体を起こしていた。「ヒロ」と零一が思わず呼びかけると、ヒロは散歩に出かける子犬のように、目をきらきらと輝かせた。
「零一にいちゃんが起きてる! おはよう!」
ソファから飛び降りた少年が、昨日のサッカーボールさながらの勢いで、零一に突進してくる。しかし軽すぎる体重の所為か、零一は難なく受け止められた。やはり小学三年生の児童にしては、年齢と成長が不釣り合いに思えた。小さな頭に手を載せてやったところで、エリカが「そういえば」と口を挟んだ。
「さっきの話の補足だけど、昨日このマンションまで食料を届けてくれたのは、榊さんだけじゃなくて、ひー君も一緒だったんだ。零一にお礼を言いに来たのに、肝心の零一がまだ帰ってなかったんだよね」
「それで、今日来たのか」
客人の訪問時刻が早かったのは、ヒロが理由だったらしい。一つ納得したことで、新たな疑問が一つ湧いた。
「あの、榊さん。なんで、ヒロと……?」
「おかしな組み合わせで、驚いたでしょう? 小学三年生の子どもと、二十五歳の大人が、血の繋がりもないのに一緒に過ごしていたら、当然よね」
榊には、零一が何を訊きたいのかお見通しのようだ。何気ない台詞から、榊は自分の年齢を覚えているのだと理解できる。エリカが「榊さん、どうぞお掛けください」と声をかけると、榊は零一の
「住人の皆さんから聞かれていると思うけれど、私は〝常夜〟に来てまだ三か月の新人です。当初は右も左も分からなくて、エリカちゃんを始めとした皆さんには、ずいぶんとお世話になったわ。ライフラインが生きているマンションなんて、一人では見つけられなかったもの」
「困ったときは、お互いさまですから」
エリカは快活に答えると、零一の腕を引いて、カーペットに誘った。零一は少し気後れしたが、ローテーブルの手前にエリカと並んで座り、正面の榊に向き合う。「僕も座るぅ」と元気に宣言したヒロが榊の隣に飛び込むと、榊は優しく目を細めた。
「私が〝常夜〟のマンションに住み着いて、一か月が過ぎた頃だったわ。隣の空き部屋から、物音がしたのは。様子を見に行ったら、小さな子どもがベランダに座り込んでいたから、とても驚いたの」
「それが、ヒロだったんですね」
零一の合いの手に、「そうだよ!」とヒロが大きな声で返事をした。榊の腕にぴったりと寄り添っている様子は、最初こそ違和感を持ったものの、歳の離れたきょうだいに見えなくもない。
「そうなの。こんなにも幼い子が流れ着いた例は少ないらしくて、住人の皆さんも驚いていたわ。でも、すぐに〝常夜〟のアイドルみたいに人気者になったのよね?」
「うん! 僕も、〝常夜〟のみんな、大好き!」
ヒロは、弾けるような笑顔を見せた。こんな子どもまで〝常夜〟に迷い込むという事実に、違和感とやるせなさを覚えるくらいに、ヒロの笑みは眩し過ぎた。純真な笑みに痛々しさを嗅ぎ取ったのは、零一の勘繰り過ぎだろうか。やはり零一は、〝現実〟にいても〝常夜〟にいても、根暗な性根は変わらないのだ。
「でも、ひー君みたいな幼い子どもを、保護者もなく一人で生活させるわけにはいかないでしょう? だから、〝常夜〟にいる間は、私がひー君と暮らしているの。ちょうど私の部屋とひー君の部屋の境目の壁が脆くなっていたから、大工のエイジさんにお願いして、壁を取り払って部屋を繋げてもらったのよ」
「なんか……すごいですね、榊さん」
軽く放心した零一は、ありきたりな賛辞しか口にできなかった。
榊は大人とはいえ、零一やエリカとの年齢差は六歳ほどだ。おそらくは独身の若い女性が、見ず知らずの子どもにそこまで責任を持つという献身には、恐れ入るという言葉がぴったりの敬意を抱いた。舌を巻く零一に、榊は謙虚な笑みを返した。
「ありがとう。さっきのエリカちゃんと同じ台詞になるけれど、困ったときはお互いさまだもの。私が皆さんに助けられたように、ひー君の力になりたいだけよ。それに、私だってひー君に助けられているのよ。この子が来てから、くよくよする暇なんてなくなっちゃったんだもの。ねえ?」
「ねー! 榊さん、泣いてばっかりだったもんね」
「ふふ、それは言わない約束でしょ」
仲睦まじく話している二人の姿は微笑ましいのに、零一の中で少しだけ、違和感が存在感を強めていった。ヒロの保護者を買って出た榊は、ヒロの異様な薄着について、何とも思っていないのだろうか。
零一は、思う。〝常夜〟に流れ着いた以上、この二人にも何かがあるのだ。
――零一とエリカにも、〝現実〟で何かがあったように。
「そうだ、零一にいちゃん! 卵の他にも、おみやげを持ってきたんだよ!」
ヒロは、足元に放り出していたナップザックを手繰り寄せた。零一は、はっとする。ローテーブルに置かれたランタンの光で気づかなかったが、そのナップザックはほんのりと薄桃色に輝いていたのだ。エリカは知っていたのか、零一に笑いかけてくる。
「嘘だろ? あれは今朝、炭になったはずじゃ……」
「嘘じゃないよ。ひー君がまた拾ってくれたの」
「また? それじゃあ、俺たちが散々探しても、見つからなかったのは」
「そう。ひー君が集めてたんだって」
エリカがそう答えたとき、ヒロがナップザックの中から、薄桃色に輝く物体を引っ張り出した。それは、まごうことなき色違いの隕石だった。見事な星形をしたランプが、室内の色彩を眩いピンク色に塗り変えていく。
「僕の宝物の、お星さまだよ!」
ソファから下りたヒロは、にこにこと笑った。零一がこの石を心の中で〝星〟と呼んでいたように、ヒロも似たような呼び方をしていたようだ。
「毎日一つずつ、見つけられるんだよ。でも、寝てる間に真っ黒になって、光らなくなっちゃうんだ」
「光らなく……そうか」
零一は、玄関の
「零一にいちゃんとエリカねえちゃんにあげる。また見つけたら持ってくるよ」
「いいのか?」
「うん! 榊さんが、そうしてあげてって言ったから。僕がお星さまをプレゼントしたら、二人ともすごく喜ぶって」
「榊さんが?」
零一は、エリカと顔を見合わせた。ヒロから〝星〟を受け取ったエリカも初耳だったようで、ふるふると頭を振っている。
「あたしたちが色違いの隕石を探してることを知って、ひー君が持ってきてくれた、って聞いてたけど……榊さんも、気にかけてくださってたんですね」
エリカがソファを振り向くと、榊は優美な笑みで応えた。〝星〟に照らされた
「あの……榊さんは、どうして俺たちに、〝星〟を渡してくれたんですか」
「それは、あなたたちも〝常夜〟の秘密を追いかけようとしていたからよ」
「え?」
――〝常夜〟の秘密?
思いがけず壮大な響きの言葉を受けて、零一は再びエリカと顔を見合わせた。今のエリカの表情は、鏡のように零一の表情を映しているに違いない。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ぽかんと零一を見つめ返している。
「零一君。エリカちゃん。これから私が話すことが、〝常夜〟ではタブーのように扱われていることは分かっているわ。その上で、あえて言いたいの。本当はあなたたちだって、考えたことがあるはずよ。――〝現実〟に帰りたいって」
室内の空気が、ぴんと張り詰めたのが分かった。零一は度肝を抜かれ、エリカは小さく息を吸い込み、そんな二人をヒロが不思議そうに見上げている。
三者の反応を見渡した榊は、初対面のときに抱いた怜悧な印象そのままの声で、それでいて切実な声で訴えた。
「私は図書館に通い詰めて、〝常夜〟と呼ばれるこの世界について、独自の研究を進めているわ。そんな私にとって、色違いの隕石を探そうとしたあなたたちは、同じ目標のために努力を惜しまない者同士だと思えたのよ」
心臓の辺りが、再びざわつき始めた。話の雲行きが、なんだか怪しい。リビングに流れていた和やかさに、気づけば耳鳴りに似た不協和音が混じっている。けれど異変を感じているのはこちらばかりで、
他に何かがあるとすれば、酷く切羽詰まった焦りと、それから――零一にとっては空気のように馴染み深く、器量良しと聞いていた美女には似合わない、ちっぽけな感情だけだった。
かくして、異変を言語化できない零一に、榊は改まった口調で宣言した。
「私が〝常夜〟の研究を進めるのは、いつか必ずこの〝常夜〟を出て、〝現実〟に帰るためです。いいえ、目標はそれだけではないわ。私だけではなく、住人の皆さん全員で〝常夜〟を脱出できるように、方法を探したいと思っています」
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