2-15 重なる声
マンションの六〇二号室に着いたのは、午後の六時を過ぎていた。
といっても、空は変わり映えしない闇色で、青白い満月が嘘っぽく浮かぶ眺めも相変わらずだ。どっぷり疲れた零一は、勝手知ったる階段を上がり、あちこちに
たった今思い出したが、食料調達を忘れていた。エリカがよく利用しているという輸入食品メインの店は、明日改めて行くしかない。いつまでも立ち止まっていても仕方がないので、腹をくくって扉を開けた。
「……ただいま」
正面の窓から入る月光が、無人のリビングを照らしている。逆光で黒く見えるソファにも、人影はない。靴箱の横に据えつけられた姿見の前を通過して、零一は渋面になる。
月明かりに青く染められた髪はボサボサ、コートは砂だらけ、手の甲と頬の擦過傷には大量の絆創膏が貼られていた。ラジオ局を出た際に、女子会を抜けて一階まで見送ってくれた少女と交わした短い会話が、頭の中で再生された。
『アユ。救難信号の件だけどな、紙飛行機はないんじゃないか?』
『あれは、ひー君専用ですよ。他の皆さんは、もっと立派なものを持っています』
『例えば?』
『
『ねずみ花火もどうかと思うけどな……っていうか、お前も子どもだろ……』
『さっきから、文句ばっかりですね』
口調が
『……私だって、馬鹿馬鹿しいって思ってますよ。ひー君は、アユから役割をもらえて嬉しそうでしたけど。あんな運試しに命を懸けるなんて、バッカみたい……』
『……。一人の運で敵わないなら、みんなの運で対抗したらいいんじゃないか』
投げやりに答えた零一は、溶けたマシュマロが載ったオープンサンドをユアにくれてやった。バスケットの中身は早くも半分が消えていたが、おそらくは図書館で出会ったときから、ずっとアユの陰に潜んでいた少女を労うためなら、エリカも許してくれるはずだ。ユアはオープンサンドを手に立ち去りかけてから、零一を振り返って言った。
『色違いの隕石の件ですけど……きっと、もうすぐ見つかりますよ』
『え?』
『詳しくは、エリカさんに訊いてください。さよなら』
そそくさと立ち去ったユアは、何かを知っているようだったが、零一は深追いしなかった。とにかく腹が減っていて、早く六〇二号室に帰りたいという思いが全てだった。
そして、帰宅したわけだが――肝心のエリカの姿が見当たらなかった。
いつも二人で食事を取るローテーブルには、マグカップが一つ載っている。近づいて見下ろすと、珈琲が淹れられていた。中身がほとんど残ったまま、すっかり冷めきっている様子が見て取れる。
そういえば、エリカとは色違いの隕石捜しで行動をともにしているが、朝の日課として駅前広場を散歩するときや、一緒にラーメンを食べに行ったとき以外に、外出する姿をあまり見ていない。零一の外出に合わせて『あたしも買い物してこよっと』などと言いながら別行動を取ることはあっても、他はこのリビングで過ごす時間がほとんどだ。エレキギターを抱えている姿を見たのも、一度きりだ。
――『……もしかしたら零一さんとエリカさんって、〝常夜〟で出会う前に、〝現実〟で出会ってたりして』
ユアとアユの台詞が、〝現実〟に置いてきたはずの焦りを呼び覚ます。
零一は、エリカのことをあまりにも知らない。ラジオ局から零一を遠ざけようとした態度も、見え隠れする隠しごとも、このローテーブルに置かれていた、意味深なノートのことも。星屑のように散りばめられた秘密を、訊ねてみてもいいのかもしれない。同居を許してくれたくらいなのだ。多少の信頼関係は、育めていると信じたい。
だが、駄目だとすぐに気づいた。身体中の擦り傷よりも鋭利な痛みが、胸を刺す。
エリカの秘密の中に、〝現実〟の零一が隠れていたとしても――今はまだ、零一の目と耳は、その真実を受けつけない。
そんな己に対して、初めて悔しさが芽生えたときだった。
ささくれ立った心を慰めるように、歌が聞こえてきたのは。
青く冴えた荒野
空っぽの部屋に注いだ怠惰
折れたドライフラワーと
ネオン集めたテラリウムで
踊るのさ
最低のワルツを
――息を呑んだ零一は、静かに周囲を見渡した。
洗面所の暗がり、銀色の
零一は一度も入ったことがない、エリカの部屋。
愛想笑いすら
思い
真価が剥落
君が
どこにも行けないと
――心臓が早鐘を打ち、零一はローテーブルにバスケットをそろりと置いた。足音を忍ばせて、扉に近づく。零一の気配が扉の向こうに伝われば、今からサビに向かって走り出す音楽が、立ち止まってしまう気がしたのだ。
透明なネイルが
君の手に三日月を残す
いつか僕を追いかけて
さよならはまだ言わないで
水に燃えたつ蛍
ピンクの
――零一は、扉に手を伸ばした。側頭部を蝕み始めた痛みなんて、どうでもいい。身体が自然と動いていた。
しかし、傷だらけの手のひらが、扉のレバーハンドルに触れかけた瞬間だった。
走り出した音楽が――まだ、走り続けていることを知ったのは。
迷彩に
空っぽの窓際に飾られた花
目覚めた君は溺れてる
錆びついたナイフと
踊るのさ
――二番だ。モンスターを追い払った際には、一番のみでフェイドアウトしたはずの曲の二番が、確かにこの家に流れていた。愕然とした零一は、扉に触れかけた手を遠ざけて、後ずさる。
初めて笑ってくれた君
琥珀色の目が綺麗
磨かれた真価 見つけた
夜はもう怖くない
二人で一緒に朝を待つ
どこかには辿り着けるだろう
――頭痛が
かつての己は一体どうして、これほどまでに過去を拒絶するのだろう? あるいは、絶望しているのだろう?
それなのに、決して耳を塞ごうとはしないのだ。
零一は、間違いなく、この音楽を知っている。
冷たい君の手が
素知らぬ顔の朝日に
いつか痛みを越えてく
ねえ僕のことは覚えていて
鳴かない冬の蛍
孤独の枝を束ねて――
「〝
口を
「〝歩き出す横顔を見てみたい〟……」
はっとした零一は、手で口を押える。動揺の気配は、扉の内側からも伝わってきた。席を立つような物音がして、足音がこちらに近づいてくる。
止めるすべもなく、扉が開き――眩い光が、溢れ出した。
見飽きた月明かりの青ではなく、黄金を帯びたピンク色だ。リビングの暗闇をあっという間に照らし尽くした優しい光は、室内から現れた同居人の背後から漏れていた。夜のネオンさながらの逆光を受けたアッシュグレーの長い髪が、驚きの名残を表すようにさらさらと
古めかしい机と椅子、アンプとエレキギター、ベッドの周りにはたくさんの楽譜と、あのノートがあって――頭の中に、閃光が走った。大学のキャンパスで誰かが笑いかけてくれた顔が、あの歌詞の一節とともに、脳裏に一瞬だけ過る。
「……おかえり」
ピンク色に染まる影の中で、エリカが笑った。先に入浴を済ませたのか、寝間着の白いロングブラウスに着替えている。手を伸ばせば指先が届くほど近くにいるのに、感情の
エリカは今、何を考えているのだろう? 愚直にこちらの思いを明かすしか、今の零一にできることはなさそうだ。
「あの歌の二番……俺は、知ってたんだ」
エリカの小さな息遣いが、二人きりの闇に溶けていく。この〝常夜〟で初めて出会ったときと同じ顔をされたことが、どうしてか今まで以上に胸に迫る。切望と哀愁の眼差しが、罪悪感を刺激した。受け止めきれなくて、目を逸らしかける。だが、逃げないことが、己の誠意だ。零一は、エリカと見つめ合った。
「初めて聴いたのに、初めて聴いた気がしなかったから」
エリカは目を瞬くと、
今の零一では、やはり駄目なのだということを。
「零一。なんだかすごく久しぶりに会った気がするね。ちょっとだけ逞しい顔になったってことは、〝現実〟のことを少しは思い出せた?」
「エリカ……俺は……」
自業自得とはいえ、落胆にも似た歯がゆさを覚えた。零一の記憶が足りない以上、エリカが自ら秘密を明かすことはないだろう。けれど零一にも意地があるので、一つでも手掛かりを得ようと、食い下がる。
「さっきの歌、もう一回歌ってくれないか? ……思い出すから。今よりも、もっと自分のことを」
「ん? さっきの歌? これのこと?」
エリカが、部屋の扉付近から、何かを拾い上げてこちらに見せた。今度は、零一が目を瞬く番だった。
小型の黒い
「調べものは、ちゃんと進んだ?」
「びっくりするくらいに、何も」
ユアからも、図書館で質問されていた。あのときとそっくり同じ答えを返してから、零一はエリカに告げた。
「でも、一つだけ分かったことがある」
――『真夜中にこの音楽を聴くときは、つらいことを忘れられて、戦える気がする……って、〝常夜〟の人たちはみんな言うよ。零一にいちゃんは、違うの?』
モンスターから逃れて廃ビルの頂上に着いたとき、小学生のヒロは、救いの音楽を聴きながら、零一に問いかけた。
ヒロに教えなかった答えなら、今日という
記憶が欠けていても、大切なことを思い出せなくても、この〝常夜〟で生きる限り、零一は何度だって、あの歌と向き合うことになるだろう。
そのたびに、きっと思うはずだ。
「〝現実〟の俺は、あの歌が好きだったんだと思う」
エリカが、不意を
「ごめん」
「なんで謝るの? 食料調達ミッションにも失敗したから?」
「は? なんで知ってるんだ? いや、それも悪いと思ってるけど、そうじゃなくて」
「食料のことなら、気にしないでいいよ? じゃーん! 見て見て、在庫復活!」
「へ?」
エリカが指し示したソファの影に、買い物袋が置かれていた。見慣れたフリーズドライの味噌汁やスープの他に、エリカが大好きなレトルトカレーも山盛りに入っている。この買い物袋にも見覚えを感じたとき、エリカが言った。
「零一が大活躍したことは聞いてるよ。これは、そのお礼で頂いたんだ」
「まさか……『
「ふふ、誰でしょう。調べものと食料調達ミッションに失敗した零一には、まだ秘密にしておこうかな」
「それくらい教えろよ……」
「じゃあ、先に教えてよ。何を謝ってるの?」
「……サボろうとしたから。……いろいろと。調べものとか、食料調達にかこつけて」
「あたし、怒ってないよ? 別に謝ってもらわなくていいんだけど……せっかくだから、サボりの言い訳を聞かせてもらおうかな」
開いたままの扉を少し閉めて、エリカは悪戯っぽく笑った。学校からのエスケープを満喫しているような顔を、扉の隙間から細く射したピンク色の光が照らしている。この明かりは、一体なんなのだ。答えを早く知るためにも、けじめをつけるべく口を開いた。
「色違いの隕石探しは、俺の問題なのに、エリカが主体になって捜してたし……今日は、それからも逃げ出した。面倒臭いとか、病み上がりだからとか、そういうことじゃないんだ。俺は、怖かったんだと思う。〝現実〟の自分を、見つめるのが」
言葉の形にしたことで、〝常夜〟の行き止まりの霧のようにあやふやだった感情が、少しずつ形を取り戻す。漠然と、予感があったのだ。色違いの隕石が見つかれば、零一は否応なく知るだろう。〝現実〟の零一が、なぜ〝常夜〟へ流れ着いたのか。己のルーツを探す旅は、もう後戻りができなくなる。
「うん、分かるよ」
エリカは、零一が意外に思うほど、すんなりと理解を示してくれた。頬の輪郭をピンク色の光に染めて、儚げに笑う。
「この世界は、〝現実〟から目を逸らそうと思えば、いくらでも逸らせちゃう世界だからね」
声には
住人たちが抱えた心の傷を、全て知っているわけではない。零一自身も、己の全貌を知らないのだ。この〝常夜〟では、誰もが己の欠落と戦っている。
「深刻そうな顔しないでよ。あたしたち、ここで生きてるんだからさ」
エリカは快活に笑ってから、穏やかなトーンの声で訊いてきた。
「どうする? 色違いの隕石捜し、少し休む?」
零一は、しばし呆けて、苦笑する。隕石捜しを『やめる』とは言わないところが、エリカらしい。零一が立ち止まることはあったとしても、また歩き出すと決めつけている。そんな扱いを受けても悪い気がしないところまで、いつから見透かしていたのだろう。
「いや、続けるよ。明日も、手伝ってくれるか?」
「零一なら、そう言ってくれると思ってた!」
だしぬけに明るく笑ったエリカが、扉を大きく開き、部屋に入った。再び室内が露わになり、零一は天井からぶら下がった小さなシャンデリアを見つけた。しかし、電球は他の部屋同様に切れているようだ。ピンク色の光源は、別の場所にある。
エリカは正面の机に近づくと、零一を振り返る。得意げな同居人の腕の中に、探していた光源は抱かれていた。
「これは……」
「やっと見つけたよ。色違いの隕石。あんなに捜しても見つからないなんて、変だと思った通りだった。食料を持ってきてくれた人たちが、これを一緒に届けてくれたの。探し物はこれでしょう? って」
部屋から出てきたエリカは、しっかりと扉を閉ざしてから、改めて零一に向き直った。零一は、心底信じられない気持ちで、ついに探し当てた手掛かりを見下ろす。仄かな温かさを宿したピンク色の光の波が、夜色のマンションの一室に拡がって、柔らかく零一を包み込んだ。
「……。なんだ、これは?」
「何って、どこからどう見ても色違いの隕石だよ?」
「これのどこをどう見たら、色違いの隕石に見えるんだ……?」
激しく気抜けした零一は、〝それ〟を指さして抗議した。
――エリカが抱えた隕石は、見事な星形をしていたのだ。幼い頃に観ていた国民的な人気アニメで、そっくりな形のスナック菓子が出てきたことを思い出す。あのスナック菓子を
「間違いないってば! こんな怪しい石、零一が〝常夜〟に来る前は見てないもん」
「自分でも、怪しいって思ってるんだな……」
別の意味で、頭が痛くなってきた。幼少期に観たテレビの記憶を取り戻せたことよりも、眼前の嘘くさい物体へのインパクトのほうが遙かに大きい。「面白い形をした石に、誰かが蛍光塗料でも塗ったんだろ」と一笑に付すと、エリカは膨れっ面で「〝常夜〟にそんなことをする人はいないよ!」と主張した。
「いいよ、冷めてる零一なんか放っておいて、あたしはこの隕石を研究するから」
ぷいと顔を背けたエリカは、色違いの隕石――〝星〟にしか見えない物体を、玄関に飾った。どこに落ちていたのかは分からないが、誰にも
「本当に、お星さまみたい。夏祭りの日に見かけた蛍が、綺麗だったことを思い出しちゃった」
エリカの何気ない一言を、零一は最初聞き逃しかけた。すぐに聞き捨てならない言葉だと気づき、はっとする。
「覚えてるのか。〝現実〟のこと」
「まあね」
玄関から戻ってきたエリカは、窓際に近寄った。四角い墨色に切り取られた空は、今夜の十時四十七分を迎えると、新たな流星群を降らせるのだろう。
「……色違いの隕石を見つけてたくせに、隕石捜しを休むかどうかなんて訊くなよ」
「あー、そういう言い方するぅ? 少しお休みしたいのに、隕石と対面しちゃったら負担になるかなぁって、心配してあげたのに。あたしの優しさが分からないなんて、零一もまだまだだね。あれ? このオープンサンド、どうしたの? 美味しそう!」
エリカは瞳を輝かせると、ローテーブルのバスケットを覗き込んだ。はしゃぐ姿を見下ろしながら、零一は考えを巡らせる。
――零一とエリカは、〝現実〟で知り合いだったかもしれない。
その答え合わせが叶う日は、たぶんだが、そう遠くない未来に訪れる。
何気なく玄関を振り返ると、貝殻の裏側みたいにとろんとしたピンク色が、これから深まっていく夜に
痛みから解放された零一に残されたのは、なんだか懐かしい色に輝く〝星〟と、脳に刻み直された曲の歌詞、そして――ただの偶然かもしれないが、この両者を結びつけた場合に得られる、小さな符合への気づきだけだ。
「……〝ピンクの箒星〟……?」
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