1-7 豚骨ラーメンは現実の味

 モンスターが一度現れて去ってからも、エリカは流星群が降るたびに、翌朝――に相当する、午前九時頃――にマンションの階段を下りていき、性懲りもなく隕石やクレーターを眺めに出かけていた。他の住人たちもエリカと同じ目的で、市街地を散歩しているらしい。娯楽が少ない街ならではの反応だろうか。倦厭けんえんされるよりは面白がられているほうが、零一としても心が休まる。

 その後も零一が記憶を取り戻すことはなかったが、小さな変化なら一つあった。

 大将たいしょうの屋台に、エリカと食事に出かけたのだ。

 外食を提案したのは、〝常夜とこよ〟に来てから初めてだった。正確に言えば提案したのはエリカで、散歩と称して自転車で大将の屋台を追いかけて遠巻きに様子を見てきた零一の姿を、エリカに六〇二号室のバルコニーから目撃されて、散々からかわれたのだ。

「そんなに心配なら、会いに行けばいいじゃん。夕飯は大将の屋台で食べようよ」

 そうと決まれば、エリカの行動は早かった。まごつく零一の手を容赦なく引いて、廃駅前の広場へ嬉々として出向いたのだった。

 少ない街灯に照らされた広場の片隅に、探していた屋台は停まっていた。赤い暖簾のれんからちょうど客が出て行ったので、カウンター席は全て空いている。コンパクトな厨房からは温もりのある黄色のライトが漏れていたが、もはや見慣れた軽トラックの佇まいに、零一は小さな違和感を覚えた。

 何かが、以前と違うのだ。一人で屋台の様子を見に来たときにも同じ感想を抱いたが、絵本の間違い探しのような違和感の正体を見つけるのは、まだ〝常夜〟に来て日が浅い零一には難易度が高かった。

「大将のお店、メニューが日替わりなんだよ。ラーメンがあるといいなぁ」

 エリカは、かなり気合いが入っていた。今日は目立つアッシュグレーのロングヘアを後頭部で団子にまとめていて、毛先のパープルをメッシュのように編み込んでいる。本人いわく「屋台でラーメンを食べるときの標準装備」だそうだ。お馴染みのモッズコートの下はメンズのTシャツをゆったりと着ていて、黒いスキニーパンツが似合っている。Tシャツは零一が〝常夜〟の古着屋で調達してきた自分用の衣服だが、ちゃっかりエリカが着込んでいる。零一も似たり寄ったりの格好なので、冷気が染み込んだ舗道をスニーカーで歩く零一たちは、傍目には男友達が連れ立って屋台を目指しているように映るかもしれない。零一の胸辺りの高さにある団子頭を見下ろすと、つい苦笑が漏れた。

〝常夜〟に迷い込んだ零一の日々は、こんなにも小柄な背中が支えていたのだ。エリカは視線を感じたのか、不思議そうに振り返る。

「? なに笑ってるの?」

「別に。チビだなと思ってただけだ」

「ふふふ、〝現実〟に帰ったら、その足を十センチのピンヒールで踏んであげる」

 一触即発の火花を散らし、互いに硬い笑顔で牽制けんせいし合いながら、軽トラックの屋台に辿り着く。暖簾のれんとカウンターの向こう側で、湯気を立てるおでん鍋がちらりと覗いた。ふわりと漂う優しい出汁だしの匂いには、こってりとした香ばしさも混じっている。

 おでんの他には、どんなメニューが用意されているのだろう。食欲と想像力を掻き立てられながら暖簾のれんをくぐると、明るい光に包まれた。頭上に取り付けられた間接照明が、暖簾の内側を煌々と照らしている。厨房に漂う湯気の粒子が、照明を反射して輝いた。エリカが照明に負けない明るさで「大将、こんばんは!」と挨拶する。

 厨房にいた男は目を細めて、「ああ」と親しみのこもった声で応えてくれた。先日の二度目の出会いは、幸いにも記憶に残っているらしい。安心した零一も、ぎこちなく会釈した。

「いらっしゃい、エリカちゃん。それに、零一くん。こないだは心配をかけたね」

「こんばんは。……あれから、身体の具合はどうですか」

「うん、特に問題はないよ。ちょっと肩こりがひどくなったかなと思うくらいで。これはモンスターが理由じゃなくて、加齢の所為だろうね」

 微笑する面立ちは優しげで、声には初対面のときにも感じた落ち着きがあった。櫛で整えていると判る頭髪も、清潔感のある白シャツも、痩せぎすの身体にかかったエプロンも、それどころか大将という呼び名すら――零一にはどことなく、本人には不釣り合いに思えた。スーツ姿のサラリーマンのほうがしっくりとくる印象の男だった。

「大将はまだ若いじゃないですか。加齢なんて言葉は似合わないですよー」

「はは、エリカちゃんみたいな若者にそう言ってもらえると嬉しいね。さあ、今日は何にする? 日替わりは豚骨ラーメンだよ」

「やったぁ、ラーメン! 餃子はある?」

「餃子は、材料が仕入れられなくてね。今度手に入ったら、エリカちゃんのマンションの近くに屋台を出すよ」

「ああ、そっかぁ。そのときは絶対に注文するからね。それじゃあ、日替わりラーメンを二つ、明太卵焼きを一つで!」

 椅子に座ったエリカは、零一の希望も訊かずに威勢良く注文を済ませると、カウンターに貼られた手書きのメニューを、瞳を輝かせて眺め始めた。

「ねえねえ、キムチ炒飯チャーハンも頼んじゃう? あっ、後でおでんも食べようよ。大根と牛すじが最高に美味しいから。ああ、三食団子みたいに串で刺したうずらの卵も気になるなぁ……」

「どれだけ食べる気なんだ……」

 おそらくは人生で初めて屋台に入った零一は、非日常的な空間に浮かれる間もなく、普段の調子で呆れ果てる。とはいえ、どれだけ山盛りに注文しても、なんとなくエリカは完食するだろうという確信があった。根拠は己の内に見出せないが、こんなにも気合いを入れて夕食に臨んでいるのだ。きっとそうに違いないと、零一は己を納得させた。

「ねえ、大将。あの提灯ちょうちん、どうしたの? ついに電球が切れちゃった?」

 エリカが、小首を傾げて指をさす。はっとした零一も、屋台の運転席側を振り返った。サイドミラーの近くに吊るされた提灯は、赤い表面に屋台の照明を受けるばかりで、自らの輝きを失くしている。零一が先ほど気になった違和感は、この提灯にあったのだ。

「ああ、こないだの騒動のあとから、光らなくなってしまったんだよ」

 カウンターに二人分の水を置いた大将が、困った様子で眉を下げた。

「電球が切れたわけじゃないんだ。現に、こないだ介抱してくれた皆さんが、まだ使える電球と交換してくれたけど、その途端にまた光らなくなる、の繰り返しでね。これはもしかしたら、モンスターに食われたという私の〝現実〟の記憶と連動しているのかもしれないね」

「そっか……ちょっと寂しいね。あの赤い光を遠くから見つけたら、ああ大将の屋台だって嬉しくなるのに」

「すまないね、エリカちゃん。さかきさんやヒロ君たちも残念がってくれたけど、また光ってくれるのを気長に待つよ」

 大将が背中を向けて調理に入ると、ラーメンの麺が鍋で茹でられていく泡の音が、小さな屋台を支配した。沈黙に戸惑った零一がエリカを見ると、意味ありげな笑みが返ってきた。相手が心配なら自分から話題を振れと、憎たらしいにやけ顔に書いてある。若者同士のアイコンタクトに気づいたのか、卵をボウルに割り入れた大将が、穏やかな微笑みを零一に向けた。

「あの……」

 零一は口を開き、早くも言葉に詰まった。気になっていた健康状態は、先ほどすでに確認済みだ。モンスターの話をしようにも、大将は記憶の一部を『喰われて』いるので、襲われたことすら覚えていない。周囲の者たちがそのときの状況を教えたから、己の現実を把握できているに過ぎないのだ。

 では、〝現実〟のことを訊いてみる? そもそも、どういった経緯でこの人物は〝常夜〟に流れ着いたのだろう。だが、それは大将に限った話ではなかった。己の人生さえ思い出せない体たらくで、他人の人生を詮索できるわけがない。一つだけ用意していた台詞せりふはあったが、言葉にする決心はつかなかった。

 沈黙が、重くなっていく。話題に困り果てた零一の目が泳ぎ、そのうちに大将の首に掛かったネックレスに、銀色の指輪が通されているのを見つけてしまった。

「ご結婚、されているんですか」

 言ってしまってから、激しく後悔した。ひょっとしたら大将には、〝現実〟に妻子がいるかもしれない。その事実を指摘したところで、個人の傷を抉るだけだ。

「……ああ、そうらしいね」

 大将は、穏やかに答えてくれた。溶き卵を熱したフライパンに流し入れると、盛夏の蝉の大合唱のような景気のよさで、鮮やかな黄色が湯気に包まれる。そこへ一腹ひとはらの明太子を並べて器用にくるくると巻きながら、大将は指輪を見下ろした。零一の胸が、ずきりと痛んだ。温厚な人柄にはそぐわない他人事の話しぶりが残酷だった。同時進行で麺の湯切りをする横顔に、郷愁きょうしゅうの影が差していく。

「何も思い出せない薄情者で、〝現実〟の家族には申し訳ないよ。願わくば、私のことなんてさっぱり忘れて、新しい人生を歩んでほしいけれど、忘れた罪を贖うには、まずは全てを思い出さないといけないね」

「そんな……」

 零一は口を開いたが、結局は口をつぐんでしまう。安い気休めは、傷口に塩を塗るだけだ。そんな葛藤はやはり初対面のときと同様に、簡単に見抜かれているようだ。己の名前すら忘れた男は、薄く笑った。どこか寂しげな笑みだった。

「零一君。できれば気を悪くしないで聞いてもらいたいんだけれど、私は君が〝常夜〟に来たことで、実は少しだけ焦っていたかもしれないんだ」

「焦る? どうして……」

 その台詞には、少しぎくりとした。〝常夜〟に隕石を降らせた罪悪感を刺激されたが、それにしても『焦る』という言葉は、零一の所業には一致しない。大将は焼き上がった明太卵焼きを皿に移しながら、滔々とうとうと語ってくれた。

「はっきりとしたことは、覚えていないけどね。私は新しい〝常夜〟の住人が来るたびに、実は焦っていたと思うんだ。きっと次の住人も、私より先に〝常夜〟を去るだろう。それがなんとなく分かるんだ。このまま〝現実〟の記憶を取り戻せないままでいいのか、考えても戻ってこない記憶のことを、どうしても考える時間が長くなる。日々を丁寧に暮らすことが、この不安に打ち勝つすべだと思っていたけれど……そんな自分の懊悩おうのうを、モンスターにつけ込まれたのかもしれないね」

「……薄情者なんて、そんなことはありません」

 零一は、言葉を真剣に選んで、そう言った。

 本当は、質問をしたかった。〝常夜〟を去るという言い方が、妙に気になって仕方がなかった。〝現実〟に帰れると受け取ればいいのだろうが、その解釈で本当にいいのか、自信がない。けれど、今は訊かないでいようと零一は思う。代わりに、あらかじめ用意していた台詞を告げる覚悟を決めて、おそるおそる打ち明けた。

「あの……俺たちは、大将がモンスターに記憶を取られる前に、一度だけ会ってるんです。俺が〝常夜〟に来た次の日に、あなたに卵焼きを頂きました。ちょうど、今作ってもらってる卵焼きを……とても美味しかったです。ありがとうございました」

 大将は、軽く目をみはってから、申し訳なさそうな顔をした。そして、記憶が欠けても依然として変わらない穏やかさで、零一に微笑みかけたのだった。

「そんな気はしていたけれど、やっぱりそうだったんだね。君を戸惑わせて悪かったね。〝現実〟の思い出も含めて、また一から探し直しになるけれど……命さえあれば、また何度でもやり直せるさ」

〝現実〟の記憶を〝常夜〟で忘れて、思い出して、モンスターに奪われて、また忘れる。それでも諦めていないのだ。エリカの台詞が、脳裏をめぐる。諦めたくないんだから。確かにそうかもしれないと、厨房の熱気で寒さを少しだけ忘れた零一は思った。零一が思っているよりも、〝常夜〟で生きる者たちはたくましい。

「はい、お待ちどおさま。日替わりラーメンです」

 大将は、カウンターにラーメン鉢を二つ置いた。

 乳白色のスープがなみなみと注がれたラーメンは、刻みネギとキクラゲが惜しげもなくトッピングされていて、極細の麺は熱い湯気の中でつやつやしている。厚めに切られたチャーシューも、これでもかと存在感を主張していた。零一は、ごくりと唾を飲み込んだ。インスタント食品ばかり食べていた身体は、思いのほか手料理に飢えていたらしい。エリカの気合の入りようも納得できる眺めだった。

「いただきます」

 胡椒を一振りしてから麺を啜ると、想像以上に強い旨味が頭をがつんと殴りつけた。とろんとした油の玉がゆらゆらと揺れる豚骨のスープが、繊細な麺によく絡んでいる。舌に拡がった味は力強いのに品が良く、複雑なようで雑味ざつみはない。シンプルな美味しさを追求した、丁寧な仕事を感じさせた。

「美味しい! さっすが大将、天才だね」

 頬を湯気でほんのりと赤く染めたエリカが、満面の笑みで絶賛した。零一も顔を上げて「美味うまいです」と感想を述べると、大将は照れた様子で相好を崩した。

「ありがとう。まだ〝現実〟で食べたラーメンの味には程遠いような気がするから、これからも精進していくよ」

 ――〝現実〟で食べた、ラーメンの味。まだ正確に思い出せていないはずの味を、いつか大将が〝常夜〟で再現できたとき。零一とエリカはどんな暮らしをしているだろう。

 今日のように、他愛ない口喧嘩を〝常夜〟で交わしているだろうか。

 それとも――〝現実〟に帰っているだろうか。

 さりげなく隣に視線を送ると、エリカは幸せそうに串を握り、うずらの卵を頬張っていた。いつの間に注文したのだろう。明太卵焼きの皿も、早速平らげたのか消えている。零一が呆れを深めると、エリカはさらに追加のおでんを注文してから、ふと思いついた様子で言った。

「大将、次の営業日はいつ?」

「明日だよ。場所は、ラジオ局の近くのバス停跡地で予定しているよ」

「ラジオ局……?」

 零一は、食事の手をつい止めた。ラジオ局は、以前に零一が〝常夜〟を自転車で一周した際に、唯一見つけられなかった場所だ。大将が、ふっと物憂げな笑みを見せた。

「ちゃんと食べているか、気になる子がいるからね。この広場までは出てきてくれなくても、自宅の近くに屋台を出したときは、いつも来てくれるから」

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