2-11 夜の図書館の禁帯出

「それより零一さん、奇遇ですね。本の虫のユアと違って、零一さんが図書館に来るとは意外でした」

 コーンポタージュを飲み干したアユの台詞で、ここに来た目的を思い出せた。おしるこの餡子あんこ咀嚼そしゃくしてから、零一は答える。

「調べものに来たんだ。こないだ、ユアが言ってただろ? 図書館には〝常夜〟に流れ着いた記憶喪失者たちの手記があるって」

「ああ、そういうことなら手伝いましょうか? 図書館の利用に慣れてないなら、どの書架にどんな本が入っているか、非常灯があっても探しづらいですからね」

「アユの手助けは助かるけど、ユアはいいのか? 用事があるんだろ?」

「用事は済んだので、ノープロブレムです。ユアは本を返却しに来ただけですから」

 二人分の空き缶をゴミ箱に捨てて、アユはにっこりした。

「実を言うと、ユアは本を借りるとき、二週間の返却期限を守れないことが多かったんです。誰かに決められた〆切に、苦手意識があると言いますか。〝常夜〟で図書館を利用される方は少ないですし、皆さんはユアに寛容かんようでしたけど、代わりに私が返却することもあったんですよね。でも、今日は期限内に自分で返しに来ました」

 アユは、暗闇の一角に目を向けた。開け放たれたガラス扉の向こう側に、さらなる闇が覗いている。そこが図書館なのだろう。書架が林立する暗い迷路は、非常灯が点在しているおかげで、道標みちしるべの緑に彩られている。

「零一さんに見られているから、ちゃんとしなきゃって背筋が伸びたのかもしれませんね。あなたとの出会いは、ユアを間違いなく良い方向へ導きました」

「……だといいけどな」

 零一は、うそぶいた。とりあえずヒモ呼ばわりされた件は、水に流してやろうと思う。

 二人で図書館に続くガラス扉を押し開けると、埃っぽい書籍の匂いと、真夜中の冷たくえた匂いがした。斜めに射し込む月影つきかげが、窓ガラスのほとんどが割れていて、ブラインドも床に落ちているのだと教えてくれる。炭化した岩石も床に散っているので、駅前広場からほど近い場所にあるこのビルも、ぎりぎり隕石の射程しゃてい圏内だと推測できた。夜の十時四十七分に、ここを利用するのは危険かもしれない。

「手記はこっちです。郷土資料コーナーの、禁帯出きんたいしゅつのシールが貼られた冊子です」

「禁帯出? 貸出禁止か」

「ええ。ある人のために貼ったんです。実は、図書館を利用する住人の中に、〝常夜〟と〝現実〟の繋がりについて熱心に研究されている方が一人いらっしゃるんです」

「へえ? その人は、〝常夜〟に来て長いのか?」

「いいえ。〝常夜〟滞在歴は三か月ほどです。次いで、二か月前に来たひー君、最近来た零一さんの順番で、この三名は私たちの中では新人枠に入りますねー」

「ひー君……あいつだな」

 零一は、げんなりと相槌を打つ。さっき図書館前で出会った小学三年生の少年から、中学一年生のアユと同年代に見られたショックは甚大だった。

「零一さん、どうかしました? ピーマンを食べたユアみたいな顔をして」

「別に……それで、その三か月前に来た新人と、手記の禁帯出の関係は?」

「はい。その研究熱心な方が、くだんの手記の貸出、返却を繰り返されていたんです。あまりにもそれが頻繁だから、他の住人の皆さんが言ってあげたんです。『それを熱心に読むのは君くらいだし、しばらく持っていていいよ』って」

「ユアが聞いたら、羨ましがりそうな特別扱いだな」

「ええ。ご本人も辞退されました。ですが、私たちとしても、その方の研究を応援したいんですよね。折衷案として、その方の研究がとどこおりなく進むように、他の住人はできるだけ貸出を控えて、読みたいときは館内閲覧だけで済ませよう、と決めたんです」

「そんなにも研究熱心な人が、この〝常夜〟にいたんだな」

「意外ですか?」

「まあな。だって、〝常夜〟の人たちって……」

 その先を告げる前に、零一は失言に気づいて口を噤んだ。

〝常夜〟で過ごす者たちは、あまり〝現実〟に帰りたがろうとしていない――少なくとも、先日ラジオ局で胸の内を打ち明けてくれたアユは、おそらくは主人格であろうユアと一緒にいられる〝常夜〟の日々に、〝現実〟にはない幸せを見出している。他の者たちも、多かれ少なかれ、きっと。

「着きましたよー、零一さん! 郷土資料コーナーです」

 アユは立ち止まると、書架の一角に懐中電灯を向けた。あどけない笑みが、零一に代わって隕石を捜すエリカの笑みと重なった。

 近い将来、この寂しさや葛藤と、真正面から向き合う日が来るかもしれない。けれど今だけは、聞かなかったふりをしてくれた優しさに甘えて、零一も懐中電灯を書架に向けた。整然と並んだ書籍の背が、橙のライトを受け止める。この棚だけ整頓されているのは、アユが話した『研究熱心な住人』のおかげだろうか。

「……あれぇ? ありませんね。いつもはここにあるのに」

 書架の中段を隅々まで照らしたアユが、首を捻った。零一は、顔を引き攣らせる。置き去りにしてきた同居人が、脳内で零一の体たらくを笑い始めた。

 ――ない? ……手記が?

「嘘だろ? だって手記は、禁帯出で……誰かが館内で閲覧してるのか?」

「いませんよ。テーブルは無人。見れば分かるでしょ」

 言葉尻が、急に辛辣しんらつになった。ユアだ。この目つきの鋭さは間違いない。愚か者との会話に辟易へきえきしていると言わんばかりに、声に棘を生やしている。

「手記を持ち出せる人は、さっきアユが言ったように、一人だけです。……さかきさんが持って行ったのかな」

「さかき……?」

 知らない名前だ。いや、零一は知っている――さっき図書館前で出会ったヒロというサッカー少年も、名前に聞き覚えがあったのだ。『さかき』という名前だって、確かエリカや大将たいしょうが今までに口にしたことがあるはずだ。

「放っておいても、さかきさんがまた返却してくれますよ。最長で二週間後に」

「それは困る」

 泡を食った零一は、食い下がった。食料調達という目的は、店主不在により未達成。ここでもう一つの目的である調べものすら頓挫すれば、零一はどんな顔をしてマンションの六○二号室に帰ればいいのだ。

「教えてくれ。どこに行けば、その榊さんに会える?」

「榊さんなら、ついさっきここを出たばかりですよ?」

「……は?」

 呆ける零一に、女子中学生はにっこりした。今度はユアではなくアユだろう。

「ほら、零一さんがユアにコーンポタージュを振る舞ってくれた、自動販売機のそばです。非常階段からB一階に下りていった、白いトレンチコートの方を見かけませんでしたか? あの方が榊さんですよ。〝常夜〟と〝現実〟の繋がりを、熱心に研究されている新人さん。手記を借りて帰るところだったんですねー」

「そんな……あの人が」

 なんということだろう。タッチの差で、零一の手は手記に届かなかったのだ。

 今から走れば、追いつけるだろうか。『榊さん』の顔は見えなかったが、アユに特徴を聞けばいい。零一は隣を見下ろして、ぎょっとする。

 アユの姿が、忽然こつぜんと消えていたのだ。「零一さん、こっちですよー」と聞こえた声に振り向けば、ダッフルコートを着た女子中学生の姿は、図書館の入り口まで戻っていた。置いていかれて唖然あぜんとする零一へ、アユは両手をメガホンの形にして言った。

「零一さん、私はそろそろラジオ局に戻りますねー! モンスターから〝常夜〟を守るために、ヒーローはラジオ局に控えてなきゃいけませんから。……ああ、でも」

 月光が、ほのかに明るくなった気がした。青白い図書館に、声が滔々とうとうと響く。

「ラジオ局のパーソナリティの私は、人と音楽を繋ぐ人だから。本当のヒーローは、歌手の***さんかもしれませんね……」

 台詞の最後を告げるときだけ、アユは眩しそうに目を細めた。

 憧憬しょうけいを含んだ声は、零一の耳にだけは届かない。ノイズで聞こえなかった名前が、麻痺しきっていたはずの歯がゆさを刺激する。そもそも、こんな己の感じ方にも、いまさらながら疑問が湧いた。零一は、何を諦めているのだろう?

 ――『諦めきれていないんだから。諦めたくないんだから……』

 希望を囁いたエリカの声が、新たな頭痛を呼び寄せる。軽快な足取りで立ち去っていくアユの背中を見送ってから、我に返った零一も、急いで図書館をあとにした。

 かくして、食料調達と調べものに、まだ面識がない『さかきさん』を捜すという、新たなミッションが加わった。

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