2-9 忍び寄る天罰

 大通りへ進むと、少ない街灯で闇を切り抜いた光の輪が、自転車の車輪の影を足元に伸ばした。周囲を見回しても、やはり色違いの隕石らしきものは見当たらない。

 エリカが暫定で割り出した隕石の落下範囲には、この周辺も含まれている。駅前広場のような見晴らしのいい場所ならともかく、瓦礫が特に多いビル群の隙間に墜落されてはお手上げだ。

 だが、どんなに見つけ出すのが困難でも、エリカなら諦めないだろう。一つ目の目的地を示した暗いランタンの隣を通り過ぎ、零一は路地裏に懐中電灯を向けてみる。

 相変わらず、瓦礫しか見当たらない。予想通りだったので、特に落胆もしなかった。それでも道中の捜索くらいは手を抜かずに、いくつかの路地裏を確認して、二つ目の目的地に当たる図書館が入ったビルの前に、零一が辿り着こうとしたときだった。

 とん、とん、とん……と、何かがバウンドする音が聞こえたのは。

「ん……?」

 聞き覚えのある音だ。〝常夜〟ではなく、〝現実〟で聞いたことがある音だ。とん、とん、とん……とエコーを伴う乾いた音が、失くした記憶の匂いを探り当てる。学校のグラウンドで、放課後の日差しを吸い込んだ、ボールの匂い――。

 そう突き止めた瞬間に、正解が零一の視界を横切った。左側の路地裏から勢いよく飛んできたそれは、車道の向こう側の街路樹にぶつかってバウンドし、空中で弧を描き、零一がいる路地裏の入り口まで戻ってきて――サボり魔への天誅てんちゅうとばかりに、零一の額に命中した。

 無様なうめき声を上げた零一は、バランスを崩して自転車もろとも転倒した。懐中電灯が手から吹っ飛び、カラカラと音を立てて歩道を転がり、路地裏に光線を向けて止まる。小さな運動靴を履いた足が、光の筋に照らし出された。

「そのボール、僕のだよー!」

 元気な声が、暗い路地裏から響いてきた。光に照らされた両足も、月明かりが届く歩道に出てくる。よろけながら立ち上がった零一は、さっき己を襲撃した飛来物を拾い上げると、全身を月光にさらした人物に投げて返した。

 ぱしっと両手で難なく受け止めた人物は、八重歯を覗かせて笑ってくる。舌足らずな高い声は、幼い両手に収まったサッカーボールのように弾んでいた。

「ありがとう、にいちゃん!」

「お礼の前に、謝罪じゃないのか……?」

「だって、僕のボールを顔で止めてくれたんでしょ?」

「よくそこまで、自分に都合よく解釈できるな……それとも喧嘩を売ってるのか?」

 自転車を起こした零一は、改めて目の前の人物――幼い少年を見下ろした。

 少女のように伸ばした髪を後ろでくくった頭の位置は、〝常夜〟の誰よりも低いはずだ。ユアに出会ったときにも驚いたが、この少年こそが〝常夜〟の最年少に違いない。広場にいた宇佐美うさみという老人が、彼らを話題にしたがるのも理解できる。

「エイジさんや宇佐美さんたちが話してた、若い住人の一人って、お前のことか」

「にいちゃんだって若いじゃん。アユねえちゃんとおんなじくらい?」

「あ、アユって……中学生と一緒にするなよ……」

 さすがにショックだった。無慈悲な言葉という雷に打たれた零一を、少年は新種のカブトムシでも見つけたような目で見上げてくる。懐中電灯を拾い上げた零一も、負けじと少年の格好を見つめ返した。

 半袖のTシャツに短パンという、季節が夏であれば特筆することがない服装も、真冬の〝常夜〟では異質だった。本人は寒さを感じていないのか、丸っこい瞳を細めてニコニコした。無防備な人懐っこさは実家の柴犬を想起させて、零一は息を吸い込んだ。

「思い出した……俺は、実家を出て……大学の近くで、一人暮らしをしてた……」

 狭いアパートの光景が、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。ずきりとした頭痛とともに、映像は黒い霞で隠された。――これ以上は、思い出せない。

「へえ、にいちゃんは大学生なんだ」

「……俺は零一。そっちは?」

「ヒロ! 小学三年生! 名前はたぶん本名じゃないよ!」

「元気よく偽名ぎめいを名乗るなよ……」

「ぎめい?」

「ああ、分かんないか……嘘の名前、ってことだ」

「嘘なんか、ついてないよ、零一にいちゃんって、失礼なやつだな」

 少年が、頬を膨らませた。

「僕は〝現実〟で『ヒロ』って呼ばれてたんだもん。〝常夜〟の人には、『ひー君』って呼ばれることのほうが多いけどさ」

「ひー君……」

 どちらの呼び名にも、聞き覚えがあった。エリカを含めた〝常夜〟の住人が、今までにそれらの名前を口にしたことがあったはずだ。

「両方、僕のあだ名だよ。本当の名前は、忘れてから二か月くらいになるかなあ」

 二か月。その期間を長いと受け取るか、短いと受け取るかは、人によってさまざまだろう。零一にとっては短期間でも、ヒロの家族にとっては違うはずだ。家族という言葉を連想したとき、当たり前の疑問が頭をもたげた。

「ヒロは、一人で〝常夜〟に住んでるのか?」

 今までに出会った住人たちは、ユアとアユという例外を除けば、親兄弟といった家族を〝現実〟に残してここに来た。ヒロはサッカーボールを小脇に抱えて、「んー」となぜか唸って考え込んだ。

「一人だけど、一人じゃないよ」

「……? とにかく、早く家に帰れ」

〝常夜〟には善人が多いとはいえ、零一は全員と知り合えたわけではない。夜道で子どもを一人にするのは、〝現実〟で培ったであろう己の義務感や良識が許さなかった。

「お前みたいな子どもが、夜遅くに一人で出歩いたら危ないだろ」

「夜遅く? まだお昼ごはんも食べてないのに?」

 ヒロは目を瞬くと、くすくすと笑い出した。ぐうの音も出ない零一は、むっと唇を引き結ぶ。〝常夜〟の空は真っ暗だが、実際の時刻はまだ正午前だ。エイジたちには〝常夜〟に馴染んできたと言われたが、〝常夜〟ジョークに対応するだけの瞬発力はまだ足りない。ヒロは、サッカーボールを車道に放り投げた。

「零一にいちゃんって、変なやつ!」

 車が一台もない道路へ飛び出していった少年は、サッカーボールを蹴りつけながら去っていく。元気の塊のような後ろ姿は、駅前広場にまだ屯していた四人組に向かっていった。零一は疲労と安堵の息を吐いてから、今度こそ二つ目の目的地へ歩き出す。

 まだどこにも辿り着いていないのに、この時点でかなり疲れていた。人付き合いが苦手な人間が、立て続けに他人とコミュニケーションを取ったのだ。両手で押している自転車も、なんだか急に重くなった気がする。図書館が入ったビルに沿ってよろよろと歩いた零一は、空っぽの花壇の近くに自転車を停めた。

 そのとき、不意に寒気がした。誰かの視線を感じたのだ。

 弾かれたように振り向いても、誰もいない。荒廃した街並みが拡がるだけだ。

 ――『モンスターが現れる前触れ、だったりして』

 ――『モンスターが出る直前って、気分が悪くなりがちなのよ』

 インチキ霊能者のミキと、主婦の杉原すぎはらが残した言葉が、脳裏で警鐘けいしょうを鳴らしている。しかし、広場から和気藹々わきあいあいとした歓談の声が聞こえてくると、悪寒は嘘のように霧散した。気の所為だろうと断定して、零一はビルの正面入り口へ回り込む。

 これ以上は、特に疲労を呼ぶような出会いはなく、つつがなく時が過ぎるはずだ。そう高を括った零一は、ガラスが割れた自動扉を通過して、エントランスに踏み込んだ。

 ――隕石捜しから安易に逃れようとした天罰が、まだまだ零一を待ち受けていると知ったのは、この十秒後のことだった。

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