2-3 禁じられた情報

「二つ目のお題は、『期待の新人、零一さんに訊きたいこと』! さあ、リスナーの皆さまから、本日もたくさんのお便りを頂戴しております! まずは、ラジオネーム・ハヤシライスさんから。『〝現実〟に好きな女の子はいますか?』きゃあ、甘酸っぱいですねー。それでは、お答えいただきましょう! 零一さん、どうぞ!」

 メリハリの利いた明るい声は、ラジオ局で零一を迎えた少女の声帯を介しているはずなのに、別の魂の存在を感じさせた。そんな謎の答えをうすうす予感しながら、零一はぶっきらぼうに吐き捨てる。

「ノーコメント」

「うわぁー、シビアですねー。この反応は、きっといますね」

「おい」

「それでは、二通目のお便りとまいりましょう! ラジオネーム・福神漬けさんから! 『得意料理は何ですか?』」

「得意料理? そんなもの、誰が知りたいんだ……」

「まあまあ、そう仰らずに。現に知りたい方がいるんですから、もったいぶらないで教えてくださいよー」

 アユは、ノリノリで追及してくる。張り合うのも疲れた零一は、「覚えていない」と一蹴してから、少し考え直して、訂正する。

「たぶん、カレーだろうな」

「わあっ、初めて零一さんが答えてくれました! 人類の個性には多様性があれど、人と人はいつか歩み寄れるという可能性を、今ここに示してくれましたね」

「帰る」

「ああっ席を立たないでくださいっ。照れ隠しですねー。可愛いですねー」

 重篤じゅうとくな疲労に襲われた零一は、事務椅子の背もたれに寄り掛かる。エリカは少し離れた事務机に頬杖をついて、先ほどから声を殺して笑っている。

 ――ラジオ番組に、ゲスト出演すること。

 それが、アユが零一に提示した条件だった。

 このラジオ番組への出演は、どうやら〝常夜〟に流れ着いた新入りたちの通過儀礼つうかぎれいのようなものらしい。ラジオ局に来ればこうなると知っていて、エリカは零一をアユに会わせたのだ。後でたんまり文句を言ってやろうと身体を起こして考えていると、一人で楽しそうに話していたアユが、ころりと話題を変えてきた。

「では、零一さんがものすごく怖い顔で私を睨んでいますので、ここで一曲! 〝常夜〟でお馴染みのあの曲を、お送りしたいと思います!」

 ――来た。どくんと心臓が跳ねる。ずいぶんと遠回りをしてしまったが、やっと追い求めた知識を得られるのだ。固唾かたずを呑んで見守っていると、アユは明るい笑みを絶やさないまま、マイクに向かって語りかけた。


「曲名は、***さんの『***』です」


「は……?」

 耳を疑った。訊き返したかったが、曲がりなりにもラジオ番組の本番中だ。零一は口を噤み、焦りを押し殺して考える。

 ――全く、聞き取れなかった。

 零一をラジオ局に出迎えたユアならともかく、眼前の少女ははきはきと力強く喋っている。歌手と曲名だけがピンポイントで聞き取れないなど、あり得ない。

 アユに問題がないのなら――零一に、問題があるということになる。

「――では、そろそろお時間となってしまいました。これからもお便りをお待ちしております。『ユアとアユの常夜鍋』、パーソナリティのアユでした!」

 ラジオの放送が終わり、後片付けを始めたアユが、パソコンの電源を落とした。同時に、溌溂とした表情が月食のように陰り、暗い瞳が零一を見据える。

「……。お疲れさまです。用が済んだなら帰ってください」

「まだ帰れない。約束が違うだろ」

 事務椅子から動かない零一を見つめて、少女が溜息をつく。立ち上がってどこかに行こうとはしない辺り、さっきまでラジオ番組のパーソナリティを務めた少女が零一と交わした約束を、きちんと覚えているようだ。人格が異なっていても、記憶は共有されているのだろうか。

「今のお前は、ユアだな。俺と最初に自己紹介をしたほうの、不愛想な女子中学生」

「そうですよ。だからなんですか」

「俺は、ユアとアユの関係については興味ない。隠したいなら好きにしろ。だけど、あの曲については教えてもらう」

「……別に、隠しているわけじゃないのに……バッカみたい」

 鬱陶しそうに目元に険を寄せたユアは、俯いた。眉のラインで切り揃えられた前髪が、大きな窓から降り注ぐ月光を受けて、白い顔に影を落とす。この世の不条理を全て見尽くしたような暗い瞳に、零一は束の間、気圧される。心臓の辺りが、嫌な軋み方をした。

 この目を、零一は知っている。絶望に染まった目で、〝現実〟を生きていた人間を知っている――。

「零一さんは、どうしてそんなことを知りたいんですか?」

 声のトーンが、急に明るくなった。女子中学生は顔を上げていて、顔の半分を覆っていた黒い影が、月光に駆逐くちくされて取り払われる。澄んだ瞳には、さっきまでの絶望とは真逆の希望が、無垢むくに青白く光っていた。

「今度は、アユか」

「はい。零一さんが寛容な方でよかったです。でも、すごく珍しいことに、ユアなりに零一さんに歩み寄ろうとしているみたいですよ?」

「歩み寄る? あの態度で、それはないだろ」

「ううん、アユちゃんの言う通りだよ」

 エリカが、パーティションの陰からひょっこりと顔を出した。アッシュグレーとパープルの髪が、重力に従ってさらりと流れる。さっきまで団子に結っていたというのに、縛り癖はほとんど付いていない。表情にはラジオを聴いていたときの笑みの名残があったが、ほんの少しだけ意外そうな目をしていた。

「ユアちゃんが二回も出てきてくれるなんて、滅多にないことだよ。零一、気に入られたんじゃない?」

 エリカが茶化してきた瞬間に、アユの顔が紅潮して「そんなんじゃないっ」と低い声で威嚇いかくされた。そして、はっとした様子で押し黙り、やがて苦笑の顔で頬を掻く。

 なるほど、と零一は納得した。こうもたびたび入れ替わっては、〝現実〟での苦労がしのばれる。アユは事務椅子に座ったまま、足を楽しそうにゆらゆらさせた。

「零一さんは、やっぱり優しい人ですね。今、私たちのことを気遣ってくださいましたよね」

「俺は……別に」

 零一は、口を濁した。零一はただ、ユアとアユの生き方を哀れんだだけだ。人によっては、傷ついたり激昂げっこうしたりするだろう。二人のために何かを為せたわけでもない。ここでも零一は、何も行動できていないままだった。

「同情でも、嬉しいですよ。それじゃあ、約束は守りますね。なんでも質問してください……と言いたいところですが、先にさっきの質問に答えてもらってもいいですか?」

 アユが、目を細めて笑った。〝常夜〟にはない太陽のような眩しさの笑みをひたすらに振りまいてきた少女が、初めて見せる寂しそうな笑みだった。

「零一さんが、あの曲について知りたがるのは、〝現実〟の記憶を取り戻したいからですよね。でも、記憶なんかなくったって、〝常夜〟の生活は楽しいじゃないですか」

「それは……そうかもしれない」

 心が、揺らぐのを感じた。ここでは誰もが親切で、人の痛みを労わり合って生きている。〝常夜〟の住人たちの過去は、訊かない。探らない。〝現実〟の記憶を、刺激しない。そんな暗黙のルールが、〝常夜〟という壊れかけた世界を維持しているかのようだった。零一が屋台で大将の指輪について触れたことは、おそらくは他の住人たちから見ればタブーだった。さっきのラジオ番組でリスナーから受けた質問も、〝現実〟の零一に深く踏み込むものはなく、他愛ないものばかりだった。

「それなら、何も問題なんてないじゃないですか。それなのに零一さんは、どうしてそんなことを知りたいんですか?」

「……それでも、取り戻したいって思ったからだ」

〝現実〟の思い出を失った自分に、言葉を尽くして考えを伝えることができるのか、自信なんて欠片もなかった。きっと〝現実〟の零一だって、他人とコミュニケーションを取ることが不得手なタイプの人間だ。

 だが、それでも零一はここに来た。己のルーツを、知るために。

「今までは、自分の記憶なんてどうでもいいと思ってた。でも……本当はそうじゃないって、分かったっていうか……」

 ――『生きることなんて、どうでもいい。だから、俺はここに来たんだろ?』

〝常夜〟へ来た日に、零一はエリカにそう言った。この台詞せりふは紛れもなく本心で、零一は生きることに執着なんてなかったはずだ。

 だが、大将がモンスターに襲われて記憶の一部を失くしてから、零一はやがて気づいたのだ。少なくとも零一は、〝常夜〟に来てからの思い出を、忘れたいとは思わない。夕食を終えて屋台を出たときに、ピンク色の花について思い出していなければ、この切迫感すら眠りについたままだったかもしれない。

 取り戻した花の記憶の下に、どんな思い出が埋まっているのかは分からない。

 けれど今は、取り戻したいという自分の気持ちに従いたかった。

「ラジオの曲名を知ることができれば、〝現実〟の俺への手掛かりになるはずだ。俺は……忘れたくないんだと思う。〝常夜〟の記憶も、〝現実〟の記憶も。あの音楽が、それを証明してる気がするんだ」

「そうですか。それなら、引き留めるわけにはいきませんね」

 アユが、爽やかに答えた。その台詞に引っ掛かりを覚え、「引き留める……?」と零一は訊き返す。アユは少しだけ意外そうに足をゆらゆらさせるのを止めてから、得心の顔で足を再び振り始めた。

「零一さんがまだ知らないなら、それについて私から教えるわけにはいきませんね」

「……? 何の話を、して……」

 問いかけながら、零一は気づいた。思わず身を乗り出して、問い質す。

「もしかして……帰る方法があるのか? この〝常夜〟から、〝現実〟に」

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