2-6 ノートの記憶

 太陽が昇らない〝常夜〟では、当然ながらカーテンの隙間から朝日が差し込むことはない。部屋が暗いままだと必然的にいつまでも眠ってしまうので、零一は目覚まし時計を八時にセットして起きていたが、この日は普段とは様子が違った。

 天体観測をした次の日に、零一はエリカに叩き起こされたのだ。

「零一、起きてっ! 今日も、色違いの隕石を捜すんだからね!」

 すでに着替えを済ませていたエリカは、昨夜からのハイテンションを維持していた。屋台に出かけたときよりも遙かに気合が入った立ち姿が、午前七時にもかかわらず月光で染め上げられた室内に、青々と鮮やかに浮かび上がる。

 モッズコートの下は、黒いプリーツスカートと襟ぐりに大きなリボンを通した紫色のトップスで、奇抜な髪色とマッチしている。カラータイツを履いた足を台所へと向けたエリカは、「朝ごはんにするよー」と零一の起床を急かした。

「見て見てっ、じゃーん! 卵だよ! それも二個! 大将の屋台で仕入れたものを、少しだけ分けてもらったんだ」

「おお……まじか」

 眠気が少しだけ覚めた零一は、ソファから身体を起こす。エリカの右手にはフライパン、左手には確かに卵が握られている。零一は、素直に感心した。

「エリカ、自炊できるんだな。レトルトのカレーとかしか作れないのかと思ってた」

「ふふふ、〝現実〟に帰ったら、刻んでカレーの具にしてあげる」

 笑顔で恐ろしいことを言いながら、エリカはフライパンを火にかける。零一は背中から殺気を放つ同居人から距離を取ると、着替えを抱えて洗面所へと退散した。「食事を済ませたら、作戦会議をするからねー」と、エリカの声が追いかけてくる。

 ジャージから古着のTシャツとズボンに着替えながら、零一は「作戦会議?」と訊き返す。台所からは返事の代わりに、油が自由気ままに跳ねる音が、通り雨にそっくりな賑やかさで響いてきた。フライパンに蓋をする音がして、景気の良い雨音が遠くなる。

「目玉焼きか?」

「そうだよー」

 今度は、返事があった。零一が洗顔を済ませてリビングに戻ると、エリカはコンロの隣に据え付けられた戸棚の前で屈んでいた。

「今日の朝ごはんは豪華にしようね。不健康って言葉が代名詞みたいな零一は、特に体力をつけていかなくちゃ。えーっと、こないだの『賞味期限切れ間近の在庫一斉処分セール』……じゃなくて、『第三回〝常夜〟じゃんけん大会』で勝ち取った景品の、海老のビスクがあったはず……」

「……どこから突っ込んだらいいのか、分からなくなる言い方をするな……」

「でも、よかったよね」

 戸棚からフリーズドライの味噌汁を取り出したエリカが、笑顔で零一を振り向いた。

「寝坊しちゃうくらいに、ぐっすり眠れるようになって。あたしの歌のおかげ?」

 言葉をつかえさせた零一は、しばらく表情の作り方に難儀してから、口の端だけで笑みを返す。エリカに代わって台所に立つと、フライパンの蓋を持ち上げた。

 白い湯気が、ほわっと夜色の空気に拡がった。霧のような湯気が晴れていくと、ふちが程よくカリカリに焦げた白身と、薄膜の羽衣をふんわりと被った黄身と対面できた。危ういところだった。あと一分でも遅ければ、半熟のタイミングを逃していた。こういう匙加減の記憶は留めているというところが、我ながら変わった記憶喪失だと思う。

「ところで、エリカが持ってるそれ、海老じゃないからな」

「なんだ、やっぱり零一だって食べたいんじゃん」


     *


 朝食を済ませると、食器を下げたローテーブルに、エリカは一冊のノートを広げた。歯磨きを済ませた零一は、エリカに促されてソファに座る。

 そのとき、ふと既視感を覚えた。期待と不安が胸に迫り、零一は密かに身構える。〝現実〟の記憶のフラッシュバックを覚悟したが、それらしきものは訪れない。そばに立ったエリカに「どうかしたの?」と訊かれたので、「べ、別に」と怪しい口ごもり方をしてしまった。

「ふーん? 怪しいなぁ。何かやましいことでもあるの?」

「別にないって」

 否定しながら、零一は緩やかに思い出していた。

 零一は単純に、この光景に見覚えがあっただけなのだ。

「俺が、この家に初めて来たときに……ここに、ノートが置いてあっただろ」

 零一は、目の前のノートを見て言った。このノートは新品なのか、開かれた最初のページは真っ白だ。あのときここに置いていたノートとは、きっと別物なのだろう。

 あのときのノートは、確か――零一は、台所の隣を見る。

 寝室の扉は、今日もぴったりと閉ざされている。

 この家に招かれてから、零一はまだ、あの扉の向こうを知らない。

「俺はノートに見覚えがあった所為で、〝現実〟の記憶のフラッシュバックじゃないかって勘違いしただけだ。これで納得しただろ?」

「零一って、動体視力だけじゃなくて、記憶力もいいんだね」

 エリカは、そう答えてにっこりした。笑みは普段通りだが、声は少しだけ硬かった。ノートについて触れた言葉にも、返事をしているようで、していない。

 それに、他にも何かが引っ掛かった。魚の小骨のように小さな、けれど決して見過ごせない、何かが。そんな疑問の正体を掴む前に、エリカに先を越されてしまった。

「じゃあ、食事も終わったことだし、作戦会議を始めるよ」

「おい、作戦会議って、何の話だ?」

「隕石の話だよ、色違いの隕石!」

 エリカは零一を押しのけて隣に座ると、鉛筆を握ってノートに向かった。『色違いの隕石』と丸っこい字で書きつけてから、『目撃者はアユ、報告はユア』と追記している。エリカは鉛筆を『隕石』の二文字に突きつけると、考え込むように言った。

「昨日の天体観測で、〝常夜〟に降ってくる途中の隕石を見上げても、あの中から色違いを見つけるのは難しいってことが判ったよね」

「難しいというか、ほぼ百パーセント無理だな、あれは……」

 ソファに置かれたラジオとエリカに挟まれた零一も、自分用に準備されたと思しき鉛筆を握り、『色違い』の三文字の近くに『?』マークを書いた。さらに『ユア、アユの見間違い?』と書こうとした気配を察したのか、エリカがすかさず零一の脇腹に肘鉄を打ち込む。弾き飛ばされた零一の腹にラジオがめり込み、呻いてソファの手すりに突っ伏する。その隙に、エリカは鉛筆で『?』マークをバツ印で潰していた。

「もー、その話はついたでしょ! ユアちゃんは絶対に嘘はつかない」

「早とちりすんな……昨日みたいに嘘って言ってるわけじゃ……じゃあ、アユは? ユアは、アユから訊いたんだろ?」

「その話も昨日ついてるってば。アユちゃんは仕事柄、不確かなことは絶対言わない」

「でも、現実に、色違いの隕石なんて見つからなかっただろ」

「ねえ、零一。ユアちゃんもアユちゃんも、両方とも正しい証言をしているんだって仮定してよ。その前提で考えたとき、何かいい案は浮かばない?」

「ユアも、アユも、両方正しいとしたら……」

 零一は、痛む腹をさすりながら、考え込む。

 ――『いつだったか、この席から窓の外を眺めていたアユが、言っていました。毎日決まった時間に夜空から降ってくる隕石に、色違いが交じっている、って』

 ユアとアユ、二人の証言と矛盾しない、真実が隠れているのなら。一つだけ、可能性を見つけられた。

「もしかして……」

 零一は、バツ印で潰された『?』マークに矢印を引き、思いついた可能性を、ノートの罫線に沿って書き込んだ。エリカは月光に照らされた文章を覗き込むと、にやりと好戦的な笑みを見せた。

「次の行動が、決まったね」

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