3-3 知らないふり

 足音を忍ばせて、机の前に立つ。

 スタンドライトの手前に積まれた楽譜を、零一は一冊ずつ慎重にどけていく。だが、探し物は見つからない。次に抽斗ひきだしを開けようとしたが、ガチッと硬い音に拒まれた。闇の中で目をらすと、抽斗ひきだしに鍵穴を発見した。

「ここか……」

 漠然と、直感した。零一の探し物は、ここにある。

 ――同居人が持つ、一冊のノート。

 零一が〝常夜〟に流れ着いた日に、そのノートはリビングのローテーブルに置かれていた。すぐに同居人に回収されて以来、ノートはひた隠しにされている。以前に話題にした際も誤魔化されたので、零一は密かに怪しんでいた。

 なんとなくだが、あのノートを開いたとき、閉ざされた明晰夢めいせきむの扉を、もう一度だけ開ける気がした。

 とはいえ、先ほど立てた物音が気になる上に、家探しのような真似をしたことで、良心が痛み始めていた。これ以上の捜索は、今日は諦めたほうが無難だろう。零一はベッドからモッズコートを回収して、部屋の出口に向かった。

「……」

 扉のレバーハンドルに手を掛けて、深呼吸する。

 リビングからは、微かな話し声が漏れ聞こえた。同居人の声だ。零一が気を失ってから、さほど時間がたっていないのだろうか。会話相手は、今朝インターホンを鳴らした客人だろう。心臓の辺りがざわついたが、呼吸を整えると落ち着いた。

 ――何らかのトラウマを呼び覚ました引き金は、あのインターホンで間違いない。

 あの拒否反応がどんな記憶を示唆するのかは、まだ不明だ。ただ、顔も知らない客人の長閑のどかな声を耳にしても、己が取り乱さずに済んだことに、今は単純な安堵を覚えた。

 もう一度、呼吸を整える。覚悟を決めて、扉を開けた。

 すると、不意打ちの眩しさに目を眇めた。ローテーブルの端に置かれたランタンが、普段は暗いリビングを明々と照らしているのだ。室内の会話がぷつりと途切れ、小さな息遣いが聞こえてくる。

 零一の寝床のソファに二人、そしてローテーブルを挟んでカーペットに一人、合計三人の人間が座っていた。家具の陰影が濃く浮き出た空間で、三人がローテーブルを囲む眺めは、まるで魔女たちのサバトのようだ。それに、急に明るい光を浴びた所為で、客人の容姿がよく見えない。ざらついたもやに包まれた人影は、〝常夜〟のモンスターを彷彿とさせて、ぞくりとした。

「あ……零一!」

 カーペットに座っていた人影が、立ち上がった。黒いワンピースを着ている所為で、闇そのものが動いたように見える。ランタンの灯りが、アッシュグレーの髪と毛先のパープルをつやめかせた。今度は、零一が息を呑んだ。付け焼き刃の覚悟なんて、無意味だと思い知らされた。

 ――エリカ。

「頭、もう痛くない? 大丈夫? すごく魘されてたんだよ。顔色もまだよくないし、もっと寝てたほうが……」

 駆け寄ってきたエリカが、零一のシャツの裾を掴んだ。〝現実〟で、よくこの仕草をされたことを思い出す。〝現実〟の過去と〝常夜〟の現在が重なり合い、乗り物酔いに似た眩暈がした。

 ――『本当に、お星さまみたい。夏祭りの日に見かけた蛍が、綺麗だったことを思い出しちゃった』

 色違いの隕石を見つけた昨夜、エリカは玄関に〝星〟を飾りながら、言ったのだ。世界中でただ一人、同じ思い出を持つ零一に。

 ――『さっすが、動体視力がやっぱり良いね』

 エリカの部屋で、シャンデリアの欠片が落ちたときに、零一が指摘したエリカの失言。あれは、本当に失言だったのだろうか? エリカは、零一を試していたのだろうか? それとも、思い出せと叱咤していたのだろうか? 記憶の直接的な指摘は、〝常夜〟では不可能だから? エリカが言葉にできるぎりぎりのラインで、零一に訴えかけていたのだろうか?

 ――『あたしのこと、迎えにきてくれたの?』

 眩暈が、動悸に変わっていく。〝常夜〟に流れ着いたばかりの零一が、駅前広場の噴水跡地で、意識を微睡まどろませていたときなんて、最悪だ。エリカの切なげな表情が、瞼の裏に焼きついている。オーディションの合否を零一に報告したときと、あの表情は同じなのだ。それに引きかえ零一は、今にも涙となって零れ落ちそうな嬉しさと期待の眼差しに、どんな言葉を叩きつけた?

 ――『何の話だ?』

 呼吸が、おかしくなりそうだった。ぎりっと音がしそうなほど歯を食いしばった零一を、エリカが心配そうに見上げている。

 零一は、なんてことを、エリカに言ってしまったのだろう。

 ――『あたし、エリカ。君は自分の名前、覚えてる?』

 エリカは、どんな気持ちで、この台詞を零一に言ったのだろう?

 どんな気持ちで、薄情者の零一を拾って、この家で一緒に暮らしていたのだろう?

「零一? 零一ってば、聞こえてる? ねえ!」

 ――『ねえ』

 ぐらりと、意識が揺らいだ。涙の記憶が、夜の温度が、色彩と現実感を取り戻す。夢の終わりの回廊で、見失った少女が目の前にいる。

 エリカが、目の前にいる。

 ――『例えば、小説を書くときに、登場人物の名前を読み手に覚えてもらうコツの一つに、『登場人物の名前を、別の登場人物に呼ばせる』ことを意識するのが有効だって、本で読んだことがあるよ』

 大学で誰とも慣れ合おうとしなかった零一の隣を、並んで歩いてくれた少女の言葉。大学図書館で聞いた台詞が、〝常夜〟の零一の記憶を守ってくれた。

「……俺が、記憶をほとんど失っても、自分の名前だけは覚えてた理由、分かった」

 腕に抱えていたモッズコートを、気づけばその場に落としていた。自由になった両手で、目の前の少女を抱き寄せる。小さな息遣いが、もう一度聞こえた。

「エリカが、ずっと呼んでたからだ。俺の名前を、〝現実〟で……」

 話し合うべきことが山積みなのに、今はまだこれ以上の言葉が出なかった。それでも、零一が記憶の一部を取り戻したことだけは、エリカに伝わったと信じていた。

 しかし、返ってきた反応は――あまりにも、零一の理解を超えていた。

「零一ってば、どうしたの? お客さん見てるんだけど。あっ、さては、昨日の〝常夜〟の探索で、お昼ごはんに変なものでも食べたんでしょ?」

「……。はあ?」

 思わず、身体を離した。エリカは、〝現実〟でカレー鍋を焦げつかせた犯人を、零一と押しつけ合ったときの顔で、楽しそうに笑っていた。

 怒られるなら、理解できる。零一は、〝常夜〟のエリカにそれだけの仕打ちをしただろう。悲しまれるのも、まだ理解できる。零一もエリカも〝常夜〟に流れ着いた以上、〝現実〟で何かがあったのは間違いないのだ。

 だが、全く喜ばれないどころか、こんなにも――しれっと、とぼけられるとは。エリカの肩に手を置いたまま、零一の胸に怒りがふつふつと湧いてきた。

「おい、そんなわけないだろ……エリカだって、〝現実〟のことを覚えてるだろ?」

「何のことかなー、あたし分かんないや」

「なっ……嘘つけ! 蛍のことを覚えてただろ!」

 エリカも、記憶を失くしている? ――あり得ない。最初は忘れていたとしても、現在は思い出しているはずだ。零一は、躍起になって問い詰めた。

「昨日の夜、あの曲の二番を俺が口ずさんだときに、エリカは期待してたんじゃないのか? 俺に〝現実〟の記憶が戻ったことを、期待してたんじゃないのか? やっぱりあれは、ラジオじゃなくて、お前が歌ってたんだろっ?」

「ラジオだよ。あたしじゃない」

 エリカは、涼しい笑みを返してくる。だが、一瞬だけ寂しげに目を細めた瞬間を、零一は見逃さなかった。

「何か、隠してるな?」

「別に?」

 エリカは、目を逸らした。アッシュグレーの長い髪が、横顔を隠す。この仕草をエリカがするところを、零一は初めて見たかもしれなかった。

 いや、違う。これは二度目だ。

 一度目は、己の名前すら思い出せないという男――大将が、モンスターに襲われるという事件から、数日がたった夜だ。大将の屋台でラーメンを食べた帰り道で、ラジオ局が流している音楽の曲名について、エリカに訊ねたときだった。

 ――『……なんだろうね? あたしも知らないや』

 エリカは、返答を拒否した。

 ――『だって、曲名を意識したことなかったし。あたしに訊かれても分かんないよ』

 こんなにも、残酷な嘘をついてまで。

 あの音楽にどれほどの思い出が詰まっているのか、誰よりも知っている零一に。

「エリカ……」

 胸が、苦しくなった。ただ一緒に過ごしているだけで、エリカに嘘を重ねさせてしまう。何がエリカにそうさせるのか、零一には見当もつかなかった。

 だが、こちらとしても引き下がるわけにはいかないのだ。エリカがこんな調子では、零一が思い出した記憶について、話を聞いてもらえないではないか。

 それに――〝現実〟のエリカに何があったのか、訊き出せない。

「零一、そろそろ放してくれる? 零一があたしにこんなことをするのは、昨日のモンスター騒動で疲れてる所為だよ」

「あのなぁ!」

 このままでは零一は、突然に昏倒したかと思えば、目覚めるなり他人の少女に抱きついた変態の烙印まで押されかねない。〝常夜〟で噂されようものなら死活問題だ。エリカの対応に腹が立ったこともあり、零一も自棄やけになり始めた。

「いい加減にしろよ……〝現実〟であんなに一緒にいた奴のことを、簡単に忘れられるか!」

「でも、現実に忘れてたわけでしょ?」

「それは……」

 痛いところを突かれたが、代わりに尻尾を掴んだ。怒りを探り当てたなら、きっとこの先に本心も紐付けられている。

「でも、俺は思い出せたんだ。……まだ、途中までだけどな。大学一年の秋までしか、記憶を辿れなかったから。あの曲の名前だって、思い出せたわけじゃない」

 エリカが、目を見開いた。「でも」と言った零一は、声に力を込めた。

「続きも、必ず思い出す」

 エリカの瞳が、微かに揺れた。しかし、相手も強情さでは負けていないどころか、零一よりも上手うわてだった。化粧筆でチークをのせるように表情から動揺を消し去ると、零一を挑発的に見つめ返し、つんとあごを上げて言ったのだった。

「じゃあ、その『あんなに一緒にいた奴』と、〝現実〟でどんなことをしたのか説明してくれる? 具体的にね。零一が詳しく話してくれたら、あたしも少しは思い出せるかもしれないなー」

「こ、こいつ……」

 相変わらずのふてぶてしさに、わなわなと手が震えた。つい売り言葉に買い言葉で、「そのまな板みたいな身体について、本当に喋ってほしいのか?」と口を滑らせたのがいけなかった。エリカは、堪忍袋の緒が切れたと分かる笑顔で、肩に置いていた零一の手を掴んだ。音楽活動で鍛えられた握力が、みしみしと零一の手に圧力をかける。

「そんなにカレーの具になりたかったの? 今すぐ望み通りにしてあげる」

「痛ってぇな! やめろ馬鹿!」

「馬鹿って言うほうが馬鹿なんですぅー!」

「ガキかよ!」

 ぎゃんぎゃん騒ぎながら取っ組み合うという、〝現実〟のカフェテリアでの対面よりも、遙かに酷い事態に発展した。すると「あのぉ」という女性の控えめな声が聞こえたので、零一とエリカは手を止めて、声の主を振り返る。

 ソファに座った客人が、困ったような微笑を浮かべていた。隣には小さな身体を猫のように丸めた少年がいて、すやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている。

 零一は、目を瞠る。今の今までエリカ以外の存在をきちんと認識していなかったが、客人の一人は小学三年生のヒロだった。今日も長めの髪をくくっていて、半袖に半ズボンという真冬の〝常夜〟では異常な服装も相変わらずだ。

 そして、もう一人は――落ち着いたアルトの声で、喧嘩の仲裁に入ってくれたのは、ニットワンピースを着た女性だった。

 歳は、二十代半ばだろうか。零一とエリカよりは年上だが、大学生ではなさそうだ。エリカよりも怜悧れいりな雰囲気の切れ長の目が、色白の肌に気品を添えている。癖のないセミロングの黒髪と、華奢なフレームの銀縁ぎんぶち眼鏡が印象的な美女だった。

「私たち、今日はそろそろおいとまします。エリカちゃん、零一君の目が覚めて、本当によかったわね」

「ひょっとして……さかきさんですか」

「はい。初めまして。榊と申します」

 茫然とする零一に、女性は――昨日あんなに探し回っても出会えなかった『榊』は、ソファから優雅な所作で立ち上がると、口角を上げて微笑んだ。笑うとあどけなさが拡がって、知的な雰囲気が柔らかくなる。

「零一君のことは、エリカちゃんたちから聞いているわ。私はあなたとは逆で、自分の名字は覚えているけど、名前は思い出せないの」

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