生体認証

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 またパスワードがハッキングされたらしい。これで3回目だ。いろいろなサイトで同じパスワードを使っているので、俺は慌ててパスワードを変更した。これで一安心。俺は考えていた。毎回毎回変更するのも大変だ。もっとセキュリティの高い方法は無いだろうか。絶対にやぶられない方法が。

 ネットを調べるうちに、指紋認証などの生体認証のセキュリティレベルが高いことを知った。生体認証は最新技術だ。俺は重要な取引の認証を指紋認証に変更した。銀行なんかだ。使ってみると、その便利さに感心した。なにせ、パスワードのように暗記する事も、変更する事も不要だ。というか変更は出来ない。これでハッキングされる可能性は飛躍的に下がったはずだ。むしろ、何故こんな簡単な変更をもっと早くしなかったのか反省した。


 その後、しばらくは平穏に時が流れて行った。パスワードの呪縛から解放された俺は快適な日々を過ごしていた。何をするにも「指一本」だ。しかし、ある日、指紋がハッキングされ、俺の銀行口座から、大金(俺としては)が引き出された。銀行によると「指紋を工作した成りすまし」らしい。対策を考えているうちに、今度は通販サイトで大量の物品購入がなされた。調べていくと、どうやら俺の「指紋データ」が広く流出しているようだった。ご存知の通り、指紋認証は写真的に照合するのではなく、複数の特徴をパターンデータ化してそれらが一致するかどうかを判定する。だから、一旦データ化したら、それはコンパクトな可搬性のあるファイルとなり誰でも簡単に扱える。

 流出した指紋データは、ハッカーにとってはパスワードよりおいしい。なぜなら指紋は変更できないから、俺が死ぬまで利用価値がある。パスワードの場合は苦労して盗んでも、変更されたら水の泡となってしまう。とりあえず俺は全ての指紋認証を停止した。登録している右手の代わりに、左手の指を登録して使ってもいいが、店頭で店員の前で右手の人差し指を見せながら認証する事もあるので、別の指は使えない。銀行や信販会社の窓口などだ。

 困って、ネットでいろいろ調べていると、手術で指紋を変更できる事を発見した。犯罪の隠蔽に繋がるので、あまり公にはなっていない情報だが、今回の俺のように指紋データが流出した被害者である場合は手術を受けることができる。俺はハッキングされた指の手術を行った。右手と左手の人差し指を付け替えるのだ。第一関節から先を交換する。聞いたときにはぞっとしたが、今こうして終わってみると、指の機能には全く問題もなく、手術の跡も良く見ないと分からないくらいだ。医学の進歩に感謝しよう。


 こうして安泰な日々が過ぎて行ったが、恐れた事が起きた。またもやハッキングされ、指紋データが流出したのだ。考えてみれば当たり前かもしれない。一度盗まれたのだから、二度目もあり得る。相当に運が悪いのかもしれない。指紋認証は広く行われているから、俺に限らず誰もがあちこちで頻繁に使っている。その都度、指紋データは機器内で照合に使われる。悪意があれば盗む事もできるだろう。


 再びネットで指紋認証以外の方法を色々と調べるうちに、「網膜認証」の存在を知った。指紋認証よりもさらに高度な技術で、もちろんセキュリティレベルは最高だ。おれは飛びついた。しっかりした認証機構に手応えを感じていた。これはそうそうにハッキングされることはないだろう。網膜パターンは指紋に比べれば遥かに複雑だ。こう思いつつ、頭の片隅には少しだけ生体認証に対する疑問が芽生え始めていたが、「最高度の技術」「1京通り以上のパターンは考えられる最高度のセキュリティ」などのうたい文句は、俺の警戒心をどこかに押しやるのに十分だった。


 月日と共に、俺は過去にパスワードや手術でいろいろと苦労した事などすっかり忘れていた。安心と利便性を手に入れ、快適な日常を送っている。網膜認証に感謝しよう。しかし、世の中はそんなに甘くなかった。それは忘れた頃にやってくる。俺の網膜データが流出したのだ。俺は使っている網膜認証を全て停止した。これで一安心だがどうしたものか。パスワード認証に戻す気は無い。一度生体認証の便利さを知ってしまった者はなかなか後戻りなど出来ない。パスワードの管理や定期的な変更は実に煩わしく、願い下げだ。


 俺は困り果てて、ITセキュリティの専門家を尋ねた。専門家はいとも簡単に言った。

「ああ、左右の眼球を交換する手術で解決できます。これも手の指先の時と同じく、相応の理由があれば許可されます」

 数日後、俺は再び手術室で横になっていた。頭上の照明が眩しい。これから左右の眼球交換手術を受けるのだ。麻酔で消え行く意識の中で俺はふと思った。

「ああ、パスワードが懐かしい・・・・・・ ちょっと危なっかしかったけど、変更は簡単だったもんな・・・・・・」

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