2-14 終末女子会

 目が覚めると、見知らぬ天井と対面した。

 青い闇の中で、零一は寝返りを打つ。やがて手の平に触れた清潔なシーツの感触に驚いて、眠気の靄が霧散した。ブラインドで千切りにされた月明かりが、リノリウムの床に射している。徐々に状況を思い出し、身体を起こして靴を履いた。

 モンスターを退けたあと、零一はエイジたちと合流して、ラジオ局に行ったのだ。

 そして、五階にいたアユに礼を言って、擦り傷の手当てを受けて……猛烈な睡魔に襲われて、ビル内の仮眠室を借りて眠っていた。

「あ、零一さんが起きました! ぐっすりでしたね。よっぽど疲れてたんですねー」

 五階に行くと、アユが肩口までの髪を揺らして、零一を振り向いた。

 だだっ広いオフィス跡地からは、すでにエイジや宇佐美うさみといった男性陣が消えていて、パソコンを片付けた事務机の一角に、椅子に座ったアユ、主婦の杉原すぎはら、インチキ霊能者のミキの三人が集っていた。事務机の上には、大胆に開封されたポテトチップスの袋の他に、缶ジュースと缶ビール、チーズフォンデュ用の小鍋と卓上コンロなどが揃っている。セーラー服姿の中学生と、清楚な身なりの人妻、婀娜あだっぽい美女が机を囲む図はなんともシュールで、女子会の様相を呈した空間から、零一はすごすごと逃げ腰になる。

「今から祝勝会ですよ! 零一さんもいかがですか?」

 アユが料理を手で示すと、ミキがこれ見よがしに笑いながら、海老の天ぷらの串をチーズに沈めた。壁一面の窓から入る月光が、白い湯気を照らし出す。ニンニクと牛乳の香りがマイルドに漂い、腹の虫が鳴り始めた。モンスターの騒動で、昼食を食べ損なっていた。女子会の居心地の悪さを忘れて、一歩だけ室内に足を踏み入れたが、同居人の顔が頭をよぎり、踏み出した一歩を引っ込めた。

「……俺は遠慮しとく」

「あらー、エリカちゃんを差し置いて、自分だけ美女たちとご飯は食べられないって顔してる。かーわいい」

 ミキはとびきり下世話に笑ってから、バケットやブロッコリーを串に刺していく。食材が不足しがちな〝常夜〟で、どうやってこれだけのものを調達したのだ。おおかた大将たいしょうの屋台からせしめたのだろうと当たりをつけると、目の前にふわりと湯気が拡がった。

「零一君、お土産。エリカちゃんと二人でどうぞ」

 対面に現れた杉原すぎはらが、眉を下げて微笑んだ。薬指に指輪がはまった左手で抱えたバスケットには、フランスパンのオープンサンドが入っていた。明太子とバターを豪快に塗ったものもあれば、焼き目をつけたベーコンにレタスを敷いて、粒マスタードをかけたものもある。海老とアボカドが繊細に盛りつけられたものは、硬いクラストの歯ごたえを引き立てているに違いない。宝石のようにキラキラした差し入れを見ていると、柔らかい既視感が身体を包んだ。〝常夜〟を自転車で一周した日の帰りにも、こうやって零一に温かい食べ物を振る舞ってくれた人がいた。

「ありがとうございます。その……大丈夫ですか?」

「ああ、ごめんなさいね。みっともないところを見せてしまって」

 杉原は黒髪を耳にかけると、オフィスの広い窓を眺めた。ユアとアユより少しだけ長い髪が、割れた窓ガラスから入る夜風になびく。

「零一君とヒロ君が、無事でよかったわ。屋台の大将さんが狙われたときも、気が気じゃなかったもの。生還できたなんて、奇跡よ」

「奇跡って、そんな大げさな……でも、記憶を奪われなくてよかったです」

「あれぇ? 零一さん、いつの間にか勘違いしてません? モンスターに『喰われる』のは、記憶だけじゃありませんよ」

 アユが、口を挟んできた。ポテトチップスをチーズに浸して齧ってから、普段より少しばかり真面目な顔をする。

「モンスターは、私たちの身体も奪います。黒い靄に取り巻かれて、死体も残さず消えた〝常夜〟の住人たちは、数えきれないほど大勢いるそうです。特に被害が多かった時代を、私と杉原さんは知りませんが、古株のミキさんはご存知ですよね?」

「ええ。あの頃の生き残りも、ずいぶん減ったわね」

 赤いマニキュアを施したミキの手が、零一が持つバスケットからオープンサンドを一つ奪った。黒オリーブとクリームチーズ、サーモンのマリネが載ったものを齧る姿を眺めるうちに、零一もじわじわと思い出していた。

 ――『モンスターは、この街に発生する黒い霧のこと』

 零一が〝常夜〟に流れ着き、エリカに拾われた日のことだ。頭痛に苦しみ、明けない夜の世界に圧倒されて、思考停止していた零一に、エリカは説明してくれた。

 ――『あの霧の中に居続けたら、身体を霧に取り込まれるから。この世界で身体を取られたら、もう二度と〝現実〟には帰れないよ。この界隈の人たちは、モンスターに襲われることを『喰われる』って表現してる』

 零一は、モンスターの被害者を大将しか知らない。記憶を奪われるという被害の深刻さが、古い記憶を塗り潰していた。

 ――『身体は取られずに済んだけど、記憶は少しだけ喰われちゃったんだね』

 零一たちも、危険だった。杉原の涙は、決して大げさなものではなかったのだ。

 今まで見過ごしていた危機感が、以前よりビビッドに感じられたのは――僅かながら記憶の欠片を取り戻し、あの曲の歌詞を聞き取れるようになってからだ。

「モンスターって……何なんだ?」

「それを調べるために、『もう一人の新人さん』が頑張ってくれてるんでしょ」

 ミキは澄まして答えると、またしてもオープンサンドに手を伸ばしてきたので、零一は素早くバスケットを引っ込めた。「ちっ」と美女にあるまじき舌打ちを食らい、げんなりしながら、はたと気づく。先ほどの既視感の正体は、大将の明太卵焼きの記憶だけではなかったのだ。

「このフランスパン……どこかで見たような」

さかきさんから頂いたのよ。零一君が寝てる間に作ってくれたの。ヒロ君を守ってくれたお礼ですって。帰っちゃったのは、ついさっきよ」

 杉原が、控えめな笑みを零した。

「エイジさんたちも仰ってたけれど、本当に運命的なくらいにすれ違って出会えないのね。零一君と榊さんって」

「さかき……あっ? ああ! 手記の! しまった!」

「いつでも会えるわよ、せっまい世界なんだからさぁ」

「ミキさんって、相変わらず榊さんへの当たりがキツめですよねー」

 アユが茶化すと、「別にぃ?」と答えはミキは、椅子ではなく事務机にどっかと座り、缶チューハイを煽った。小さく笑った杉原が、こっそり零一に耳打ちした。

「ミキさん、へそを曲げてるのよ。榊さんは、非の打ち所がないくらいに、器量が良い美人だから」

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