3-2 ねえ
カフェテリアの風景が、水を含ませた筆でさっとひと撫でしたように、掻き消える。代わりに薄闇が全身を包み、頬に布団の感触が伝わると同時に、場面は殺風景なアパートの一室に変化した。枕元に置いたスマートフォンが、けたたましく鳴り始める。
『こらぁ、また一限をサボったなぁ! 今度あたしに
通話ボタンを押した途端に、元気なソプラノが響き渡った。腰に手を当てて怒っている姿が目に浮かぶ。カーテンの隙間から入る朝日よりも、少女の声は眩しかった。電話で届けられた灯りを受け取ると、不本意ながら普段よりもすんなり起きられた。零一は布団を出ると、起き抜けのしゃがれた声で返事をした。
「うるさい奴だな……なんで俺に構うんだ」
『構うよ、これからも』
少女は不敵に笑ってから、よく通る声で宣言した。
『冷めてる君が、あたしの歌に本気になるまで』
午前の日差しが、室内の暗がりを照らしていく。頬に
「え? なんで軽音サークルに入らなかったかって? んー、興味はあったけど、大学では学業優先かな」
ベンチに並んで座った少女の髪は、入学時よりも少し短くなっていて、水色のインナーカラーも消えていた。広場に降りしきる木漏れ日が、金色に近い茶色に染め直された髪に、
「それに、中学時代から仲間とバンドを組んでたし、もう少しだけ今のメンバーとの時間を大切にしたいんだ。これでもインディーズでCDを出したこともあるんだよ。社会人のメンバーが忙しくなってきたから、もうすぐ解散するんだけどね」
「そいつらとは、プロを目指さないのか?」
「目指さないよ。音楽との向き合い方は、人それぞれ。みんながみんな、プロになりたいわけじゃないからね」
少女は迷いなく答えたが、笑みからは普段の勝気さが薄れていた。メンバー間で、方向性の違いもあるのだろう。一つだけ気になったので、零一は訊いてみる。
「お前の気持ちは? プロになりたいのか、なりたくないのか」
「なるよ。プロに」
夢を訊ねた零一に、少女はイエスもノーもすっ飛ばして、はっきりと未来を断定した。笑みに生来の勝気さが舞い戻り、初夏の青空を見上げている。
「君は、あたしが音楽の専門学校に行かなかったことを、いつまでも不思議そうにしてるけど、あたしは遠回りしたなんて思ってないよ。あたしは、教養が欲しい。知識をたくさん吸収して、ここでしかできない経験をいっぱい積んで、あたし自身を毎日新しくしていかなきゃ、新しいものは生み出せないから」
一陣の風が吹き抜けて、中庭の風景を映したスクリーンが翻る。世界のカーテンを
「綺麗な言葉を知りたいんだ。表現したいものを、自由自在に創れるように」
さらさらと
「なんで髪をころころ染め直すのかって? いろいろ試してみたいじゃん。次はもっと派手にしてみたいし、長さも伸ばしてみたいなー」
テーブルに積まれた本たちは、文学全集や写真集など、多様なジャンルが揃っていた。零一も授業で使う資料を読んでから、少女が持ってきた植物図鑑を開いてみた。
ページを
「
鉱物のように収集した言葉たちを、少女は決まって零一と分かち合った。
「例えば、小説を書くときに、登場人物の名前を読み手に覚えてもらうコツの一つに、『登場人物の名前を、別の登場人物に呼ばせる』ことを意識するのが有効だって、本で読んだことがあるよ。地の文章の記載だけじゃなくて、作中の登場人物にしっかり呼ばせることで、名前を読者に印象づけられるんだって」
「博識だな」
この頃には零一も、少女へ素直な言葉をかけるようになっていた。夕焼け色の窓の向こうで、
「いい作詞をしたいからね」
少女は小説から顔を上げると、ぐっと両手を組んで伸びをした。
「でも、難しいな。これだ! ってフレーズが、なかなか思い浮かばないんだよね」
「一人で考え込んでも、いい案なんか浮かばないだろ」
「君が一緒に考えてくれるってこと?」
「いや、俺には無理だし……俺が言いたいのは、そうじゃなくて」
零一は、書籍の山を見下ろした。これらの一冊一冊に、作者の魂が詰まっている。情熱とか、努力とか、そんな心意気だけでは伝わらない、実直な姿勢や経験を、どうすれば己も育んでいけるのか。その答えなら、少女はとっくに知っているはずだ。
「今のお前には、足りないんだろ。その曲を作るために必要な、材料みたいなものが。教養だけじゃなくて、人生経験も。だから……焦らなくても、昨日のお前よりは、今日のお前のほうが、前に進んでるんじゃないのか」
「ふうん。無理って決めつけてるくせに、正論も言えるんだ」
「棘のある言い方だな……」
「じゃあ、付き合って」
「は?」
「付き合ってよ、材料探し」
少女は、にっと笑った。
「あたしが、最高の曲を作れるように」
窓から射す夕日の残光が、消え失せる。闇に放り出された二人は、紺青の夜空が拡がる山村の道を走っていた。
「零一っ、早くおいでよ! あっちなら花火がよく見えるよ!」
賑やかな祭囃子と、カラコロと鳴る下駄の音が、火薬の匂いが揺蕩う神社の境内に響いている。零一の手を引っ張る少女の髪は、団子に結い上げられていた。ピンク色の花飾りがついた
そんな自分に、戸惑っていた。数時間後には少女と別れて、闇が
少女と出会ってから、世界がカラフルに色づいていく。
「あっ、見て! 蛍! ……もう、君の動体視力で、見間違えるわけないでしょ! ついてきて!」
少女に手を引かれた零一は、あっという間に雑踏を抜けて、祭りから離れて山を下りた。清らかな河原を臨む森に、金色の燐光が舞っている。
「……〝水に燃え立つ蛍〟」
ぽつりと、少女が口にした。カフェテリアで初めて口をきいたときのように、瞳に光が映っている。
少女は、零一を振り向いた。桜色に染まる頬と、これから告げる
「ありがとう、零一。あたし、書ける気がしてきた」
蛍の光が大きくなり、視界が優しく塗り変えられた。光の煙幕が晴れたとき、浴衣の着付け体験を終えた二人の姿は、人通りが減った駅前にあった。
「えっ、今からこの電車に乗っても、乗り継ぎで終電を逃しちゃう?」
「日帰り旅行だからって、予定を詰め込み過ぎたからだろ。どうするんだよ……」
「泊まるしかないでしょ」
きっぱりと言い切られた。
「こういう所に来るの、初めて。こんなふうになってるんだ」
「なんで楽しそうなんだ……おい、同室なんて聞いてないぞ」
「だって、別室だと怖いもん。一人にしないでよ」
気丈さが取り払われた声に、どきりとした。少女にも怖いものがあるということを、今になってようやく知った。荷物を置いた少女は、零一を振り向いた。
「零一には、怖いものってある?」
「俺は……」
背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
もし、少女がいなくなってしまったら。無味乾燥で灰色の毎日に、零一はもう戻れない。新しい生き方という
「あたしは、零一がいなくなったら、すごく怖い」
息を呑み、瞼の震えを誤魔化すように、歯噛みする。頭の奥が、曖昧に痺れた。少女はダブルベッドに飛び込むと、団子頭をさらりと解き、上体を起こして笑った。
「ルームサービス、頼もっか。一度やってみたかったんだ」
サイドテーブルの照明が消えて、部屋が薄闇に包まれる。鞄と一緒に投げ出した腕時計は、長針と短針がぴったり重なり、日付を跨いだばかりのはずなのに、瞬く間に時を進めて、午前五時を示していた。
「ねえ」
カーテン越しに代わる代わる忍び込んできたネオンは、ピンクや黄色や青色で、昨晩見上げた花火みたいに煌びやかなのに薄汚れていて、未明を迎えた現在は、光は月明かりしか存在しない。青白く照らされたシーツと素肌を、まだ眠らずに見つめている未来なんて、少し前には想像さえも出来なかった。
こんなにも余裕を失くした、自分のことも。
「零一」
ベッドのスプリングが軋む音に紛れて、小さな声が零一を呼んだ。零一自身ですら知らなかった零一を、少女のほうが知っている。必死で、無防備で、格好つけても様にならない、結局は誰かと関わって傷つくのが怖いだけの、滑稽なくらいに醜い自尊心を捨てられない、ありのままの自分を知っている。そんな自分を表に引きずり出されたことへの八つ当たりか、仕返しか、あるいは
「やっと、あたしに、本気になった、顔、してくれた」
ピアノの鍵盤を
「ねえ」
そんなことは、分かっているのに。
背中から外れた手のひらが、零一の頬に伸びてきた。
涙を零した少女は、穏やかに
「零一の、怖いもの、なくなった?」
奥歯を、強く噛みしめた。本当に、どうしてくれるのだろう。なくなるどころか、増えてしまった。瞼の奥に生まれた熱をどこにも逃がさないように、自己嫌悪を深めていくばかりの行為に、別の意味を与えた少女の手を取り、抱きしめた。
分かっているのに、零一はこの温もりを手放せない。
本気になったのは、いつからだろう。一度でも認めてしまえば、後戻りができなくなることを、心のどこかで知っていたのかもしれなかった。
「名前で呼んで」
握り合った手の指先が、透明なネイルを掠めた。
月光を弾いた爪の艶々した手触りを、零一は忘れない。夜が、きっと忘れさせない。たとえ忘れたとしても、夜と地続きになった朝が、零一に必ず思い出させる。
「ねえ」
月明かりが、輝きを強めていく。それとも、夜が明けるのか。新しい朝を連れてくる眩さが、少女の名前を呼んだ零一の声ごと、世界を包み込んでいく。
清らかな光が和らいだとき、甘やかな寂しさを含む風が、前髪を撫でた。厚手のジャケットに身を包んだ零一は、ズボンのポケットに手を入れて、中庭で水色の空を仰いでいた。赤く色づいた枯葉の雨が、大学のキャンパスに降っていた。
「零一!」
門の向こうから、スカジャンと短いスカート姿の少女が走ってくる。宣言通り伸ばした髪は、日差しの透かし具合でピンク色に見える茶髪に変わっていた。少女は枯葉の道をショートブーツで駆け抜けると、驚いて振り向く零一の胸に飛び込んできた。
「オーディション、受かった。あたし、メジャーデビューできるって、電話があって……本当に、プロになれるんだ……」
「……そうか」
「もう、君は第一声まで冷めてるね。もっとテンション上げていこうよ」
「受かると思ってたからな」
零一は、
「零一のおかげだよ」
「俺がいなくても、プロになれただろ」
「ううん。あたし、バンドの解散が決まったときに、諦めなきゃいけないのかなって、少しだけ考えてた」
その台詞には、驚かされた。時間と身体を重ねても、まだ零一が知らない秘密が眠っている。少女は、笑顔のまま涙ぐんだ。
「あのまま折れちゃってたかもしれない気持ちを、零一が繋いでくれた。あたしが走るのをやめても、あたしにたくさんのことを教えてくれて、支えてくれた零一なら、あたしが自分の気持ちを見失わないように、夢の続きを走ってくれるって、ちゃんとイメージできたから……負けてられない気持ちになって、行きたい場所まで走れたんだ」
「……俺には、歌も作詞も無理だって言っただろ」
「そうじゃなくて」
いつかとは立場が逆の台詞を
「君がいたら、あたしは無敵になれる気がする、ってこと」
言葉に詰まった零一は、久しぶりに周囲の視線を気にしながら、おめでとうの言葉代わりに、少女を不器用に抱きしめ返した。次の講義を知らせるチャイムが鳴り響き、二人揃って我に返ると、急いで校舎へ走り出した。
ガラス扉を押し開けて、構内にスニーカーで踏み込んだとき――廊下にいたはずの学生たちが、一人残らず掻き消えた。
隣にいたはずの少女も、いない。がらんどうの廊下には、窓から入る
もう一歩、零一は進む。靴音のエコーが、鼓膜を無慈悲に震わせた。
さらにもう一歩、零一は進む。秋の肌寒さと対照的な、
誰も、いない。過去を映しただけの夢の世界に、住人は誰もいないのだ。
住人がいるとするなら、こんな紛い物の世界ではなく――〝常夜〟と名付けられた別世界で、仲間たちが待っている。一向に目覚めず帰ってこない、〝常夜〟の零一を待っている。
だが、どんなに走り続けても、廊下の終わりが見えなかった。息を切らせて無限の回廊を走るうちに、暗い情念が胸に
――このまま、ゴールを見失っていればいい。廊下の最果てに辿り着いたとき、零一を待ち受けているのは、少女ではなく絶望だ。確信が、心臓を鷲掴みにした。
零一は、耐えられない。
耐えられないから、〝常夜〟に来た。
――分かっていても、立ち止まるわけにはいかなかった。
夢でも、幻でも構わない。零一は、あの温もりを、失うわけにはいかないのだ。
血が絡み始めた喉で、呼吸を繰り返す。
*
鈍い頭痛が、夢の終わりを教えてくれた。
重い瞼を開くと、またしても見知らぬ天井と対面した。
昨日と異なるのは、小ぶりのシャンデリアがぶら下がっている点だろう。変わり映えしない月光を拡散させたガラス飾りを見上げるうちに、意識が徐々に覚醒してきた。
六畳ほどの小部屋には、見覚えのある机や本棚が配置されていて、椅子の背にはウサ耳が生えたパーカーワンピースが掛かっている。ラグが敷かれた床には、掃除機が放り出されたままだった。片付ける時間がなかったのだろう。その原因を作ったのは、間違いなく自分だ。机の上には大量の楽譜があり、この部屋の主の個性が窺えた。
上体を起こして初めて、ベッドに寝かされていたのだと実感した。掛け布団の上には、お馴染みのモッズコートも重ねられていた。枕元にはサイドテーブル代わりの丸椅子が寄せてあり、濡れたおしぼりが置かれている。
看病をしてくれていた人物は、室内に見当たらない。リビングに続く扉は、固く閉ざされている。僅かな月明かりも漏らさない扉の合わせ目を、零一は眺めた。
「なんで……お前は、〝こっち〟に来たんだ」
血を吐くような声が、口の端から滲んだ。
言葉の形にしなければ、この理不尽で残酷な真実に負けて、立ち上がる気力すら奪われる。今でさえ、こんなにも打ちのめされているのだ。途切れた
「プロになって、夢を叶えて……無敵だったんだろ? ここは、お前みたいな奴が、居ていい所じゃない……なのに、なんで……俺より一年も前に、〝こっち〟に来た?」
力任せに前髪を掴み、俯いた。あのときのように、奥歯を強く噛みしめる。
誰よりも大切な名前を、零一は掠れた声で、呼んだ。
「エリカ……」
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