第3章 墓標を目指す者たち

3-1 明晰夢の中で

 悪夢を見ていた。

 桜の花びらが舞う大学のキャンパスで、雑談を交わし合う学生たちとすれ違う。たった一人だけ動かない零一は、このワンシーンが過去のものだと悟っていた。

 夢の中にいる自分が、『これは夢だ』と自覚する。そんな夢を『明晰夢めいせきむ』と呼ぶのだと、教えてくれた人物がいたはずだ。

 過去の再演を俯瞰ふかんしていると、意思とは無関係に身体が動いた。

 抵抗しようと思えば、この先の展開を変えられるかもしれない。何しろこれは夢なのだ。絶対にくつがえせない過去すらも、好き勝手に改竄かいざんできる理想の世界。

 けれど零一は、心の中で目を閉じた。この身体の主導権を委ねるイメージをするだけで、残り香のような意識がさらに薄まり、過去の己にシンクロしていく。

 抵抗しても、無駄なのだ。目覚めたら無にかえる思い出なんて、捏造ねつぞうしてもむなしいだけだ。記憶が欠けだらけでも、諦めだけは魂に焼きつけられていた。

 思い出をなぞって歩き始めた零一に、舗道の両脇を固めた上級生が、ビラを次々と押しつけてくる。サークルへの誘い文句が印刷された紙切れを、ろくに見もせず鞄に押し込む。もたもたしていては、鞄がビラでいっぱいになる。歩く速度を上げたとき、舗道から少し離れた広場の賑やかさが耳についた。学生がつどう芝生へ、零一は目を向ける。

 日差しが燦々と射し込む芝生に、ギターを抱えたグループが立っていた。ここでも盛んに配られているビラの一つに、軽音サークルの文字を見つけた。バンドのボーカルと思しき男子生徒が、周囲に集まった学生たちへ、大仰に手を差し伸べている。

 どうやら、野外ライブへの飛び入り参加を募っているらしかった。零一は宣伝の大胆さに驚いたが、すぐに興味を失くして、通り過ぎようとしたときだった。

 わっと拍手が巻き起こり、学生たちの中から少女が一人進み出てきた。

 白いブラウスに、黒いキャミソールワンピース。癖のない黒髪は、鎖骨の辺りで綺麗に切り揃えられている。一見して清楚な装いだが、黒髪のインナーカラーには、明るい水色が入っていた。キャメル色の鞄を背負った少女は、小柄な体躯に日差しのスポットライトを一身に浴びて、芝生の舞台に堂々と上がった。軽音サークルのメンバーと一言二言交わしてから、マイクを受け取り、観客の学生たちを振り向いた。

 勝気な性格を表す瞳が、鮮やかな青天を映している。瞼を一度閉じて、再び開いたとき、別人のように凛とした品格が双眸そうぼうに宿り、春の陽気をさっ怜悧れいりに引き締めた。

 誰もが、少女に目を奪われていた。零一も、いつの間にか足を止めていた。

 さらりと風になびいた黒と水色の髪を、桜の花びらが掠めていく。

 花の香りが拡がるキャンパスで、少女が大きく息を吸い込んだ。


     *


 四限目の終わりに訪れたカフェテリアは、異様な賑わいを見せていた。

 長机と椅子がぎっしりと並ぶ窓際は、わずらわしいほどに日当たりがいい。陽光に横面をあぶられた零一は、カツカレーを食べながら、広々とした空間に満ち溢れた人間の熱気にうんざりした。

 普段は大学内にあるコンビニやファーストフード店に学生が分散されるので、座れない女子グループたちが出るほど混み合うのは珍しい。学生らしからぬ雰囲気の客は、外部の学食利用者だろうか。食券の券売機からカウンターまで、長蛇の列ができている。零一の隣は一席だけ空いているが、友人同士で昼食を取りたい者が大半なのか、学生たちは寄りつかない。

 零一は、カレーが染みた豚カツを、心持ち急いで咀嚼そしゃくした。早く席を空けようという親切心では決してなく、人口密度の高いこの場所から脱出したいという動機だった。

 しかし、脱出は叶わなかった。

 カツカレーが載ったトレイの隣に、アジフライ定食のトレイが置かれたからだ。

「ここ、座ってもいい?」

 甘さと爽やかさを併せ持つチョコミントアイスのような声が、頭上から降ってくる。零一がたじろぎながら見上げると、黒髪のインナーカラーが真っ先に視線を引きつけた。髪に鮮やかな水色を差した少女は、今日はゆったりとしたトップスに、デニムのストラップ付きのスカート姿だ。蒲公英たんぽぽ色のカーディガンは、見る者を威圧するように明るかった。そんなふうに感じる分だけ、零一が根暗なのだろう。

 浅く頷いた零一は、一刻も早くここを去ろうと、決意を新たにカツカレーを食べていく。しかし、調子に乗って激辛を選んだ所為で、舌が悲鳴を上げ始めた。堪らず水のグラスを手に取り、煽る。そのタイミングで、着席した少女が言った。

「ねえ君、友達いないの?」

 水が気管に入った。激しくせてから、キッと少女を反射的に睨みつける。少女は一ミリも悪びれた様子はなく、涼しい表情で割り箸をぱきんと割っていた。

「たまーに君のことを見てたんだけど、いっつも一人だよね。時々は講義が一緒の子たちと話してるけど、自分から距離を置いてる感じがするっていうか。人付き合い、面倒臭そうな顔をしてるのバレバレだよ?」

「なっ、なんで今まで話したことない奴に、俺のことをそこまで……!」

「言われなきゃいけないんだ、って? だって、腹立つんだもん」

 直球で詰られ、零一は度肝を抜かれた。少女もキッと零一を振り向くと、切れ長の目をじっとりと細めて、仕返しのように睨んでくる。

「軽音サークルの、野外ライブの日。君は、あたしを見てたでしょ」

「……見てたから、何なんだよ」

「君だけだったから。つまんなそうな顔をしてたの」

「は?」

「あたしの歌を聴いたくせに、あー眠いなーかったるいなーって顔をしてたの、君だけだったって言ってるの!」

 少女は、堂々と言ってのけた。頬をぷっくりと膨らませて、分かりやすく怒りを誇示している。唖然とした零一は、スプーンをライスの上に落としてしまった。

「そんなことを言うために、わざわざ隣に座ったのか? ガキかよ」

「君だってガキじゃん。今だって、ふーんなんだこいつーって顔をしてるし」

「こんな言いがかりをつけられたら、当然だろ……」

「でも、カレーを食べてるときだけは、にっこりしてるよね。カレー、好きなの?」

「はあぁ? べ、別に、にっこりなんかしてねえし」

 突拍子もない指摘を受けて、変な汗が噴き出てきた。激辛カレーの香辛料の所為に違いない。早く残りを平らげてしまおうと奮闘したが、結局は香辛料の所為でゆっくりとしか口に運べず、隣の少女のほうがさっさと食事を済ませてしまった。ほかほかのご飯は男子生徒でも気圧される量が盛られていたが、少女は白菜の漬物と一緒にご飯粒ひとつ残さず食べ終えると、悠々と席を立ち、トレイを持って返却台に向かった。

 解放されたのだ。そう一瞬でも安堵した自分が馬鹿だった。

 少女は零一の隣に戻ってきただけではなく、平然と椅子に座り、キャメル色の鞄からノートと筆記用具を取り出したのだ。零一は「おい」と呆れ声で止めに入った。

「なんでわざわざ俺の隣で勉強するんだ? 他の生徒に席を譲れよ」

「他にも勉強してる生徒はいっぱいいるじゃん。あたしに文句を言うなら、テーブルを一つ一つ回って、他の生徒にも注意しなよ」

「こいつ……」

 あまりのふてぶてしさに、スプーンを握る手がわなわなと震えた。少女はやはり一ミリも悪びれずに、「利用者の回転は早いし、周りはだいぶ空いてきたよ? あたしが譲らなくても、誰でも十分に座れるよ」と言って、したり顔で笑ってきた。

 確かに、さっきまでの混雑が嘘のように、人の波が引いていた。分が悪くなった零一は、文句を豚カツと一緒に噛みしめて呑み込むしかなくなった。

「ねえ、次の古典文学の講義、君も取ってるよね。予習は済んだ?」

「……取ってるし、済んでるけど」

「ほんと? じゃあ、それ食べ終わったら訊きたいところがあるんだ。ここが少し分かりにくくて」

 髪のインナーカラーよりも青いネイルが、拡げた教科書を指し示した。あちこちに鉛筆の書き込みがあったので、零一は毒気を抜かれた。野外ライブに飛び込む姿や、軟派な雰囲気の見た目から、勉強熱心なタイプとはかけ離れた人種だと思っていた。

「意外と真面目なんだな」

「君って失礼だね。これを勉強するために文学部に入ったんだから、当たり前でしょ?」

 あっけらかんと答えた少女は、屈託なくのない笑みを見せてくる。気分を害したわけではないようだ。零一は、考えを改めた。出会い頭に予想外のそしりを受けたが、案外この少女よりも自分のほうが、指摘通り失礼な台詞せりふを言ったのかもしれない。

「俺は別に、学歴が欲しい以上の意味なんか持ってないから」

「あたしだって似たような感じだけど……ううん、やっぱり違うかな」

「? どうでもいいけど、なんで文学部なんだ?」

 零一は、適当な口調で訊いた。

 別に、この少女を称賛するつもりはない。ただ、妙な誤解をされたまま隣に居座られるのは、カフェテリアの喧騒よりもうんざりすると思っただけだ。

「音楽の道には、進まないのか? ……お前くらい上手いなら、プロになれるかもしれないだろ」

 目を見開いた少女の瞳に、窓からの日差しが射し込んだ。琥珀色の虹彩の奥まで照らし出した陽光が眩しくて、あの野外ライブのときのように、零一は目が離せなくなる。春のうららかな光の中で、少女が浮かべた微笑みは、太陽のように輝かしかった。

「自己紹介がまだだったよね。あたしの名前は――」

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