2-16 トラウマ
エリカが玄関に飾った〝星〟は、翌日には炭になっていた。
第一発見者は零一で、明け方に目覚めたときに気づいたのだ。夜明けの空のような
「零一が一回起きたのって、何時頃?」
「午前五時半だったと思うけど……」
肩をすぼめた零一は、猫の形をした卓上時計へ視線を投げた。
現在の時刻は、午前七時。常に夜色に染まる部屋は、一度は目覚めた零一を、あっさりと二度寝に
「せっかく見つけたのに、悔しいな」
ほとんど原形を留めていない星形は、細腕に抱かれただけで、嚙み砕いたビスケットのようにボロボロと崩れた。寝間着のロングブラウスの白が、夜目にも黒く汚れたのが分かる。エリカは不服そうな顔をしていたが、「よし」と明るい掛け声を発してから、〝星〟の残骸を
「着替えて朝ごはんにしよっか。これからのことは、食事の後で考えよう」
「……。ああ、そうだな」
「? どうしたの? ぽかんとしちゃって」
「いや……手掛かりが一夜で消えたのに、全然へこたれてないんだなって」
「あー、また他人事みたいな言い方しちゃって。君のことなんだから、もっと主役
楽しげに笑ったエリカは、零一の肩に拳をぽんとぶつけてから、軽やかな足取りで自室に戻った。ちらりと見えた室内は、〝星〟の灯りを失ったからか、青い闇に沈んでいる。一人きりになると、零一の目線は足元に落ちた。
〝現実〟の零一を知る足掛かりを失っても、全く絶望しなかった。かといって、現実逃避の口実を得られて、安堵を覚えたわけでもない。今日も二人で〝常夜〟を巡れば、また新しい発見があるかもしれない。
そんな希望を見つめる目を、いつから零一は手に入れていたのだろう。零一は自分で思うよりも、エリカの明るさに救われているのかもしれない。
「あ。零一、朝ごはんを食べたら、今日の午前中はここにいてね」
声がリビングから飛んできたので、着替えを済ませた零一は、洗面所から顔を出す。エリカはすでに台所に立っていて、服装も黒いワンピース姿に変わっていた。裾のフリルや飾りベルトを翻して動き回り、昨夜のオープンサンドの残りを温めている。
「別にいいけど、用事でもあるのか?」
「うん、お客さんが来るんだ」
「客? ここに?」
零一がローテーブルを布巾で拭きながら訊くと、「もちろん」と答えたエリカは、ツナとマヨネーズのオープンサンドと、二人分の珈琲を手早く運び、ソファに座った。
「相手は、零一に会いに来るんだもん」
「俺に……?」
「さ、食べよっ。いただきまーす!」
頭の中に疑問符を浮かべた零一も、ソファに腰かけて朝食を取り始める。エリカが急いで支度をしている様子から、客人の来訪時刻が近いのだと推測できた。
「こんなに朝早くに来るのか、その客は」
「まあね。もう一人のほうが、待ちきれないくらいに楽しみにしてるんだって」
「もう一人……? 何人来るんだ?」
「二人だよ。ごちそうさまっ」
歯切れのいいスタッカートで答えたエリカは、上機嫌で食器を片付けた。その足で洗面所に引っ込んで身支度を整えると、次はリビングで掃除機をかけ始める。零一は追い立てられるように押し込まれた洗面所で、歯磨きの合間に独り
「誰なんだよ、客って……」
掃除機が立てる騒音が、ほんの少しだけ遠ざかった。エリカは、リビングのついでに自室も掃除しているらしかった。ミント味の口腔を水で
そのとき、シャンデリアの欠片が一つ、音もなく落ちていった。ダイヤ形の流星は、月明かりの反射を振り撒きながら、ふかふかしたラグに墜落する。エリカは全く気づいておらず、靴下を履いた足が、ラグの上に乗りかけた。
「エリカ、動くな。ガラスが落ちてるぞ」
零一は、素早く声をかけた。エリカは目を瞠ってから、掃除機を止めて屈み込む。
「ほんとだ。金具が欠けてたみたい。零一、そんなに遠くから見えたの?」
「ああ、ちょうど落ちていくところが見えたから」
「さっすが、動体視力がやっぱりいいね」
「……」
ずきり、と頭痛が脈打った。この台詞を、零一は何度か聞いたことがある。
〝現実〟で? ――いや、違う。
この〝常夜〟で、エリカは何度か言ったのだ。
「動体視力……」
ぽつりと、零一は呟く。記憶が戻り始めた影響だろうか。以前に告げられたときには見過ごしていた違和感を、今なら容易く突き止められた。
こちらの様子にただならぬものを感じたのか、エリカが「どうしたの?」と訊いて笑みを作る。笑みを作っているのだと、零一には分かる。相手も、失言に気づいたのだ。零一は唾を飲み込むと、覚悟を決めて、質問した。
「どうして、知ってるんだ?」
「え?」
「色違いの隕石を捜すために、屋上で天体観測をしたときにも、言ってたよな。俺は、動体視力がいい、って。……どうして、エリカは知ってるんだ?」
追及の一石を投じたことで、エリカの笑みに、戸惑いの波紋が生まれたときだった。
インターホンが、鳴ったのは。
――どくん、と心臓の辺りに嫌な痛みが突き抜けて、頭から血の気が引いていく。己が何に対して過剰反応を示したのか、数秒遅れで理解した。
――インターホンの音だ。
零一が六〇二号室にいるときに、誰かが来訪したことは一度もない。〝常夜〟に来て二週間もたったのに、この少し錆びついた明るい音色を、耳にしたのは初めてだ。
「あれっ、もう来ちゃったんだ」
エリカが、掃除機を置いてリビングに出てくる。人工的な呼び出し音が、また聞こえた。穏やかな静寂を
この家の施錠は、今までどうしていた? 昨日の正午前に、図書館まで出かけた際に、自転車の鍵をかけ忘れたことを思い出す。空き巣など入らないと信じられる世界だから、居心地の良いぬるま湯に浸かって、忘れていた。他人を警戒する危機意識と、手抜かりのない自衛の隙間を掻い潜って、何もかも奪い去る冷たい手が、ある日突然に滑り込んでくる地獄を。〝常夜〟は屋内でも寒いはずなのに、冷や汗が背筋を伝っていく。頭が割れそうな痛みが弾けて、呼吸が細くなる。
「はーい、待ってね。すぐ行くから――」
エリカが、零一の隣をすり抜けた。アッシュグレーの長髪が靡き、毛先のパープルの行方を、零一の目は追いかける。
離れていく華奢な背中と、外に繋がる玄関扉を、視界のフレームに収めたとき――今までの中で最も激しい頭痛とともに、室内が真っ赤に染め抜かれた。
――『……け……て』
頭の中で、声が聞こえる。誰の声なのか、分からない。男か、女か、大人か、子どもか、判別不能の掠れた声が、脳内で何かを訴えている。
――『……助けて……』
零一に、訴えているのだ。
結局は救えなかった、零一に――。
「えっ? ……零一?」
エリカの声が、視界に夜色の色彩を呼び戻した。戸惑いを含んだソプラノで、もう一度「零一?」と呼んでいる。無理もない反応だ。
零一が、エリカの腕を、強く掴んで引き留めたのだから。
「行くな……」
乱れ始めた呼吸を、なんとか整えようとして、無様に失敗した声で、零一は言う。
どうしてエリカを止めたいのか、自分でも全く分からない。〝常夜〟で出会ってきた住人たちに、悪人など一人もいなかった。それなのに、玄関扉を隔てた向こう側で、インターホンを鳴らした人物が、なぜだか恐ろしくて堪らなかった。
だが、本当に恐ろしいのだろうか? ただの怖さだけで、こんなにも心が千々に乱れるだろうか? 胸の奥深くに封じ込まれた感情の
「零一、零一っ? どうしたの? 頭痛いの?」
振り返ったエリカが、はっと表情を変えた。しかし、まだ鳴り続けているインターホンも気になるのか、扉に一瞬だけ視線を向けた。
たったそれだけの挙動すら、どうしてか許し難いほどの不安を掻き立てた。気づけば「行くな!」と叫んでいて、エリカが小さく息を呑む。零一自身も、己の声量に驚愕した。玄関扉の向こう側も、しんと静まり返っている。
「……俺が行く、俺が行くから……」
「待ってよ、零一。様子が変だよ?」
ふらつきながら歩き出した零一の腕を、今度はエリカが引き留めた。そのまま零一を床に座らせると、自分だけ立ち上がろうとする。
「お客さんには、都合が悪くなったって言うから。零一は、じっとしてて……」
エリカの声が、そこで途切れる。
必死に手を伸ばした零一が、エリカを抱きしめて止めたからだ。
絶対に、行かせたくなかった。ここでエリカを止められなければ、〝現実〟で眠っているという零一の息の音も、止まってしまうような気がした。
「行くな……エリカ……行くな……」
長い沈黙の末に、エリカの腕が持ち上がり、手のひらが零一の背中に触れた。目の前にある頭が、小さく頷いたのを見届けると、張り詰めていた精神の糸が、ぷつりと切れた。意識が急速に遠のいていき、床に
エリカが、何かを叫んでいる。泣き出しそうな顔をされたのに、少し安心した自分がいた。それでもしぶとく消えない不安は、どうすれば拭い去れるだろう。
玄関扉が開いていく音を聞きながら、零一は視界が闇に呑み尽くされる間際まで、うわ言のように呟き続けた。
「行かないでくれ……」
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