忘れないで
ゴオルド
前編 生け贄
『ある日、ピノキオはおじいさんに梨をもらった。
ピノキオは皮をむいて食べた。もっと梨を食べたいとおじいさんに言ったら、もうないと言われた。
だから、ピノキオは一度は捨てた梨の皮を拾って食べた。』
一部の男たちにとって、過去の女ってのは梨の皮のようなものなのでしょうね。自室のテーブルに置いたスマホを見つめながら、そんなことをふと思った。
彼女がいないとき、クリスマスが近づいたとき、心が満たされないと感じたとき、「かつて自分に惚れていた女」に電話する男がいる。一度捨てたものをしゃぶって口寂しさを紛らわせようとする。一時しのぎ。
さっきから鳴り続けているスマホ。コール音とともに、相手の名前が表示されている。数回食事しただけの男。私が自分に惚れていると思い込み、満足して去っていった男。この人も口寂しいのだろう。
私は、電話に出てみた。
本当は今日だけはやめて欲しい気持ちもあったのだけれど。
「あの、俺だけど」
彼が最後に連絡してきたのは1年前だろうか。まだ自分が覚えてもらっていると信じて疑わないような口調だ。
私は何も言わない。
「あー、えっと、久しぶり。ずっと連絡してあげなくてごめんね。怒ってる? そっちLINEやってなかったよね」
そっち、ねえ。私の名前も覚えてなさそうだ。
彼はひとりしゃべり続ける。
「だから直接電話するしかなくて。でもなかなか時間とれなくてさ。俺って仕事忙しいんだよね。それにしても最近寒いね。もう11月だから当然だけど。風邪とか引いてない? 元気にしてる?」
私は声を出してみることにした。
「いまから飲みにいかない?」
まどろっこしいやりとりは省略しよう。
「えっ、今夜はちょっと……。明日も仕事だしさ。どうしてるか気になって連絡しただけだから」
「そう、それじゃさよなら」
私が電話を切ろうとすると、
「あっと、明日仕事ないわ、うっかりしてた。今からね、いいよ」
「じゃあ、駅前の〇〇ホテルのロビーで」
私は今度こそ電話を切った。
さて、彼は逃げられるかしら。私としては、どちらでも構わない。いや、できれば逃げてほしいかも。私だって鬼じゃない。
――
時刻は
「久しぶりだけど、相変わらず綺麗だね」
「ああ、そう。それじゃ、ここのバーに行きましょう」
私は彼の言葉を無視して、ロビーを突っ切るようにして歩きだした。あとを彼はついてくる、まるで従者のように。どう? 私は可愛くない女でしょう? 彼が機嫌を損ねて帰ってくれてもいいのだけれど。
ホテルのロビー脇にバーへの入り口があり、ウエイターが立っていた。私がボックス席の空きはあるか聞くと、今は空いていると言うので、すぐに案内してもらうことにした。
薄暗い店内の中、ふかふかのカーペットをゆっくり歩く。客は少ない。カウンター席はほとんど満席ではあったが、ボックス席は空席が目立った。
私は壁沿いの席を選び、ダークブラウンのソファにお尻を沈めた。彼も遅れて隣に座った。私は彼のことなんて見もせずに、おしぼりで手を拭きながら、ナッツとソルティードッグを頼んだ。ここのミックスナッツは好きだ。出す直前に再ローストしてくれるし、塩が効いている。
ソルティードッグは海塩で作ってくれるよう頼んだ。まろやかで複雑な味がして好きなのだ。私は塩を好む女だ。しょっぱいものを口にすると心が落ち着く。だが、サラミやソーセージなんかはいくらしょっぱくても頼まない。生臭いのはお断りだ。血液の味がするようなものは。
彼はパッソアオレンジを頼んだ。パッションフルーツのリキュールとオレンジジュースのカクテルだ。南国の香りがするトロピカルな飲み物。彼がこういうものを頼むのは意外だった。それに今は11月だから夏ではないし、いろんな意味でちぐはぐな感じだった。
「そういうの好きになったの? 甘いのは嫌いじゃなかったかしら」
「たまにはいいかなって。でも、俺の好みを覚えてくれてたんだね」
彼は嬉しそうに微笑んだ。あなたにも私ぐらいの記憶力を期待したいところよ。
そうだ、あなたに逃げるチャンスをあげる。記憶力のテストよ。私が3回質問するから、もしも思い出したなら逃げてね。
まず、第1問。今なら余裕で逃げられる。
「ねえ、私の名前って覚えてるかしら?」
「もちろん。ほら、えっと、アキメちゃん、だよね」
下の名前だけ。名字は忘れてしまったのね。ああ、これではもう先が読めてしまう。残念だわ。
では続けましょう。第2問。さあ、今すぐ逃げないと間に合わない。
「去年もここに来たのよ。季節は夏だったけれど。そのことは覚えてる?」
「覚えてるよ。一緒に飲んだね。まずビールで乾杯したっけ」
あら、こっちは覚えていたのね。意外だった。でも大事なことは思い出せないのかしら。
では、最終問題。逃げよ逃げよ食わるるぞ。
「私と約束したことを覚えている?」
彼は作り笑いを浮かべた。
「約束か、もちろん覚えてるよ。一緒に出かける約束だよね、温泉だったかな」
「違うわ」
「ごめん。ど忘れしたみたいだ」
「亥の日に私と会ってはいけない、そう約束したでしょう」
「えっ……何の日って?」
「知ってた? 今日は亥の日なのよ」
もしも覚えていたのなら、死なずにすんだでしょうに。
誘った女の名前も覚えていられないような男では、それも無理かしらね。
私は彼の首もとにそっと口づけた。皮膚の表面に唾液をつける。人間にとっては麻酔薬のようなもの。彼はたちまち意識を失った。
<後編へつづく>
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