1-8 常夜に咲く花

 他の客と入れ代わるように屋台を出ると、汗ばんだ身体を夜風が爽やかに撫でていった。防寒具が手放せない〝常夜とこよ〟でも、こんな夜には気候に心地良さを感じる。

「エリカ、〝常夜〟に四季ってあるのか?」

 ふと思い立って訊ねると、「あるよー」とエリカは夜空に向かって両腕を伸ばしながら返事をした。頭上では満月が、青く照り輝いている。

「〝常夜〟は〝現実〟がベースになってるからかな。季節は巡るし、今は目立つ所には見当たらないけど、花だって咲くんだよ」

「花?」

「不思議でしょ? 太陽の光なんて、〝常夜〟では浴びられないのにね」

「そういえば、〝常夜〟で植物を全然見ないな」

 零一は、ビル群に囲まれた廃駅前を見渡した。今にも朽ちかけた街路樹なら見つけられたが、芝生すら見当たらない街には、大地の生命力が感じられない。先を歩いていたエリカが立ち止まり、零一を振り返って笑った。何かを諦めているような笑みだった。

「きっと〝常夜〟は土が悪いんだろうね。種をいても芽が出ないし、育たない。肥料もないし、栄養が足りないんだ。あたしたちにも物資が足りていないから、与えてあげたくても、与えられない」

 その台詞せりふに、零一はどきりとした。何気ない言葉のはずなのに、本質的なことを言われた気がした。

「でも、花は咲くんだろ? 荒野みたいな〝常夜〟だからこそ、咲く花だって、きっと……」

 まるで導かれるように、言葉がするすると滑り出た。

 だが、最後まで言葉にすることは叶わなかった。

 鈍い頭痛に襲われて、目の前が一瞬白く霞む。写真のネガを寸断したような記憶のワンシーンが蘇り、突然にピンク色の花が視界いっぱいに拡がった。一つ一つがほうきに似た形をした小ぶりの花は、中心の色が黒かった。孤独をいとうように寄り集まって咲く花たちは、「零一?」とエリカが声をかけてきたときに、視界から霧のように消え去った。

 ここは、〝常夜〟の帰り道。ピンク色の花なんて、舗道のどこにも咲いていない。

「大丈夫? 顔色が悪いよ」

「今……何か……思い出しかけて……」

 脂汗がこめかみに伝い、零一はその場に膝をつく。しゃがみ込む瞬間に刹那見えたエリカの顔が、思い詰めたように青白い。心配させてしまったのだ。零一は深呼吸してから頭を振って、立ち上がった。

「……大丈夫だ。それより、エリカに訊きたいことがある」

「え、何?」

 そう訊き返したエリカの顔に、ぎこちない笑みが貼りついた。奇妙なリアクションだった。不気味なものを目の当たりにしたような表情をさせるほどに、今の零一の顔色は悪いのだろうか。ともかく、零一は質問した。

「いつもラジオで流れる、あの曲。曲名を教えてくれ」

 エリカが、目をしばたいた。突拍子のない質問を受けて、困惑しているのがよく分かる。

「どうしたの、突然。今まで曲名なんて、一度も気にしてなかったじゃん」

「そうだけど、なんとなく……今までに〝常夜〟を散策してみても、記憶を取り戻す手掛かりは、一つも見つけられなかった。そう思ったときに、気づいたんだ。……モンスターに対抗できるあの曲について、俺は曲名すら知らないって」

 零一自身、最初はエリカにこんな質問をする気はなかった。エリカと大将の何気ない会話で、ラジオ局の存在を思い出すまでは。

「大将の屋台の提灯ちょうちんが光らなくなった理由が、奪われた記憶と関係してるなら。俺だって〝現実〟の記憶と結びついている何かが、〝常夜〟にあるかもしれないだろ」

 零一は、コートの前を合わせた。先ほどのフラッシュバックが連れてきた悪寒の所為で、せっかくラーメンで温まった身体が冷えてしまった。無意味に頭髪に手を添えてから、ぼそりと言う。

「……知りたいんだ」

 言葉にしてから、自覚した。零一は今、〝常夜〟で初めて自発的に動いたのかもしれない。記憶を失くしてからの零一は、誰かの親切を受け取って、ここまで生きながらえてきた。自らの足で行動を起こそうとした瞬間は、たぶん今が最初なのだ。モンスターの犠牲者が出たことも、零一の鈍すぎる危機感に火をつけたのかもしれない。かといって、零一には何をすべきか分からない。

 ならば、せめて。今はまだ知らないことを、一つでも多く知りたかった。

 しかし、望む答えは得られなかった。

 零一の話を神妙な顔で聞いていたエリカが、へらっと笑って答えたからだ。

「……なんだろうね? あたしも知らないや」

「……はあ? 嘘だろ?」

 愕然とした零一は、まじまじとエリカを凝視する。エリカは、笑みを変えなかった。団子頭に手を伸ばし、髪をまとめた細長いリボンを引いて、歩き出す。解き放たれたアッシュグレーの長い髪が、明らかな隠し事をした華奢な背中に流れていく。

「だって、曲名を意識したことなかったし。あたしに訊かれても分かんないよ」

「おい、しらばっくれるな。隠してるだろ」

「隠してなんかないよ。あたしも知らないって言ってるじゃん」

 駆け出してエリカの隣に並んだが、ぷいと顔を背けられた。よもやこんな反応をされるとは思いもしなかった零一は、苛立ちと困惑がないまぜになった気持ちを持て余しながら「いいや、お前は絶対、隠してる」と反論した。

「そもそも、ラジオで曲が流れるときに、曲名を紹介されてるはずだ」

 そう言い切ってから、はっとした。――ラジオで告げられているはずの曲名を、まるで思い出せないことに気づいたからだ。こんな体たらくでは、エリカのことを非難できない。

〝現実〟の記憶の欠けは、まだ納得できる。だが、〝常夜〟の記憶にも欠けが生じているのは、なぜなのだ。胸騒ぎを感じたが、零一は無理やり笑った。

 ――やっと、一つ目の手掛かりを見つけられた。

「まさか、あの曲は……俺の〝現実〟の記憶と、何か関係があるのか? だから〝常夜〟でも簡単には曲名を知ることができないって理屈なら、筋は通る……」

「そんなことより、帰ろうよ。零一、今日は早く寝たほうがいいよ」

 思索を深めていく零一に、エリカがしきりに声をかけてくる。よほど零一を早く家に帰したいようだ。

「いや、まだ時計では二十時くらいだろ。確かめたいことがある」

 零一は、エリカを見下ろした。

 そして、今夜二つ目の新しい決断をしたのだった。

「エリカ。俺を、ラジオ局に連れていってくれ」

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