2-12 狙われない

 B一階に続く非常階段まで走った零一は、直前で踏みとどまると、一階の自動扉から外に出た。

さかき』という人物がこのビルを出てから、すでに十分はたっている。どのみち闇雲に探すなら、せめて徒歩より自転車を選ぶべきだ。アユに大まかな居住区域だけでも訊き出せばよかったと後悔しながら、ビル沿いの花壇まで駆け戻る。自転車の鍵は挿しっ放しにしていたが、さすがに不用心だったかもしれない。ここが〝現実〟なら、あっという間に盗まれている。

 左右を雑居ビルに挟まれた大通りには、人っ子一人見当たらない。駅前広場に集まっていた四人組の姿も消えている。インチキ霊能者のミキの忠告を聞き入れて、全員が早めに帰宅したのだろうか。

 零一も、急がなくてはならない。残り時間の少なさを意識しながらサドルにまたがり、ペダルを踏み込んだときだった。

 舗道を進み始めたタイヤに、強い違和感を持ったのは。

「っ? ……うわっ!」

 タイヤから、急速に弾力が失われたのだ。ガリガリと舗道にタイヤを擦りつける硬い音は、中学生時代の運動会でやらされた段ボール製のキャタピラリレーを想起させた。振動に仰天した弾みでハンドルをあらぬ方向に切ってしまい、ビルの隣から伸びた下り坂の手前の道で、とどめとばかりに瓦礫がれきに乗り上げた零一は、自転車もろとも吹っ飛ばされた。カラカラカラ……と車輪が回る音が、静寂に虚しく木霊する。本日二度目の転倒により、学生時代の記憶の一部と、擦り傷をしこたま手に入れた。

「いってぇ……あっ?」

 うめきながら起き上がった零一は、自転車を見下ろして、異常に気づく。

 前輪のタイヤが、大量のガラス片に貫かれていたのだ。

 ――パンクだ。なぜ、このタイミングで。焦りながら記憶を手繰り、はっとする。

 図書館に辿り着く直前に、ヒロと出会ったときだ。サッカーボールを額で受け止めた零一は、瓦礫が散らばる〝常夜〟の舗道に、自転車ごとひっくり返った。

 思い返せば、押して歩いた自転車は、あのときから妙に重かった。零一は歯噛みすると、自転車を舗道の脇に寄せてから、坂道をやけくその勢いで下り始めた。結局徒歩になるのなら、『榊』と同じ地階のルートを進めばよかったのだ。

 坂道の終わりに着くと、ドライアイスのような霧が、足元でひんやりと揺れていた。ビル群の迷路をさらに奥まで進んでいけば、濃霧の行き止まりが待ち受けている。『さかき』は、まだこの近辺にいるはずだ。そう推理したとき、背後で砂利を蹴る音がした。

 振り返ると、零一が自転車を置いてきた坂道のてっぺんで、フランスパンの入った買い物袋を抱えた人影が、舗道を横切っていくところだった。

 細身の立ち姿は、すぐにビルの陰に隠れたが――間違いなく、白いトレンチコートを着た人物だった。

「あ……! ま、待ってくれ!」

 いっそ清々しいほどに、全ての行動が裏目に出る。行きはよいよい帰りは怖い、という〝現実〟で耳にしたフレーズが、頭の中でリズムを作る。今度は上り坂となった道を急いで駆け戻り始めたとき、さらなる追い打ちが零一の足を止めさせた。

 ――寒さが、急激に増したのだ。

 ぞっと肌が粟立あわだち、吐く息の白さが闇夜に際立つ。青白い月の光が、足元に漆黒の影を伸ばした。透明な空気がざわりと音を立てて濁っていき、己の影よりも濃い霧が、視界の端で凝集する。マフラーを調達できずに剥き出しになった首筋が、強烈な負の波動を受けて、ちりちりと痛んだ。

 心拍数が、上がっていく。視線を僅かでも動かせば、零一は〝それ〟を見てしまう。見てしまえば最後、〝それ〟は零一の存在に気づくだろう。いや、もう気づかれていても不思議ではない。駅前広場でミキが助言してくれたのに、零一は時間をかけ過ぎたのだ。

 ――モンスターだ。ついに、視界の範囲内に滲み出てきた。前方の左側、倒壊した電話ボックスと街路樹のあいだ辺りに、暗黒の靄が漂っている。

 先日、大将を襲ったモンスターなのか、それとも別のモンスターなのかは分からない。今までどこに潜んでいて、どこから湧いてきたのかも謎のままだ。

 一つだけ分かるのは、このままでは零一は、大将の二の舞になってしまう。取り戻し始めた〝現実〟の記憶や、この〝常夜〟で作った思い出を、モンスターに根こそぎ奪われる。握りしめた拳に、力がこもった。

「……られて、たまるかよ……!」

 進路を坂の上に取るか、下に取るか。駅前広場で主婦の杉原すぎはらと交わした言葉が、ビル群を見上げた零一の決断を後押しした。

 ――『もし何かが起こったときは、あなたを守ってくれる存在を思い出して』

 逃げ場所を定めた零一が、坂の上に向かって駆け出したとき、モンスターもまた動き出した。咆哮ほうこうと化した風のうねりが、街路樹の陰から坂道に向かって躍り出る。

「……!」

 正面から黒い靄と向き合う形になり、進路を塞がれた零一は立ち竦む。咄嗟に腕で頭をかばうと、轟音を伴う冷たい風が、身体の両脇を吹き抜けた。幾条もの黒い帯となった残像が、水の流れのように尾を引いて、煙草たばこ紫煙しえんさながらの儚さで立ち消える。

「は……?」

 ぎこちなく背後を振り返ると、黒い瘴気しょうきの塊は、坂道を下りきったところだった。壊れた街灯の下に滞留して、ざわざわと不穏にうごめいている。

「狙われなかった……?」

 力が抜けた零一は、しかし次の瞬間には、はっと顔を強張らせた。

 ――聞こえたのだ。とん、とん、とん……と、何かがバウンドする音が。

 即座に、視線を周囲に走らせる。ほどなくして、その人物を見つけた。

 車道を這うモンスターから、五メートルほど離れた地点の舗道に、見覚えのあるサッカーボールが転がっている。

 霧の海に半分浸かったそれを、拾いに行けずに、雑居ビルの陰で震えているのは――少女のように髪を一つに結った、半袖のTシャツに短パン姿の少年だった。

「ヒロ……!」

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