1-6 諦めたくない
「今日も、同じ時間だね」
窓辺に並んで立ったエリカが、猫の形をした卓上時計を見て言った。
小さな長針と短針が示した時刻は、確かに昨夜と寸分違わず一致する。今日も部屋を満たした青い月明かりに、
「十時四十七分……この時刻に、零一は何か意味があると思う?」
そう訊ねてきたエリカは、零一の顔を見ようとしない。太陽の代わりに夜空を彩る輝きを、じっと目を逸らさずに見つめている。零一も、エリカに
やがて流れ星は数を減らしていき、燃え落ちた線香花火のような哀愁が、作り物のような月だけが浮かぶ夜空に寒々しく残る。エリカは、両腕を天井に向けて伸びをした。寝間着の白いロングブラウスの裾が、腕に引っ張られて持ち上がる。
「終わったね」
「ああ」
零一は窓辺から離れると、ソファの背もたれに掛けていた毛布を広げ始めた。背後で嘆息したエリカが、寝室に去っていく足音が聞こえる。
「おやすみ。零一」
「……おやすみ」
ぱたん、と扉が閉ざされると、静寂が
数日を〝常夜〟で過ごすうちに、隕石の落下には規則性があることが判明した。
流星群が空に現れるのは、決まって午後の十時四十七分。どんな時刻であれ闇色に染まる〝常夜〟の空は、毎日この時刻を迎えるときだけ、
ソファに身体を横たえてから、一時間はたったはずだ。瞼が重くなる気配はなく、今日も午前三時頃までこうして無為に時を過ごし、いつの間にか気を失うように眠りにつくのだと思っていた。
「眠れないの?」
だから、毛布の上から声が優しく落とされたとき、その足音を聞き分けていた零一は、特に驚きはしなかった。「別に」と適当な返事をして、毛布から顔を出さないまま、狭いソファで寝返りを打つ。
「エリカこそ、早く寝ろよ。今が何時だと思ってるんだ」
「二時半。ねえ、どうして起きてるの? 隕石が落ちるのを見届けてから、すぐに寝たのかと思ってた」
「別にいいだろ。理由なんか、どうだって」
「さては、シャワー中のあたしを覗いてたな? それでどきどきしちゃったんだ?」
「アホか。さっさと寝ろ」
「モンスターが、怖くなった?」
違う。だが、違わない。返事を迷っているうちに、小さな溜息が聞こえてきた。
「そもそも、どうして隕石を見守ってから寝てるの? 楽しい光景じゃないって、零一が言ってたのに」
「……それくらいしか、責任の取り方が分からないから」
寝不足の疲労が持ち前の投げやりさを助長して、つい本音を漏らしていた。
零一はなぜ、〝常夜〟に隕石を連れてきたのだろう。幸い怪我人はまだ出ていないが、罪の意識が消えたわけではない。ただ、この本音をエリカに告げたところで、何かが変わるわけでもない。このまま寝たふりを決め込もうと、零一が身体を丸めたときだった。
いきなり毛布を引っぺがされて、燦々たる月光が、全身に降り注いだのは。
「悪いと思ってるなら、目を覚ませばいいんだよ。〝現実〟で」
青い月影の逆光で、エリカの表情は影に塗り潰されている。けれど間近に寄せられた表情は、零一にはよく見えていた。エリカはしばらくのあいだ黙ってから、ふっと快活に笑った。
「ねえ、どうして眠れないのか教えてよ。零一、ずっと寝不足でしょ?」
「……覚えてないけど、たぶん俺は、現実でもあんまり眠れてなかったんだ」
毛布を剝ぎ取られた零一は、渋々とソファから上体を起こした。エリカはソファの背に回って腰かけると、「そっか」と簡素な相槌を打つ。零一が失った記憶について訊かれるとばかり思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。
「歌ってあげようか?」
「は?」
零一は、ぽかんとエリカを見上げた。エリカは
「歌ってあげようか、って言ってるの。零一が、ちゃんと眠れるように」
「……聞いてやってもいいけど」
なんとなく居心地が悪くなって、零一も目を逸らす。
しかし、零一の
エリカが選んだ歌は、よくラジオで流れるあの曲だと思われた。だが、本当に同じ曲なのだろうかと疑いたくなるほどに、音程は調子外れで、歌詞も明らかに改変している。とても音楽に命を捧げた人間の歌声とは思えなかった。
「おい、からかってるのか? お前がそんなに下手くそなわけないだろ」
「だって零一、聞いてやってもいいけど、なんて格好つけた言い方したじゃない。そんな生意気な大学生に、この歌は歌ってあげませーん」
「あのなぁ、こんな歌声を聞かされて、眠れるわけないだろ」
文句を言っている間にも、雑な歌の曲調が変化した。もはや原曲の面影がない即興のオリジナル曲のリズムが弾み、「よう青年、大学生活は楽しいかい? 雰囲気イケメン、中身は残念、
「
深夜にうるさく騒いでも、文句を言う隣人は存在しない。ひとしきり互いを
――『悪いと思ってるなら、目を覚ませばいいんだよ。〝現実〟で』
そう言ったときのエリカの顔が、妙に印象に残っていた。いつだって勝気そうに笑っていたはずのエリカの顔が、そのときだけは笑っていなかった。
あのときも、エリカは笑っていなかった。
――『モンスターが出たんだよ』
真顔でそう告げられたとき、零一も初めてモンスターを目撃した。
マンションの窓から見下ろした〝常夜〟の風景の一角に、頭上の夜闇から染み出したような黒い霧が立ち込めていた。
途端に、瘴気が蜘蛛の子を散らすように霧散する。後には、往来にぐったりと倒れる〝常夜〟の住人だけが残された。そんな決着を皮切りに、近くの建物に潜んでいた住人たちが続々と表に現れて、倒れた住人を介抱し始めた。
遠目に見守る零一には、何が起きたのか分からなかった。だが、さっき誰かが瘴気に向かって突き出した物が、どうやらラジオらしいことは理解できた。
『良かった……喰われずに済んだ』
エリカは、唇を噛んでいた。言葉は安堵を示していたが、ひどく悔しげな声だった。零一は声をかけあぐねてしまい、とにかくマンションを飛び出すと、いまさら向かっても何もできないと知りながら、倒れた住人の安否確認に向かった。
そして、驚愕することになる。
黒い瘴気が
退廃が急激に進行した建物のそばで、何人かの住人たちに気遣われながら立ち上がった人物の顔を、零一は知っていた。付近には見覚えのある
顔色が悪いその人物と、零一は一言二言、言葉を交わした。そうしてすぐにエリカの部屋に帰ってくると、事の
『初めまして、って言われた。……大将は、俺のことを覚えてなかった』
『身体は取られずに済んだけど、記憶は少しだけ喰われちゃったんだね』
エリカは、寂しげに微笑んだ。今にして思えば最初から、この展開を覚悟していたのだろう。零一は、俯いた。
襲われた人物と、深く会話を交わしたわけではない。だが、〝常夜〟に来たばかりの零一に、温かい料理を振る舞ってくれた。優しい人柄は知っている。
『理不尽だ。あの人が、何をしたって言うんだ……』
『さあね。でも理不尽って、そういうものでしょ?』
エリカの言い方には、突き放すような冷淡さがあった。かっとなった零一は顔を跳ね上げたが、エリカの笑みに自虐の色が見えた気がして、飛び出しかけた文句は言葉にする前に立ち消える。代わりに、別の台詞を絞り出した。
『モンスターって、何なんだ?』
『前にも言った通りだよ。〝常夜〟に時々現れる怪物。あの怪物に何もかも持っていかれると、あたしたちは〝現実〟に帰れなくなる。でも、零一。大丈夫だよ』
エリカは、はっきりと言った。『よせよ、気休めなんか』と吐き捨てると、『気休めなんか言わないよ』と、しっかりとした声が返ってくる。
『今日の騒動で記憶を喰われた人も、きっとこれから思い出すよ。〝現実〟で受けた痛みを忘れたくても、なけなしの思い出を〝常夜〟のモンスターに喰われても。それでも、諦めきれていないんだから。諦めたくないんだから』
ラジオからまだ流れ続けた音楽が、夜色の空間に染み入っていく。諦めたくないというエリカの言葉が、水面に投じた石のように、零一の意識に消えない
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