終章
1 闇に蠢くもの-1
野島が事務所に戻るころ、亜里沙は『HGファンド』の役員を調べあげていた。
「所長、土屋さん達の行方と『HGファンド』がどう繋がって行くのかしら?」
「実は、吉澤議長と話し合った上で出した結論なんだ」
野島は、吉澤と会って感じた印象をすべて話した。亜里沙の意見も聞きたかった。
「私も議長の話は信じていいと思うわ。でも、どうやって、実行犯をあぶり出すかが
問題だと思うな」
「俺もそう考えていたところだよ。とりあえず資料を見せてくれるか・・・。」
『日本生化学工業』の役員構成は、代表取締役1名と、他の取締役5名、監査役1名の7名であった。
「亜里沙、M&Aされたのが3年前の5月のことだから、その当時の新任の取締役を調べれば早いと思うが・・・」
「そうね。そうすると、監査役は別として、この4名という事になるわ」
「分かった。時間もかかることだし、一人にターゲットを絞ることにするよ。代表取締役が自ら指示を出すとは考えられないから、この専務取締役の鮎川雄介が匂うな」
野島が気が付くと、午後9時をすでに過ぎている。
「亜里沙、明日に備えて美味い飯でも食いに行こう!」
「OK! 耕介、どこに行く?」
「久しぶりに、『你好』にするかな!」 野島は、亜里沙に自分の含み笑いを悟られないように目線を外した。
外に出ると、雨は降っていない。野島は、今度は軽い足取りで歩き始めていた。
*
翌日の早朝から『ジュリエッタ』を駐車場から引き出すと、野島は大手町1丁目にある『日本生化学工業』の本社ビルを目指した。丸の内新センタービルの6階フロアーすべてを占有としていた。業績の好調が伺える。
「鮎川専務をお願いしたい」野島は、きわめてぶっきら棒に受付嬢に言った。
「お約束でしょうか?」受付嬢の常套句的な問いである。
「約束も何も、すぐ鮎川さんを呼んでくれ! 横浜から来た者だと言えば分かる」
受付嬢には、何の罪もないのだ。これには、心の中で謝るしかない。
連絡を受けた鮎川が慌てて受付まで飛んでくると、野島を無理やり商談室に引き入れた。大きな窓ガラスからは、皇居前広場が見渡せる。
「どういうことなんですか? 会社までは来てくれるなと、組長には伝えてあるはずですよ。・・それよりあなたは?」見慣れない野島の顔を覗き込みながら言った。
鮎川は、40歳後半の背丈のある神経質そうな人物である。
「組長から聞いていませんか? 副若頭の野島です」
「野島さん?・・・、それより、用事が何なのか言って下さい。時間がない」
「それが、日之出町署の菅原が、依頼したにも関わらず例の探偵事務所の扱いに失敗しましてね。そこで、どうしたものかと、ご意見を聞きに来たわけで・・」
野島は、あてずっぽうではあるが、カマを掛けた事になる。
「我々には、それを判断することは出来ない相談ですよ。このことは、組長に強く言ってあるはずです」
「それは、どういうことですか? 私は、組長からは直接聞いてないのでね」
「そんなことは、考えてみれば分かることです。我々は、会社を経営し利益を上げることだけを『HGファンド』から求められている。これは、命のかかった至上命令と言ってもいい。この過程で表面化した会社の経営活動にとって邪魔な者の排除があなた達の役割という事です。あくまで、会社の求めていることが何なのかをくみ取って、すぐに実行して欲しいのです。その意味は、我が社が共謀正犯の疑いのリスクを追わないという事に尽きる。その為に高い金を払っているんです。相田組長には、再度組員に強く言ってもらいたい」
鮎川は一気に話すと、その場を離れようとした。
「鮎川専務、ちょっと待ってもらえますか? 改めて、私はこういう者です」 野島は、名刺を鮎川に手渡した。
「・・・?、 みなと探偵事務所の野島・・・とは、どういう事なんですか?」
鮎川の顔が、驚愕に歪んでいる。
「あなたは、私を騙したのですね!」鮎川が、強く抗議をする。
「騙したなんて人聞きの悪い。専務の方が会社の実態を偽って、市民を欺いている。
こっちの方が、よっぽど問題だと思いませんか?」と野島が問うた。
「あなたは、何が目的なんだ? この間のゴシップ屋と同じ穴のムジナか!」
「理解が早いんですね。 でも、彼と同じ金額では納得がいきませんね。俺は、ゴシップ屋がどうなったか知っているんですよ」
野島は、またもや鮎川にカマを掛けた。
「どういう意味で言ってるんだ? 野島さん。私は、丁寧に説明して手を引いてもらえとしか、彼らには言っていない」
「そんな話を、警察が信用するとでも・・・」
「ああ、信用してもらってますよ。そのために、我が社が日頃からどれほど、便宜を払ってやっていることか・・・、それもすべて織り込み済みのことです」
「菅原を含めて、日之出町署を丸ごと買収したとでも? やりそうなことだな」
野島は、鮎川の話のながれから、『日本生化学工業』と菅原が癒着した決定的な証言を得ることが出来た。それに気付いた鮎川の顔が蒼ざめ始めている。
「野島さん、分かった。ゴシップ屋の二倍は、出せると思う。社長と相談が必要だが・・・」
「期待してますよ、鮎川さん」
「どこで渡せばいいんだ」 鮎川の顔色が少し戻り、余裕を見せた。
「私の事務所でお願いしますよ。7時ちょうどにね」
「分かった。代わりの者が行くことになる・・・」
「良いでしょう。俺も聞きたいことがあるんだ」
2 闇に蠢くもの-2
野島は、神田橋ICから都心環状線に乗ると石川町にある事務所を目指した。1時間と掛からない距離である。
事務所に戻ると、亜里沙が新しいクライアントと浮気調査の打ち合わせであった。
「所長、お帰りなさい」
「ああ、そちらのお客様と打ち合わせが終わった後で良いから・・・」
「はい、承知しました」亜里沙は、客の前では儀礼的なのだ。
野島の脳裏には、相田組長という言葉の響きが残っていた。忘れるはずもない。
「古畑巡査部長、調べてもらいたいことがある。時間は、大丈夫かな?」
「ええ、部長、大きな事件が片付いたばかりで時間はありますので・・・」
「そうか良かった、・・・今回の土屋さんの失踪は、『HGファンド』が絡んでいることが分かった。『日本生化学』の不正な癒着を掴んだことにあるらしい」
「部長、もうそこまで・・・」
「ああ、しかし実行役は、『相田組長』と呼ばれる人物でね、どこの組の者であるか
調べて欲しいんだ。東京の可能性もある。横浜での手先は、日之出町署の菅原であることが、はっきりしたんだ。菅原の動向にも注意して欲しい」
「部長、了解しました。充分気を付けてください。追って、連絡を入れますので・・」
「ありがとう、古畑君・・・」
野島は、クライアントが帰った後、亜里沙と入念な打ち合わせをした。
「今夜、相田組長がここに来るのは確実だと思う。亜里沙は、早めに『コンチネンタルホテル』の方で身を隠していてくれないか? 本城総支配人には、私から説明しておくから・・・。ここは、古畑巡査部長と二人で何とかなるよ」
「耕介、亜里沙が嫌だと言ったら、どうするの?」
「亜里沙、俺を困らせないでくれ。もう、調査は終わってると言っていい。亜里沙は、十分働いてくれたよ。感謝しかない。ここからは、俺の気のすむようにさせてくれないかな・・・。ここで、目を瞑る訳にはいかない。信じてくれた人達への
報告義務があるんだ」
「耕介は、やっぱり、『野島耕介』なんだね」
「亜里沙、俺には意味が良く分からないが・・・」
「絶対、人を裏切らないってことよ!」
「ふ~ん、そういうもんか・・。あっ、そうだ亜里沙。部屋番号が分かったら確実に俺の携帯に入れておいてくれ!」
「了解です!」
*
亜里沙がホテルに向かった後、すぐに古畑から連絡が入った。
「部長、『相田組』という団体は、確かに六本木の西麻布に稲庭会の三次団体として
事務所がありましたね。代表は、相田寛治という人物です」
「やはり、東京に事務所がある反社組織だったという訳だな」
「ええ、ですが、3年程前に、事務所を引き払っているのです」
「それは、信じられないな。鮎川専務がこの団体を利用しているのは確かだからな」
「これは、東京都の暴排条例の改正の影響が大きいのかも知れません。現に構成員の数が減っているらしいですから・・・」
「どういう形になるにしろ、相手の出方を見守るしかないな」
「分かりました。班としても対策を練りますので・・・」
3 第三の追尾者
今日に限って、時間の進みが遅く感じられる。3階の窓から見える外の景色もすでに闇の中に沈み、時折走る電車の明りだけが、線状に流れて行く。
壁の時計の針は、すでに7時32分を指している・・・。
その時、階段を上がる靴音が聞こえてくると、事務所のドアの前で止まった。
「コツコツ」と2回ほど、軽くドアを叩く音が聞こえた。
「どうぞ・・・」野島は、身構えながら返事をしたが、声は少し掠れていた。
「あなたが、追尾者の野島さんですか?」現れた男は、初老とも言える年齢であるが、眼光の鋭さを残している。
「私のことを、追尾者と言いましたか?」 野島は、理解出来ないでいた。
「そうですよ。野島さんは、警察も把握していない私たちの存在を知る事になったのですから、あなたこそ、真の追尾者と言っていい」男は、言い切った。
「ところで、あなたが相田寛治さんでよろしいのですか?」
「なぜ、私の名前を・・・、並みの探偵さんでは、ないようだ」
「相田さんは、鮎川専務の使いの者という事で・・・」
「ええ、そういうことです」
「相田さん、男同士です。本音で話しませんか?」 野島は、先を急いだ。
「私も東京から来ていまして、階下に人を待たせている。話は早い方が良い」
「相田さん、まずあなたの素性から話してもらえますか・・・」
「私は、現在NPO法人適正医薬品振興会の代表をしています。これは、3年前からですが・・・」
「どういうことですか? あなたから、最も遠い仕事のように思えますが・・・」
「野島さん、私は本来、あなたの想像通り堅気ではありませんよ。NPOは、隠れ蓑だったと言っていい。特に暴排条例の改正があってからは、構成員が減る一方でね。まともに、この仕事を子供に継がせたいなどと思う組員はいないはずですからね。 NPO活動をしていると聞けば、世間の見る目も違って来ますから・・・」 相田は、実情を話した。
「では、鮎川からは何と言われてきたのですか?」野島の知りたい事であった。
「彼の命令は簡潔です。目障りだから排除してくれ、これだけですよ」
「私が排除される前に、少し教えてもらいたいことがあるのですが・・・」
「それは、何ですか? 遠慮なさらず・・・、聞いて下さい」
「3年ほど前に起こった県議会議長吉澤秀昭さんの秘書、西島雄二さんと妻の三絵さんの失踪事件のことです。これに、相田さんは絡んでいたのですか?」
「そのことですか・・・。もちろん絡んでいないと言ったら嘘になる。しかし、実行犯は、私達でないと言っておきましょう」
「では、誰なんですか?」
「今、反社と言われる人間達は、世間の正業と言われる仕事につこうと努力しているのは事実なのです。私達のNPOも、当初の思惑から大きく形を変え、今では市民の役に立ちたいと思うようになったのです。それだけ私達も歳を取り、常識的な人間になって来たのかも知れません。
そこで、代わりを務めるのが『共生者』と呼ばれる人達なのです。
彼らは、表面的には、暴力団との関係を隠しながら、私達の情報力や資金を利用して
自分の利益だけを考えている連中です。半ぐれと呼ばれる人間達も含まれるかも知れません」
「具体的には・・・?」
「あなたも良く知っているでしょう。この港街で言えば、日之出町署の菅原が筆頭でしょうか・・・」
「なぜ、警察官の菅原が・・・」
「あなたも知っての通り、ヤクザと警察は表裏一体ですから」
「相田さん、あなたは、拉致の教唆を認めたことになりますが、それでも良いのですか?」野島は、念を押した。
「仕方ありません。実は私は、今までの自分自身を粛清するために、今日ここに来たのですから・・・」
「・・・と、いう事は?」 野島は、まだ相田の真意が掴めないでいた。
「自首をするという事ですよ。もう、奴らの考え方には、付いていけません。
ヤクザも極道と言われた時代がありましたが、義理人情を忘れることはなかった。奴らは、経済人の仮面を被った怪物に他なりません」
「そういうことだったのですか・・・、よく決心をされましたね」
野島は、相田の話が理解出来たのである。心打たれていた。
「・・・寂しい気もしますが・・・」相田は、思わず心情を吐露していた。
男としての心が通い合った瞬間であった。
「相田さん。あなたが、自首を選んだ理由が良く分かりました。ここで罪を償えばいくらでもやり直せますよ。人生は、まだまだ先まで続くのですから・・・」
「最後に聞きますが、最近のゴシップ・ライターの土屋秀樹さんの失踪も同じことなんですね?」野島は、改めて聞いた。
「・・・そうです。鮎川専務の意向を汲んだ私が、菅原に直接指示をしたのです」 相田は、真相を話した。
「最後に、私のわがままを聞いてくれますか・・・、」と、相田は言った。
「何ですか?」
「階下にいる連中を、見なかったことにしてくれますか? 彼らは、何のかかわりを持っていません。すべては、私の一存でしたことですから・・・」
「・・・、相田さん。・・・分かりました。信じましょう」
この時、男同士しか知りえない希望が生まれていた。
相田が、指示を出すと黒いセダンが静かに階下を離れて行った。
男二人だけの部屋に、静かな時間が流れて行く。
「相田さん、そろそろ良いですか・・・」
「ええ、・・・・。」
4 『共生者』との対決
野島は、『石川町パーク』で待機していた古畑巡査部長に連絡を入れる。
「相田さんが、教唆を認めてくれた。・・・あくまで拉致だ。殺人ではない」
数分もすると、階段を駆け上がる複数の足音が徐々に大きくなった。
そして、ドアが開かれると、古畑を筆頭に数人の私服警官が入って来た。 「相田さんですか? 任意同行を願います」古畑の声は静かだが、獲物を捕らえた確信を感じさせた。
野島は、相田に別れを告げるため、無言で会釈をした。
その時、野島の机の上に置かれた携帯が激しく振動をすると、着信を告げた。
相手は、日之出町署警ら課長佐々木からであった。
「野島くん、30分ほど前から、菅原の姿が見えないの…。もちろん車もないわ。
そちらに向かう可能性があると思うの。気を付けて!…。」
「佐々木課長、わざわざすみません。ありがとうございます」
野島には、思い当たることがあった。
「・・・、古畑。ここは任す。俺は、亜里沙を迎えに行って来る!」
「了解しました!」
古畑は、亜里沙に危険が迫りつつあることを認識したのであった。
不安が、野島の心を鷲づかみにした。
*
野島は、3階から一気に駆け下りると、『ジュリエッタ』の停まっている隣の駐車場を目指した。時間との勝負の可能性があったのだ。
普段とは違いエンジンが一発でかかった。少しは、運が残されている気がしてくる。
路上に躍り出た『ジュリエッタ』はUターンをすると、路上に白煙を残しながら、 みなとみらい地区に向かった。
車の中から、亜里沙の携帯にかけるが、呼び出し音だけが響いている。
「亜里沙! 出るんだ! すぐ、出ろ!」
海岸通りを横浜税関前で右折をすると、赤レンガ倉庫を右に見ながら国際大通りに入った。気は焦るが、前を走る車に行く手を阻まれ、思う車線を走ることが出来ない。コスモクロック21を左に見ながら、国際橋から一気にアクセルを吹かす。
赤信号に変わる間際、国際会議場前の交差点を右折することが出来た。
このまま、1Fにある『コンチネンタルホテル』玄関口に、『ジュリエッタ』を横付けする。10台ほど先に、パトカーの姿が確認できた。
ホテルマンが、驚いた表情を見せながら近づいて来る。
「野島だ! 急いでいる。 頼む!」 野島の投げたCar keyが宙を舞うと、ホテルマンの手の中に落ちて行った。
野島は、エレベーターに乗る前に、亜里沙のいる階数の確認をする。
メールには、【181*】号室のジュニアスイートでうれしいと書かれていた。
あのパトカーが、菅原でないことを祈りながら、乗り込んでいた。
18階で降りたが、変わった様子はなく、静かである。
杞憂に過ぎないと思いながら、部屋のドアをノックした。
「亜里沙、俺だ、野島だ・・・」きわめて声を押さえながら伝える。
ドアの鍵が内側から回された気配が、ドア越しに伝わって来た。
「亜里沙、俺だよ・・・」
かすかに開いたドアの隙間から、床に横たわった女の足が見えた。
間に合わなかったのだ。野島に絶望感が襲う。
「亜里沙、大丈夫か?」
野島の声が、亜里沙に届いたようである。しかし、後ろ手にしばられ、口には、
猿轡をかまされていた。亜里沙は、野島の姿を認識すると返事を返すように、頭が大きく揺れた。亜里沙に着衣の乱れはないようだ。
「野島! あれだけ警告したはずだ!」
野太い声が、野島の背中越しに聞こえて来た。振り返ると、制服のままの菅原の姿があった。
「菅原さん、何があったか?教えてください」 野島は、冷静であろうとした。
「俺は、もう終わりだよ・・・。それも、すべてお前たちのせいだよ。お前たちさえ、嗅ぎまわらなければ、こんな結末には、ならなかったはずだ・・・」
「遅かれ、早かれ、真相が明らかになったと思う。先ほど、相田組長が自首したからね・・・」野島は諭すように言った。
「何だって!組長が・・・」菅原は、肩を落とした。
「そうだ。組長自身も限界を感じていたんだ。今までの罪を認めたのだから」
「信じられない・・・。罪名は、何なんだ?」菅原が聞く。
「それは、裁判の結果次第だが・・、菅原さんの自供次第では、共同正犯の可能性もあるかも知れない」野島は、きわめて客観的な意見を言った。
「俺だけが、貧乏くじを引いたという事か・・・」
「菅原さん、何があったか全部話してもらえないか?」
「良いだろうよ。どうせお前たちも道ずれにするんだからな。日之出町署というのは、昔から街の成り立ちのせいで、やくざと警察が持ちつ持たれつの関係でね。当然そこには、はたから見れば癒着と思われても仕方がない土壌があったという事だ。東京に事務所を構える相田組が、横浜の出先機関として俺たちに目を付けたのも自然な事だ。独り身の上、俺には、博打で作った大きな借金があった。
それを綺麗に、肩代わりしてくれたんだ。借りも出来るってことだよ。
ところが、きょう突然『日本生化学工業』の鮎川専務から直接電話があって、面が割れた以上、今までの仕事も、これからの仕事もなかったことにしてくれと、一方的に通告があった。横浜の探偵事務所の野島という人間がやって来て、何かを掴んで帰って行ったからだと、言われたんだよ。俺は、警察を辞めても実入りの良いこの仕事をずっと続けるつもりでいたのにだ・・・。これで、俺があんたとその女を恨む理由が分かっただろうよ」
野島は、急に菅原が亜里沙を襲った理由を知る事となった。
「菅原さん、ゴシップ・ライターの土屋さんらしい人間が、大黒埠頭の釣り場から突き落とされたという目撃情報が寄せられたが、あの真相はどういうことなんだ」
「そもそも、あの目撃情報から、あんたたちが動くことになったのだったな。
釣り場から、突き落としたのは本当だよ。実行役は、横浜でたむろしている半ぐれ連中だよ。足が付かなければどんなことでもやる連中だ。しかし、俺は殺せとは言っていない。これは本当だ。翌日に、ホトケが上がってしまえばすぐ足が付くからな。
女の子に、見られていたのは、誤算だった。俺は、車のナンバーから女の子の現住所を割り出した。これは、警官なんだから、訳のない事だ。
女の子に警告をするつもりで、相田さんに相談したところ、たまたま『HGファンド』から、吉澤議長の秘書として送り込まれていたスパイの小西がその役を買って出てくれたという事だ」
「そのことは、想像出来たことだが、その後の土屋さんの行方は、どうなった?
3年前の西島夫妻の失踪にも、お前が関わっているはずだ。証言もある」
「それも同じことだ。最後に彼らがどうやって処理したかは俺にも分からないな」
「嘘を言うんじゃない! 菅原! 」
「今更、嘘を言っても始まらないからな」
「菅原さん、あなたみたいな人間を、初めて見た。警察官の風上にも置けない」
「ほざけ、野島!」
「分かった。菅原さん。あんたを信じよう。その前に、亜里沙の猿轡を取ってやっていいか? 息が出来なくて苦しそうだ・・・」
野島が、横たわっている亜里沙に近づき猿轡を外そうと屈みこんだ時、強烈な痛みが背中を襲った。菅原の特殊警棒が振り下ろされていたのである。
野島は、前のめりに亜里沙に寄りかかるように崩れて行った。息が出来ない。
「野島、俺の心の痛みが分かったか! まずは、お前の大事な女をやる」
「よすんだ! 菅原!・・・」野島はもがきながらも、警告をする。
菅原は、亜里沙を無理やり引き起こすと、白いシャツを乱暴に引き裂いた。
亜里沙は、悲鳴を上げるが、猿轡のせいか、声はくぐもったままである。
菅原の目が突然現れた亜里沙の白い隆起に引き付けられると、一瞬時間が止まったかのように菅原の動きが止まった。
間髪を入れず、亜里沙は床に無造作に置いてあったトートバッグを野島の方に蹴ると、運よく目の前で止まることになった。
すると、バッグ中から黒い棒状の物が転がり出て来たのである。それは、使い慣れた『MAG-LITE』であった。
野島は、とっさに握り絞めると振り向きざま菅原の顎をめがけて振り上げた。不意を食らい、顎を砕かれたような音が部屋中に響くと、菅原がもんどり打ち、後方に飛んでいた。
その音を聞きつけたかのように、5名の男達がなだれ込む。戸部署強行犯係の神崎をリーダーとする私服警察官達であった。
「部長、怪我の方は?」神崎が、野島に駆け寄ると聞いた。
「俺の方は、大丈夫だ。それより亜里沙の方を頼む・・・」野島は、背中をさすりながら言った。
「部長、・・・その黒い棒、どこかに仕舞ってもらえませんか? 見なかったことにしますので・・・」神崎は、野島が過剰防衛と捉えられることを恐れたのである。
「すまない、神崎君」
亜里沙は、縄が解かれると、自分で猿轡を外したが、しばらくは放心状態であった。警察官達の視線が、自分の胸に注がれている意味が分からない。
「亜里沙、これを着るんだ」野島が、自分の上着を脱ぐと肩にかけてあげる。
「あら、・・・」亜里沙は、自分の現状の姿に気が付くと小さな声を出した。
そして、続けて呟いた。「所長、…やさしい」
「神崎くん、俺がここにいることが、どうして分かったんだ?」野島が聞く。
「それはですね。加賀町署の古畑巡査部長からでして、GPSで部長のいる場所を特定したので、至急向かってくれという要請がありまして・・・、また、特異行方不明者として捜索願の出ている土屋さんを拉致した重要容疑者と一緒にいる可能性があるとの情報をもらいましたので・・・。この容疑者というのが日之出町署の菅原警部補だったとは・・・」
5 epilogue 冬の匂いの記憶
日之出町署の菅原は、暴行の現行犯容疑で逮捕されると、病院での治療の後、 戸部署で厳しく取り調べが行われた。怪我は思っていたよりも軽微であり、野島は正当防衛の範囲を越えていないとの判断を受けていた。
取り調べが進むと、逗子署から出されていた自称ライター土屋秀樹さんの拉致に深く関わっていた疑いが強まり、菅原は、身柄を逗子署に移され、全容解明のため
さらに厳しい取り調べが続いていた。また、新たに湘南連合に属する数名の人間に逮捕状が出た。
NPO法人代表相田寛治であるが、自首したとはいえ、菅原との関わり合いが深い事から、共同正犯として検察から訴追を受けていた。
しかし、本星である『日本生化学工業』専務である鮎川までは、捜査は遅々として進んでいない現状であった。ましてや、その上の『HGファンド』にはなおさらである。
*
年も押し迫った昼時、赤レンガ倉庫内のレストラン『bills』に渡邊亜里沙と、滝本美穂の姿があった。
「亜里沙さん、犯人が逮捕されたみたいですね。それも、亜里沙さんの大活躍で」
「そんなことは、ないけれど…、でも今回は、美穂さんの目撃が発端なんだから、美穂さんも捜査に協力したことになるわね」
「いえ、とんでもないですよ。本当に、野島さんと、亜里沙さんにはお世話になりました」美穂は、心から平穏な日常が訪れたことを感謝している様子である。
「いえいえ、これも仕事なんで…、」
亜里沙が胸を張ると、二人して笑い合った。
『bills』は、オーストラリア・シドニーの発祥らしい。カジュアルな美味しいランチでの楽しい食事となった。
「亜理紗さん、ところで調査のお支払いがまだなんですが・・・」美穂が言う。
「う~ん、困ったわ」亜里沙が返した。
「どうしてですか?」
「所長が、綺麗な女性からは、お金を頂くなって…」
「嘘ですよ、そんなこと…」
「じゃあ、美穂さん、ここのランチは、美穂さんの奢りってことでどう?」
「分かりました。お安い御用です‼」
亜里沙と美穂は、再び笑い合っていた。
同じ頃、野島は、都筑区中川にある岩崎朱里のマンションを訪ねていた。
「野島さんの調査のお陰で、犯人が逮捕されたみたいですね。お疲れ様でした」
「いえ、結局は、まだ西島夫妻の行方は解明されていませんので・・・」
「それは、警察の方にお任せすればいいと思いますわ」
朱里は、野島に労りの言葉を掛けた。
「野島さん、あなたは不思議な方ですね。羨ましい気もするのです」
「朱里さん、それはどういう意味でしょうか?」
「私なんて、自分の周りのことしか興味が無くて…、世の中のために何かをしようなんて、考えたこともないのですもの」
「それは、仕事ですから・・・」
「いいえ、出来るようで、なかなか出来ない事です。……ところで、お幾らお支払いすればよろしいのですか?」
「朱里さん、今回は私から無理にお願いしたことで・・・、結構です」
「そんなこと、納得できませんわ」朱里は、主張した。
「では、今度事務所の方に遊びに来ませんか? 外の空気を吸うことも大事なことですから」野島は、朱里に新しい人生を踏み出して欲しかったのだ。
「そうですね。帰らぬ人たちを待ち続けていても、何も始まりませんものね。ありがとうございます。本気にしますからね」
朱里の顔は、陽の光が当たったように、明るく輝き始めていた。
*
港街も、一年の最後の日を迎えていた。年末の慌ただしさも、すっかり
落ち着いてきているようである。過ぎてしまうと、苦しかった出来事も
懐かしい思い出にと、姿を変えて行く。野島と亜里沙は、一年を振り返っていた。
「亜理紗、クリスマスは、もうとっくに過ぎていたんだな。気付きもしなかった」
「そうですよ、所長。でも、色々あったから仕方ないですよ」
「去年と同じで、プレゼントを買ってやる時間もなかったな。ゴメン・・」
「でも、私は、今年もサンタさんから小箱をもらったから、大丈夫です」
「それ、本当なのか・・・?」
「ええ、本当のことよ。紙切れが入っていてね。小さな幸せって書いてあった」
「どういう意味なんだ? それは・・・」
「それはね。……耕介がこうやって、そばにいてくれることかな……」
亜里沙は、涙を誤魔化すように立ち上がると、窓の前に立った。
「耕介、雪が降って来た……」
大きく開けられた窓から、冷たい風が入って来ると、冬の匂いがした。
「耕介、…私、冬の匂いって大好き、……耕介と同じくらい」
野島は、亜里沙の肩を優しく抱くと、二人して白い羽の舞う暗黒の空をいつまでも
見ていた…………。
完
あとがき
小説を書き始めたのは、二年前からのことですが、それには理由がありまして、
やはり現在の状況による影響が大きかったのかも知れません。それまでは、月一でしたが、グループホーム等で音楽のボランティア活動をしていたのですから。
それが適わなくなった時の喪失感が、正直ことのほか大きく何かを模索していた時期でもあったのです。
やはり人間は、どこかに帰属していなければいけないのだと、つくずく思いました。 簡単に言ってしまえば、人の役に立っているという事でしょうか。
この小説のワールドに登場してくれている主人公たちに過度の任務を与えているのも、この考え方が投影されているのかも知れません。
「働かせすぎだろう」と、思われている読者の皆さんまことに申し訳ありません。
話は違いますが、12月に入って小説の舞台となっている『加賀町署』に行ってまいりました。キョロキョロと見回しておりましたら、警察官たちの目線が私に集中。
実は、職質にあったら、渡すつもりで用意していたのです。耕太郎の名刺をです。
(ここ馬鹿な事やってると、笑っていただいて結構ですから)
署は、中華街善隣門の目の前なので、中華街にお越しの際は是非寄ってみて下さい。小説が、よりリアルに感じられると思います。
何と、成宮綾乃刑事と古畑巡査部長がいたような。(すみません。妄想でした)
改めて、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。
笹岡耕太郎、野島耕介、渡邊亜里沙、古畑巡査部長、小谷光秀(?)
成宮綾乃、順子ママ(友情出演)
横浜みなと探偵事務所 笹岡耕太郎 @G-BOY
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