2-10 仲直りのコーンポタージュ
図書館が入った雑居ビルの一階は、電灯の大半が役目を終えた後だった。非常灯の緑と、突き当たりのエレベーター前に設置された自動販売機だけが、エントランスの闇を照らしている。カツンと硬質の足音が響き渡り、人工的な明かりが届く非常階段の暗がりで、白いトレンチコートの後ろ姿が、階下に下りていく様子が垣間見えた。
零一の他にも、ここを訪ねた人間がいたのだ。ビルの隣は下り坂だったはずなので、地階にも出入り口があるのだろう。光源が少なくても辺りを見渡せることに安堵しながら、零一はエントランスを進んでいき――ばったりと出会ってしまった。
「あ」
思わず声を上げると、相手も露骨に顔を強張らせた。今日は学校指定のダッフルコートに、きちんと袖を通している。背後の自動扉から煙たい夜風が吹き込んで、膝を覆う紺色のスカートを
「……先日は、すみませんでした」
ユアは、目を逸らして言った。先を越された零一も、気まずさが多少和らいだので「こっちこそ」と謝った。
「俺みたいな新参者が、大人げない言い方をして悪かった」
「別に気にしてません。〝常夜〟で何もしていない
穀潰しの一人は零一で、もう一人は己のことだろう。自虐が入り混じった口の悪さは相変わらずだ。零一はこめかみに青筋を立てたが、事実なので言い返せない。しかもユアが情報提供してくれた隕石については、零一ではなくエリカが捜索に当たっている有様なのだ。この後ろめたい状況を隠したまま、ビルを去るべく後ずさりする。
「あれから、何か判りましたか」
ユアが、立ち止まったままぽつりと言った。さっさと立ち去るかと思いきや、世間話をする意思があるらしい。後ずさりをやめた零一は、自動販売機へ進路を変えた。
「びっくりするくらいに、何も」
試しにボタンを押してみると、ピッと軽やかな電子音が鳴り響き、ガコンと飲み物が落ちてきた。取り出したコーンポタージュの缶を、無言でユアに渡してみる。ユアは警戒の眼差しでコーンポタージュを睨んでから、溜息を吐いて受け取った。零一も、自分用にボタンを押した。温かいおしるこの缶を眺めて、プルトップを開けて一口飲む。
「零一さんって、エリカさんとどういう関係なんですか」
おしるこを噴きそうになった。ゲホゲホと激しく咳き込み、涙目で隣の女子中学生を睨みつける。ユアは先日と同じ軽蔑の目で、零一を冷ややかに見上げていた。
「だって、どうかしていますよ。いくら記憶喪失だからって、赤の他人の女性の家に転がり込むなんて。そういう人のこと、〝現実〟ではヒモって呼ぶんですよね」
「お、俺は、ヒモなんかじゃ……!」
「勝手に熱くならないでください。バッカみたい」
ユアは眉間に皺を寄せていたが、コーンポタージュを一口飲むと、ほっとしたような笑みを見せた。零一は
「どうかしているのは、零一さんだけじゃありません。エリカさんもです」
「……どういう意味だ?」
一瞬で譲歩をやめた零一は、ユアを睨む。エリカは零一をからかってばかりのお転婆だが、零一にとっては命の恩人だ。ユアは呆れの
「零一さんとエリカさんは、〝常夜〟で初めて出会ったんですよね。いくら推定年齢が近いからって、プライベートな生活空間にあっさり招いてもらえるだなんて、おかしいと思わなかったんですか?」
「あのときは……そもそも、この〝常夜〟自体が、めちゃくちゃおかしい場所だったから……圧倒されて、頭が回ってなかった」
「気持ちは分かりますけどね」
呆れ声を少しだけ柔らかくしたユアが、一転して不思議そうに小首を傾げた。
「〝常夜〟に来たばかりで混乱していた零一さんはともかく、エリカさんは一年近くここにいるんですよ。私が半年前に〝常夜〟に来たときも、親身になってくれました。エリカさんが、優しいお姉さんだということは分かっています。でも、ただの優しさだけで、こんなどこの馬の骨とも分からない不審な男、家に入れますか?」
「おい、そろそろ怒るぞ……」
口ではそう言ったものの、零一の頭の中は、ユアの指摘で可視化された疑問でいっぱいになっていた。
エリカは、なぜ零一をすぐに信用してくれたのだろう? あまつさえ家に入れて、生活を共にすることを、率先して勧めてくれたのだろう?
――『あたしのこと、迎えにきてくれたの?』
零一が〝常夜〟に流れ着いたときに、エリカに掛けられた言葉を思い出す。切実な寂しさを湛えた目と、今にも涙となって流れ落ちそうな嬉しさも。
「……もしかしたら零一さんとエリカさんって、〝常夜〟で出会う前に、〝現実〟で出会ってたりして」
茶化すような声で、ユアが笑った。
その台詞に、どきりと心臓が弾んだ。一瞬だけ妙な動悸に襲われて、呼吸の仕方が分からなくなる。忘れていたはずの頭痛が、ぶり返した。
しかし、女子中学生のミーハーな笑みを見下ろしていると、勘付いた零一は「お前、アユだな?」と指摘した。相手は悪びれずに舌を出すと「バレちゃいましたか」と白状した。
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