1-6 諦めたくない

「今日も、同じ時間だね」

 窓辺に並んで立ったエリカが、猫の形をした卓上時計を見て言った。

 小さな長針と短針が示した時刻は、確かに昨夜と寸分違わず一致する。今日も部屋を満たした青い月明かりに、紅蓮ぐれんの尾を引いた橙の閃光が入り混じった。チューリップの傘を被ったペンダントライトが振動を受けて震えた以外は、この部屋に与えられた影響は何もない。隕石が降り注いでいるにもかかわらず、〝常夜とこよ〟は恐ろしく静かだった。

「十時四十七分……この時刻に、零一は何か意味があると思う?」

 そう訊ねてきたエリカは、零一の顔を見ようとしない。太陽の代わりに夜空を彩る輝きを、じっと目を逸らさずに見つめている。零一も、エリカにならって夜空を見上げた。問いかけには答えられなかった。

 やがて流れ星は数を減らしていき、燃え落ちた線香花火のような哀愁が、作り物のような月だけが浮かぶ夜空に寒々しく残る。エリカは、両腕を天井に向けて伸びをした。寝間着の白いロングブラウスの裾が、腕に引っ張られて持ち上がる。

「終わったね」

「ああ」

 零一は窓辺から離れると、ソファの背もたれに掛けていた毛布を広げ始めた。背後で嘆息したエリカが、寝室に去っていく足音が聞こえる。

「おやすみ。零一」

「……おやすみ」

 ぱたん、と扉が閉ざされると、静寂がすごみを増した気がした。起きていたら余計なことばかり考えてしまいそうで、零一は寝支度をことさら急ぎ、寝間着用に調達したジャージの上に、普段着のコートを羽織る。薄い毛布一枚では、〝常夜〟の寒さをしのげない。

 数日を〝常夜〟で過ごすうちに、隕石の落下には規則性があることが判明した。

 流星群が空に現れるのは、決まって午後の十時四十七分。どんな時刻であれ闇色に染まる〝常夜〟の空は、毎日この時刻を迎えるときだけ、まばゆいオレンジ色に照らし出される。この天体ショーの発生に引け目を感じている零一は、かつて恐竜を絶滅に追い込んだ歴史の再現のような光景を見守ってから、毛布を引っ被って眠る日々を送っていた。

 ソファに身体を横たえてから、一時間はたったはずだ。瞼が重くなる気配はなく、今日も午前三時頃までこうして無為に時を過ごし、いつの間にか気を失うように眠りにつくのだと思っていた。

「眠れないの?」

 だから、毛布の上から声が優しく落とされたとき、その足音を聞き分けていた零一は、特に驚きはしなかった。「別に」と適当な返事をして、毛布から顔を出さないまま、狭いソファで寝返りを打つ。

「エリカこそ、早く寝ろよ。今が何時だと思ってるんだ」

「二時半。ねえ、どうして起きてるの? 隕石が落ちるのを見届けてから、すぐに寝たのかと思ってた」

「別にいいだろ。理由なんか、どうだって」

「さては、シャワー中のあたしを覗いてたな? それでどきどきしちゃったんだ?」

「アホか。さっさと寝ろ」

「モンスターが、怖くなった?」

 違う。だが、違わない。返事を迷っているうちに、小さな溜息が聞こえてきた。

「そもそも、どうして隕石を見守ってから寝てるの? 楽しい光景じゃないって、零一が言ってたのに」

「……それくらいしか、責任の取り方が分からないから」

 寝不足の疲労が持ち前の投げやりさを助長して、つい本音を漏らしていた。

 零一はなぜ、〝常夜〟に隕石を連れてきたのだろう。幸い怪我人はまだ出ていないが、罪の意識が消えたわけではない。ただ、この本音をエリカに告げたところで、何かが変わるわけでもない。このまま寝たふりを決め込もうと、零一が身体を丸めたときだった。

 いきなり毛布を引っぺがされて、燦々たる月光が、全身に降り注いだのは。

「悪いと思ってるなら、目を覚ませばいいんだよ。〝現実〟で」

 青い月影の逆光で、エリカの表情は影に塗り潰されている。けれど間近に寄せられた表情は、零一にはよく見えていた。エリカはしばらくのあいだ黙ってから、ふっと快活に笑った。

「ねえ、どうして眠れないのか教えてよ。零一、ずっと寝不足でしょ?」

「……覚えてないけど、たぶん俺は、現実でもあんまり眠れてなかったんだ」

 毛布を剝ぎ取られた零一は、渋々とソファから上体を起こした。エリカはソファの背に回って腰かけると、「そっか」と簡素な相槌を打つ。零一が失った記憶について訊かれるとばかり思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。

「歌ってあげようか?」

「は?」

 零一は、ぽかんとエリカを見上げた。エリカは奇抜きばつな色彩の長い髪を耳にかけて笑っていたが、零一と目が合うと視線を窓へ逃がした。満ち欠けの変化をまるで見せない丸い月が、この狭い世界にしか居場所がない二人を見下ろしている。

「歌ってあげようか、って言ってるの。零一が、ちゃんと眠れるように」

「……聞いてやってもいいけど」

 なんとなく居心地が悪くなって、零一も目を逸らす。傲慢ごうまんなこの台詞せりふを了承と受け取ったのか、エリカが深く息を吸い込んだ気配が、すぐそばから伝わってきた。

 しかし、零一の耳朶じだを打った旋律は――予想していた伸びやかさとは、あまりにかけ離れたものだった。

 エリカが選んだ歌は、よくラジオで流れるあの曲だと思われた。だが、本当に同じ曲なのだろうかと疑いたくなるほどに、音程は調子外れで、歌詞も明らかに改変している。とても音楽に命を捧げた人間の歌声とは思えなかった。

「おい、からかってるのか? お前がそんなに下手くそなわけないだろ」

「だって零一、聞いてやってもいいけど、なんて格好つけた言い方したじゃない。そんな生意気な大学生に、この歌は歌ってあげませーん」

「あのなぁ、こんな歌声を聞かされて、眠れるわけないだろ」

 文句を言っている間にも、雑な歌の曲調が変化した。もはや原曲の面影がない即興のオリジナル曲のリズムが弾み、「よう青年、大学生活は楽しいかい? 雰囲気イケメン、中身は残念、寝坊助ねぼすけ零一、代返だいへんは週一」と酷いラップが始まった。

いんを踏みながら、俺の悪口を言うなよ……」

 深夜にうるさく騒いでも、文句を言う隣人は存在しない。ひとしきり互いをけなし合って息をつくと、反論にも体力が必要なのか、自然と瞼が重くなった。おちゃらけた歌を気が済むまで披露したエリカは「おやすみー」とへらへら笑って言い残し、隣の部屋へ去っていった。久しぶりに心地良い眠気に襲われながら、零一はうつらうつら回想する。

 ――『悪いと思ってるなら、目を覚ませばいいんだよ。〝現実〟で』

 そう言ったときのエリカの顔が、妙に印象に残っていた。いつだって勝気そうに笑っていたはずのエリカの顔が、そのときだけは笑っていなかった。

 あのときも、エリカは笑っていなかった。

 ――『モンスターが出たんだよ』

 真顔でそう告げられたとき、零一も初めてモンスターを目撃した。

 マンションの窓から見下ろした〝常夜〟の風景の一角に、頭上の夜闇から染み出したような黒い霧が立ち込めていた。禍々まがまがしい瘴気しょうきに包まれた建物から、小さな人影がまろび出る。逃げ出した〝常夜〟の住人を、瘴気は執拗しつように追いかけた。すると、近くの建物から誰かが果敢かかんにも飛び出して、何かを瘴気に向かって突き出した。

 途端に、瘴気が蜘蛛の子を散らすように霧散する。後には、往来にぐったりと倒れる〝常夜〟の住人だけが残された。そんな決着を皮切りに、近くの建物に潜んでいた住人たちが続々と表に現れて、倒れた住人を介抱し始めた。

 遠目に見守る零一には、何が起きたのか分からなかった。だが、さっき誰かが瘴気に向かって突き出した物が、どうやらラジオらしいことは理解できた。

『良かった……喰われずに済んだ』

 エリカは、唇を噛んでいた。言葉は安堵を示していたが、ひどく悔しげな声だった。零一は声をかけあぐねてしまい、とにかくマンションを飛び出すと、いまさら向かっても何もできないと知りながら、倒れた住人の安否確認に向かった。

 そして、驚愕することになる。

 黒い瘴気がわだかまっていた建物は、酸でも掛けたかのように溶け崩れていたのだ。

 退廃が急激に進行した建物のそばで、何人かの住人たちに気遣われながら立ち上がった人物の顔を、零一は知っていた。付近には見覚えのある提灯ちょうちんがついた軽トラックも停まっていたので、見間違いはあり得ない。

 顔色が悪いその人物と、零一は一言二言、言葉を交わした。そうしてすぐにエリカの部屋に帰ってくると、事の顛末てんまつをぽつりと告げた。

『初めまして、って言われた。……大将は、俺のことを覚えてなかった』

『身体は取られずに済んだけど、記憶は少しだけ喰われちゃったんだね』

 エリカは、寂しげに微笑んだ。今にして思えば最初から、この展開を覚悟していたのだろう。零一は、俯いた。

 襲われた人物と、深く会話を交わしたわけではない。だが、〝常夜〟に来たばかりの零一に、温かい料理を振る舞ってくれた。優しい人柄は知っている。

『理不尽だ。あの人が、何をしたって言うんだ……』

『さあね。でも理不尽って、そういうものでしょ?』

 エリカの言い方には、突き放すような冷淡さがあった。かっとなった零一は顔を跳ね上げたが、エリカの笑みに自虐の色が見えた気がして、飛び出しかけた文句は言葉にする前に立ち消える。代わりに、別の台詞を絞り出した。

『モンスターって、何なんだ?』

『前にも言った通りだよ。〝常夜〟に時々現れる怪物。あの怪物に何もかも持っていかれると、あたしたちは〝現実〟に帰れなくなる。でも、零一。大丈夫だよ』

 エリカは、はっきりと言った。『よせよ、気休めなんか』と吐き捨てると、『気休めなんか言わないよ』と、しっかりとした声が返ってくる。

『今日の騒動で記憶を喰われた人も、きっとこれから思い出すよ。〝現実〟で受けた痛みを忘れたくても、なけなしの思い出を〝常夜〟のモンスターに喰われても。それでも、諦めきれていないんだから。諦めたくないんだから』

 ラジオからまだ流れ続けた音楽が、夜色の空間に染み入っていく。諦めたくないというエリカの言葉が、水面に投じた石のように、零一の意識に消えない波紋はもんを拡げていた。

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