2-4 楽園で見つけた手掛かり
言葉の形にしてみると、愕然とした虚脱感に襲われた。
零一は、あまりにもこの疑問に気づくのが遅かった。本来なら、自転車で〝常夜〟を一周した時点で、その可能性に執着すべきだったのだ。心の大部分を
「そういえば、自転車屋の店主だって、〝常夜〟にはもういなかった。あのときは『いずれ分かるから』って誰も教えてくれなかったけど、〝常夜〟から出る方法があるんだな?
「零一さんは、出たいんですか? 〝常夜〟から」
アユに明るく切り込まれて、零一は言葉を途切れさせる。
〝常夜〟を、出たい? この考え方もまた、初めて出会うものだった。天真爛漫なアユの声音も、薄ら寒さを加速させた。アユは零一を
「〝常夜〟から出るのか、出ないのか。その答えなら、さっき零一さんはすでに出しています。零一さんは、いつかきっと、ここを出ていくんでしょうね……」
そう告げたアユの声は、しんみりとした哀愁を帯びていた。キャスター付きの事務椅子をくるりと一回転させて、零一をじっと見上げてくる。
「零一さんは、〝現実〟に帰るという考えを、すぐに持てなかった自分が怖くなりましたか? でも、それって当たり前のことなんですよ。零一さんだけじゃなくて、ここにいる人たちはみんなそうです。記憶を失くして、自分が何者かすら
――零一。大丈夫だよ。モンスターが現れた日に、同じ
「私は零一さんとお会いするのは初めてですが、きっと今の零一さんは、〝常夜〟に流れ着いたときよりも、生き生きしていると思いますよ。そんなあなたの精神は、私たちより遙かに健全です。ラジオにもゲスト出演してくれましたし、あなたがいつか〝現実〟に帰りたいと望むなら、私は手伝いを惜しみませんよ」
「……本当に、中学一年生なのか……?」
なんだか、肩の力が抜けてしまった。「ユアは中一ですが、私は違いますよ。でも年齢は訊いちゃだめですよー」とニコニコ答えた瞳からは、さっきまでの探るような色彩が消えている。零一の決意をとっくに知っていたかのような
「……お前たちが〝常夜〟に来たきっかけは、アユじゃなくて、ユアにあるのか」
「零一さんは、きっと賢くて優しい大学生だったんですね」
アユは、ふっと無邪気に笑った。出会ったときから今までの間、ずっと打ち解けた態度で接してくれていた少女が、零一には気づけないほどに薄い壁一枚で隔てた心を、ようやく見せてくれたような気がした。
「一人の身体を二人で使って生きていくには、〝現実〟は辛すぎましたねえ。私はへっちゃらでしたが、ユアは違ったみたいです。だからこそ、私が生まれたというべきなのかもしれませんね。……でも、零一さん。さっきのあなたの言葉、少しだけ間違っています。ユアは、きっかけを作っただけですよ。〝常夜〟に流れ着いた私たちが〝現実〟に帰ろうとしないのは、私に原因があります」
――〝現実〟に帰ろうとしない。アユの台詞から、零一は確信する。
やはり、間違いなくあるのだ。〝常夜〟から〝現実〟に帰る方法が。ひとまず「アユに?」と訊き返すと、アユは照れたようにはにかんだ。窓から差す月光が、あどけなく笑う女子中学生の黒髪に、天使の輪を投げかける。若い
「〝現実〟が辛くなると、人付き合いが苦手なユアは、私に日常生活の大半を任せるようになりました。でも、私はユアが好きなんです。誰よりも多くの本を読んで、とっても物知りで、少しだけ偉そうで、でも寂しがり屋なユアのことが。そんなユアの意識を、私が知覚できる時間は、どんどん短くなっていきました」
零一は、想像する。内向的な少女が、もう一人の人格に身体を任せて、〝常夜〟のような暗がりで、膝を抱えているところを。
なぜだか、想像は容易かった。疑問を感じた瞬間には、答えに手が届いていた。
「このまま〝現実〟でユアがひっそりと存在感を消してしまって、いつかこの身体から消えてしまうんじゃないかって、私には恐怖がありました。〝現実〟では〝常夜〟ほど自由に入れ替われませんし、記憶の共有だって〝常夜〟のレベルには届きません。ユアより後に生まれた私は、自分のことをユアの妹ではなく、友達のような存在だと思っています。ユアは、私のことを双子の妹のように思っているみたいですけどね。そんなユアが、現在の状況をどう思っているのかは分かりませんが――私にとって、この〝常夜〟は楽園です」
アユが、己の身体を両腕で抱きしめた。瘦せ細った身体の内側にいる、もう一人分の魂を抱きしめるように。
「ここなら、ユアは消えないで済む。ずっと、一緒にいられるから」
甘やかな執着の声が、がらんどうの廃ビル五階に、
何も言えない零一は、気まずさを振り切るようにエリカを見る。エリカもやるせなさそうな葛藤の顔で、斜め下の床を睨んでいた。
そういえば、さっきからエリカは静かだった。少しだけ怪訝に思ったとき、己の身体を抱きしめていたアユが、ぱっと腕を振り解いた。大きな溜息をついてから、零一をキッと睨んでくる。
「アユが余計なことを言ってましたけど、あれは全部、嘘ですからね」
「ユアか……嘘でも本当でもどっちでもいいから、アユに代わってくれ。約束をまだ果たしてもらってない」
「アユがもったいぶって果たさなかった約束は、代わりに私が果たします」
ユアは、うんざりした様子で言った。今日はもうアユを表には出さない腹らしい。
「きっと零一さんは、あの曲を〝現実〟で知っているんですよ」
「〝現実〟で? 俺が?」
「間違いありません。零一さんは、さっきのラジオ番組の放送中に、アユが言った曲名とアーティスト名を聞き取れなかったんですよね。その原因は、零一さんの〝現実〟の記憶と関係しているから。失われた〝現実〟の記憶は、本人が自発的に思い出さないと意味がないんです」
「はっ……? そうなのか?」
「……誰もこの人に教えなかったの? みんな、お人好しなんだから」
ユアは、
「あまりにも直接的な記憶の指摘は、本人には届かない仕組みになっています。詳しく知りたいなら、〝常夜〟の図書館に行ってください。図書館には、今までの記憶喪失者たちの例をまとめた、かつての住人たちの手記が残されています……」
「まじかよ……」
零一も、口元を歪めた。なんとも苦々しい新発見だった。
それはつまり、もし零一以外の誰かが、零一の〝現実〟について先に知ることができたとしても、その事実を零一の目と耳は、一切受けつけないということだ。
「だから俺は、歌そのものを聴くことはできても、曲名とアーティスト名は分からない、ということになるのか……? それじゃあ、曲名を訊きにここまで来た意味が……」
「別に、無駄足ってわけでもないと思います。収穫ならあるじゃないですか」
ユアは、初対面のときよりも饒舌に語ってくれた。アユを通して零一の人となりを観察して、こちらを舐めているのかもしれない。声には人を小馬鹿にしている響きがあったが、最初に感じた強い拒絶は、代わりに少し薄らいでいた。
「零一さんは、この曲を〝現実〟で知っていた。それが分かっただけでも進歩です」
「念のために、確認させてくれ。さっきのラジオで、俺がアユの言葉を聞き取れなかったって可能性は、本当にないのか?」
諦めきれずに零一が頼むと、ユアは嘆息してから、さらさらと何事かを話し始めた。残念ながら、謎の呪文の詠唱にしか聞こえない。項垂れる零一へ、ユアは手元の台本を開いてとどめを刺した。
「私たちが何回教えても同じですよ。その証拠に、私がこの台本に書かれた曲名とアーティスト名を見せても、零一さんには読めないでしょう?」
ユアは、台本を零一に差し出した。指でさし示された該当の箇所は、蒸気が凝集したようなモザイクに覆われていて、一文字も解読不能だった。零一は、白旗を上げた。
「くそっ……これじゃあ、どうやって突き止めたらいいんだ」
「自然に思い出すのを待つか、他の方法を探すしかないですね」
突き放すような声で吐き捨てたユアは、キャスター付きの事務椅子を少し回して、零一に背中を向けた。相変わらずの
「打つ手なしなら、あなたが〝常夜〟に与えた影響を調べてみたらどうですか」
「俺が〝常夜〟に与えた影響……?」
「ええ。エリカさんが音楽を〝常夜〟に蘇らせたように、私とアユが〝常夜〟に与えた影響は、ラジオ局の開設です。パーソナリティのお仕事は、アユの夢だったから。夢を叶えられる世界に来られて、アユは幸せだと思います。役割を生き生きと全うしているアユを見ているのが、私の〝常夜〟での生き甲斐……」
「……」
「そして、あなたは隕石を連れてきた」
話題をアユの事には踏み込ませないと言わんばかりに、横顔だけで振り返ったユアが、鋭い眼光を零一に向けた。
「いつだったか、この席から窓の外を眺めていたアユが、言っていました。毎日決まった時間に夜空から降ってくる隕石に、色違いが交じっている、って」
「色違いだと……? 隕石に?」
「確かめてみる価値はあると思いませんか。隕石を連れてきたのは零一さんですし、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれませんよ」
読書家らしい聡明さも感じさせる語り口には、もはや隠しようのない軽蔑が含まれていた。かっとなった零一は、つい中学一年生の少女に向けるべきではない鋭さで、自己嫌悪を誘発するような台詞を吐いていた。
「お前、俺のことが嫌いだろ」
「ええ、嫌いです。大っ嫌い!」
ユアが、音を立てて席を立った。座る者がいなくなったキャスター付きの事務椅子が、背後にスライドして壁にぶつかる。そこに貼られていたリスナーからのお便りが、はらりと何枚か床に落ちた。
「零一さんは、〝常夜〟に来てから何をしましたか? 隕石を呼び寄せたくらいで、他には何にもしてないじゃないですか。あなたには、役割がないんです。アユみたいな役割が、あなたにはない……私にだって……」
激しく打ち出された
零一は唇を引き結ぶと、再び背中を向けたユアの激昂を見守った。
己の非の一部をすでに認めて、自己嫌悪に苛まれている人間を、さらに言葉で追い詰めるほど、愚かな人間にはなりたくない。
――それに、反論などできるはずがないのだ。
紛れもなく、図星を突かれていたからだ。零一は、〝常夜〟での役割を持っていない。同族嫌悪を浴びた胸に、同じ同族嫌悪が
「零一ってば、何しょぼくれた顔してるの」
ばしっと背中を強く叩かれ、零一は顔を顰める。エリカはユアに目を向けると、「ユアちゃん、今日は帰るね。いろいろと教えてくれてありがとう」と穏やかなトーンで声を掛けた。目の前で勃発した
エリカは零一を振り向くと、
「捜してみようよ。色違いの隕石。零一が〝常夜〟に連れてきたものに、何か意味があるのなら。あたしも知りたい。捜してみたい」
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