後編 卵は新月に孵る

私はぐにゃりとした彼の体を両手で抱え上げると、予約していたホテルの部屋へと連れ込んだ。


ベッドに彼を横たえ、私は本来の姿へ、美しい土蜘蛛へと戻った。私の広い背中は天井についてしまう。少し窮屈。決してこのホテルの部屋が狭いわけではない。私が大きすぎるのだ。私は8本の足でベッドを破壊してしまわないよう注意しながらそっと動いて、彼にまたがった。

「ごめんなさいね。人間を食べるのは気が進まないのだけれど、年に一度の今日だけは、懐に飛び込んできた生け贄を見逃すわけにはいかないの」



亥の日、それは人間が私たち土蜘蛛の一族を槌で打って虐殺した日。

日本では亥の日に、人の子が地面を石や槌で叩き、それを「亥の子突き」だといって、土蜘蛛の死を祝うという伝統行事がある。なんて残酷なのだろう。


ならば、私は私の「亥の子突き」を行おう。亥の月、亥の日、亥の刻に――秋のこの日この夜に、人の腹をこの足で突いて、亡くなった仲間を弔おう。それが生き残りである私の使命だと思うから。


とはいえ、人間たちの世界では近ごろは「亥の子突き」をする地域も減ってきた。そもそも亥の日が土蜘蛛の虐殺を祝う日だということを知っている人間も今では少ない。だから、最近では、生け贄が逃げるのならば、見逃してやって、ただ祈りを捧げるだけの日にしても良いと思っているのに。それなのに。


「ああ、生臭い。やっぱり脊椎動物の血は好きじゃないわ。私は蝶やコオロギが好きなのよ」

少ししょっぱいのが救いだった。



――

すべての儀式を終え、私はホテルを後にした。


自分の息が生臭くて吐きそうになる。こんな儀式もうやめたい。人間のほうが亥の子突きを完全に廃止してくれたら、私だってやめられるのに。人間ったら、いつまで旧い伝統にしがみついているのよ。1600年以上も虐殺を祝い続けるだなんてどうかしている。土蜘蛛の女王、田油津媛を殺したことがそんなに嬉しいか。私の姉を……。昔のことを思い出すと、人間どもに復讐するのが当然だという気持ちに火がついてしまう。それが自分でも苦しい。


ああ、姉を見捨てて逃げた兄は、今ごろどこでどうしているだろう。

憎い兄のことを思い出すと、なおつらい。


口元を押さえて駅に向かって歩いていたら、スーツ姿の若い男性が声をかけてきた。

「これから飲みにいきません?」

私はスマホで時刻を確認する。午後11時を過ぎている。もう子の刻だ。

「そうね、飲むだけならいいわ。ちょうどお酒で口直ししたいところだったの」

「変なことしないから安心してくださいよ」

それは私の台詞なのだけれど。


男とともに歩き出した。近くにいい居酒屋があるのだと男は言う。

おそらく居酒屋で私はこの男と連絡先を交換するだろう。そして約束もするだろう。ああ、来年は儀式をせずに済むといいのだけれど。





――連続殺人の容疑で逮捕された女(山門やまと秋芽28歳)は、自分を蜘蛛だと主張しており、近々精神鑑定が行われる見通し。また被害者は男性ばかりだったことから、男性への恨みが犯行の動機になったとみて警察は取り調べを進めている。なお凶器はまだ発見されておらず、警察は範囲を広げて捜索している。――

『8人惨殺の女、逮捕. 日陽新聞. 2017-01-28,朝刊,p.1.』




――

8人の男を殺した罪で逮捕された私は、裁判の末、死刑が確定した。私は凶悪犯ばかりが集められた特殊な刑務所へ収監されることとなった。


ある秋の夜、刑務所内で受刑者が腹を引き裂かれて死んでいるのが見つかった。

遺体の状況から見て私の犯行であるというのが人間たちの見解であった。私に殺された8人と同じ殺され方をしていたから。


その後、私は隔離された。窓もなければ明かりもない、音もなにも聞こえない独房へ移された。手錠と足枷をはめられて、拘束衣で首もまっすぐにはできない。ずっと床に転がって、たまに手探りで食事をしたりトイレに行くだけの日々となった。


こんなに厳重に監禁されているのにもかかわらず、翌年の秋、看守が殺された。腹を割かれていたのだ。

看守も囚人も私を恐れ、みな別の刑務所へ移されていった。


ここには私ひとり。

きっと私の死刑執行は早まるだろう。もしかしたら餓死することもあるかもしれない。最近では食事が出ない日が増えてきた。



だから、死ぬ前にやるべきことを済ませてしまおう。



私は卵を産めるだけ産んで、トイレに流した。人間の男たちから奪った精巣を体内に取り込んで生かしておいたので、いくらでも受精卵をつくり出すことができた。


私は祈る。

ああ、どうか卵たちが下水を通じて海に出ていけますように。

どの卵も海にたどり着いて、立派に孵化しますように。




――


しばらくの後、死刑は執行された。



数年後。

山門秋芽の模倣犯が多数出現した。警察は犯人らを逮捕。裁判で死刑判決が出て、彼らは刑を執行された。



さらに数年後。

山門秋芽の模倣犯が再び、それもかなりの数が出現した。


まだ人は気づいていない。世代を超えて、人と土蜘蛛の戦争が始まったことに。




――

土蜘蛛の男、夏羽は、妹の田油津媛が殺されたとき、人間たちに恐れをなして逃げ出した。もともと戦いを好まない優しい男だった。


下の妹、秋芽が殺されたときも、何もできなかった。ただ涙を流しただけだった。


しかし、秋芽の子供たちまで殺されて、とうとう怒りが全ての感情を上回った。

この上秋芽の孫まで殺されてなるものかという思いが、優しかった夏羽を変えてしまった。



「覚悟は決まった。


我らが滅びるか、人間が滅びるか。


かつて自然の中でひっそりと暮らしていた我らの集落を侵略し、服従を迫り、逆らえば殺した人間どもの罪。忘れたとは言わせぬぞ」



虐殺が始まる――



<おわり>

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忘れないで ゴオルド @hasupalen

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