ふたりの関係が進むとき
古森屋睡
本編
世界で一番のバカかもしれない、そう思うときが何度もあった。
でも、バカで良かったと思うことは――それ以上に多かった。
「本当に、強くなったな」
思わず声を出していたことに気づき、慌てて口を閉ざす。これから始まる全国高等学校女子剣道大会、その決勝戦に臨む幼馴染の姿はとても遠くにあった。
泣き虫で、弱虫で、いつも俺の真似ばかりをしていた人物とは到底思えない。真っすぐに背筋を伸ばし、正座で待機する様は凛々しかった。でも、昔から変わらないところもある。
「……相変わらずだな」
試合前に観客席から俺を探す癖は、最後の公式戦まで直らなかった。いつも試合を見に来る、俺の方に問題がないとは言わないけれども。
「頑張れ、千佳」
大きく手を振ってみせる。まわりから気味悪がられようが、俺にとってはどうでも良かった。千佳が俺を見つけてくれるのならば、それだけで十分だった。
一秒……二秒……三秒……。
千佳が俺を見つける時間は、試合の度に早くなっている。そして、
「――」
千佳が何かを呟くのも、いつものことになっていた。
手を振り返す前に、口が動いているのだから間違いはないはず。ただ、何を言っているかは未だにわからなかった。何度も聞いてはいるが、千佳が答えてくれることは一度もなかった。
「ここまで来たんだ、絶対に優勝しろよ」
そんな俺の願いが聞こえたわけでもないだろうが、千佳は視線を切る。
防具を身につけ、臨戦態勢に入った姿は、男の俺でも惚れ惚れするくらいに眩しかった。
◇
パシャ、パシャ、とカメラで何度も撮影する。表彰を受ける千佳の写真が、ただただ溜まっていった。
会場中の視線を集める千佳は、この場の誰よりも誇らしげだ。その手助けをしたのが――自分だと思うと、こちらまで誇らしい気持ちになる。それでも、
「……本当に凄いな、千佳」
嫉妬の気持ちがないとは言えない。俺も、あの場に立ちたかった。
『努力は裏切らない』
俺の信条だった。努力を続ければ、誰よりも強くなれると信じていた。
でも、この信条には前提条件が抜けていた。
『"正しい"努力は裏切らない』
弱小高校で、生徒同士で考えた練習が"正しい"努力とは言えない――それを大学で知った。
知れば納得もいく。
三年前の俺が全国一回戦で負けたのは、間違いなく必然だったのだろう。大学剣道部にいた、名門高校出身の学生たちとは格が違っていた。
しかし、この三年で実力差は逆転して、今は俺がレギュラーを奪っている。
図らずとも俺自身で信条の間違いを証明してしまった。そして、千佳を指導したことで確信に変わった。
――今の知識を持ったまま、高校三年間をやり直したい。
不可能だと知っていても、夢物語を求めずにはいられなかった。
だから、千佳を導くことで、千佳を通して高校三年間をやり直していた。
終わった今となってみれば、最低なことをした。俺のエゴを、何の関係もない千佳に押しつけていた。
『私、剣道が好きだから……だから、頑張るよ』
もし千佳が剣道を好きでなかったのならば、俺が千佳にした厳しい指導は――単なる虐待でしかなかっただろう。
昔から俺の後ばかりを追っていた幼馴染とは言え、許されるとは到底思えない。
結果オーライだと、割り切って終わらせていいはずがない。俺は最低の、大バカ野郎だった。
「ごめんな、千佳。でも、本当におめでとう」
後で謝ろう、と心に決めながらカメラのファインダーを覗き込む。
金メダルを首にかけられた千佳の写真を何枚も撮った。何枚も、何枚も、飽きることなく撮り続けていた。
◇
今回の全国大会は地元開催だった。
それもあって、大会後の千佳と待ち合わせることは難しくない。ただ、会場前で待っているだけで良かった。
「遅くなってごめんね」
制服姿で駆けてきた千佳。全国で一番になったとは思えないほどに、いつも通りの笑顔だった。
「慌てなくて良かったんだぞ」
「だって、ヒロくんを待たせたくなかったんだもん」
少し拗ねたような声だ。早く顔を見たいと思ってもらえているのならば、正直に言って嬉しい。
でも、そんな気持ちは素直に伝えられない。軽く肩で息をしている千佳から、防具袋と竹刀袋をまとめて奪い取った。
「ありがとう」
俺が勝手にしていることだが、千佳は毎回必ずお礼を言ってくる。
そんな律儀な性格は、昔から変わっていない。
「ご褒美に何が欲しい?」
駐車場に向かいながら訊ねる。これも、いつものルーティンだった。
「今回も二人で晩御飯?」
「まあ、そうなるな。先生と教え子の二人で、食べてきなって」
「お父さんのバカ」
「怒るな、怒るな。剣道に興味がないんだから仕方ないだろ」
「そうだけどさ……」
少しムッとした千佳。父親が会場に見に来ていることには、まだ気づいていないらしい。反抗期に入ってから娘への接し方がわからない……らしいが、父親とはそういうものなのだろうか。
でも、俺としては千佳と二人きりになれてラッキーだった。本当のことを言って、二人きりの時間を失いたくはない。
それにきっと今回も、父さんを誘って男同士で宴会をするに違いなかった。
父さんには悪いけれど、息子の幸せのためにできるだけ長く宴会を続けて欲しい。
俺としては少しでも長く、千佳と一緒にいたかった。
「それとも、俺と二人きりは嫌か?」
「……嫌じゃないよ」
「ありがとな」
「ちょっと! 頭をポンポンしないで!」
子供じゃない、と怒るのが子供っぽくて可愛い。
「撫でるな!」
声だけの抵抗、手を撥ね除けないあたり素直じゃなかった。
「わかった、悪かったよ」
「えっ、もう止めるの?」
「もっとして欲しかったか?」
「――知らない!」
顔を思い切り横に背ける千佳。甘えたがりのままでもいいのに、変に意地っ張りなところも変わらない。
そんな拗ねた顔も可愛いと思ってしまうのだから、惚れた弱みというのも恐ろしいものだ。
「千佳」
再び頭を撫で始めると、嬉しそうな顔が向けられる。
「今日は、腹一杯に食べていいからな」
「うん!」
撫でる手を下ろせば、千佳の小さな手に掴まれる。応えるように、強く握り返していた。
◇
全国優勝のお祝い――ともなれば、豪勢な料理を食べさせてやりたい。そう考えるのは、不自然なことでもないだろう。喜んでもらえると思ったからこそ、俺も食べに行くことを提案していた。
だからこそ、千佳の希望は予想外だった。
「本当に、良かったのか?」
車内でも、スーパーの中でも、同じ質問をしている。
落ち着かいない気持ちが、心の中を渦巻いていた。
「何回言わせるの? 私は、ここが良いんだよ」
俺の内心の戸惑いがわからないのか、ニコニコ笑顔の千佳の答えは変わらない。
これ以上の問答は無意味だと思い、仕方なしに玄関ドアを開けるしかなかった。
「おお~」
そんな声を上げながら、千佳が脇を通り抜けて家にあがる。何がそんなに珍しいのか、住人の俺には少しもわからなかった。
買い揃えた食材入りのスーパー袋を片手に後を追う。
今晩のメニューは、俺特製のアレンジカレー。千佳のリクエストでつくるのも初めてではなかった。
一緒に晩御飯を食べ、一緒に食器を片づける。全国優勝の夜にしては、あまりにも日常的で代わり映えがしない。
片づけを終え、リビングのソファーに隣り合わせで座る。千佳の第一声は、思い出したような感想だった。
「ヒロくんのカレー、本当に美味しかったよ」
「辛さは大丈夫だったか?」
「慣れちゃった」
「おいおい、我慢していたのかよ」
「ヒロくんの好きな味を、私も好きになりたかったんだよ」
千佳のハイテンションは継続中、笑顔に溢れていた。
「ちょっと辛いくらいなら、全然平気だよ」
「……嬉しいことを言ってくれるな」
「照れてる?」
「うるさい、バカ」
軽く千佳の額にデコピンを一発。ピシッ、と小気味いい音がした。
「ヒロくん、素直じゃないね」
痛くもないのに、千佳は大仰に額を押さえて笑った。
「素直じゃないのは、千佳も同じだろ?」
「私?」
「……今日だって、本当は遠慮したんじゃないのか?」
「えっ、してないよ」
あっけらかんとした声だった。不思議そうに首を傾げた千佳を見て、続く言葉を止めてしまう。
「…………」
何か勘違いしているかもしれない、と思考は動き始めていた。
「場所なんて関係ないんだけどな……私、ヒロくんと一緒が良かっただけだし」
思わず千佳の顔を何度も見てしまった。
「でもね、正直に言うと」
そこで言葉を切った後、千佳の視線が逃げた。
「ヒロくんと二人きりが良かったから、ヒロくんの家の方が良かったんだよ」
俺も二人きりが良かった――とは、即答できなかった。でも、期待したくなる言葉だった。俺と千佳が両思いではないか、と。
幼馴染の兄へ向ける好意なのか、異性としての好意なのか、ずっと判断ができないでいた。しかし、その天秤は今や、異性側へと傾き始めている。緩みそうになる頬を引き締めることが大変だった。
「嫌だった?」
「――そんなわけ……そんなわけ、ないだろ」
咄嗟に出そうになった大声を抑える。今度は、俺が視線を背ける番だった。
「もしかして、ヒロくん照れてる?」
「……指でつつくなよ、バカ」
「照れてる~」
俺の頬にツンツンする千佳は楽しそうだ。この距離感の近さが、千佳の向ける好意の正体をわかりにくくしてくれる。
こんなスキンシップをしたら、男側は勘違いをする……とは、考えもしていないのだろう。
「えっ、ヒロくん?」
千佳のつつく手をそっと掴む。互いの顔しか見えないほどに近かった。
「…………」
心の中で大きく息を吐き出す。伏せられた千佳の目線の意味を、瞬時に判断できない自分が情けない。
怖がっている可能性がゼロでないとわかるから、幼馴染の兄ポジションを捨て切れずにいた。変化を恐れ続けていた。
トン、と千佳の額を指で押す。呆けた顔は可愛らしかった。
「千佳は、無防備過ぎ。勘違いしたら、どうするつもりだよ?」
年頃の男女が部屋で二人きり、その意味を真剣に考えるべき――、
「勘違いして欲しい、って言ったらどうするの?」
――なのは、俺の方だった。
「ヒロくんは、私が何も知らないと思っているの?」
「千佳……」
「わかっていないと思う? いつまでも、子供のままだと思う?」
身体ごと距離を詰められる。ジリジリと後退っても意味はなかった。
「私、ヒロくんの……本当の妹じゃないんだよ?」
ソファーの端に追い詰められる。もう逃げ場がない。
それを自覚した瞬間、臆病な気持ちは一瞬で吹き飛ばされていった。
「俺だって、千佳の本当の兄じゃない」
千佳の小さな両手を上から握りしめる。目と目が合った。
「わかっているのか、本当に?」
一瞬だけ、千佳の目が見開き、
「わかっているよ」
真剣な眼差しに射抜かれた。
「わかっていなかったら、剣道なんかしていない」
「えっ?」
「剣道なんて、ヒロくんがしてなかったらやるわけないよ」
聞き間違いをしたかった。
俺が好きだから、俺を理由に剣道を始めた、と。
でも、千佳の言いようには嫌悪が含まれていた。それは、つまり――。
「千佳は、剣道が嫌いだったのか?」
答えは沈黙だった。
「嫌々やっていたのか?」
重ねて訊ねてしまう。……千佳の頭が、かすかに上下へ動いた気がした。
「そうか」
千佳の両手から、俺は手を除ける。目を閉じれば、千佳と繰り返してきた練習の日々が思い出された。
『剣道が好き』
何度も、千佳の口から聞いてきた言葉。でも、俺の前以外で口にしたことはあっただろうか。
あの言葉が嘘だったとしたら、俺を喜ばせようとした言葉だったとしたら……考えたくもないが、千佳の嫌いは本当になる。
「ごめんな、千佳」
俺がしてきた指導は――千佳への虐待と変わらない。
「ごめん」
深く頭を下げる。謝ることしか、頭に思い浮かばなかった。
「ヒロくん」
声は聞こえるが、感情は読めない。顔も上げられそうになかった。
「謝る必要なんてないよ。私が、勝手に嘘をついたんだから」
「……俺が嘘をつかせたんじゃないのか?」
熱心に指導した自覚はある。練習なんてしたくない、と言い出せない雰囲気をつくっていたに違いない。その想像は簡単できた。でも、
「私、卑怯な女なんだよ」
千佳の答えは、俺の想像外だった。
「ヒロくんが思っているような、可愛い妹じゃないんだよ」
何を言っているんだ? 千佳が卑怯? 疑問符が頭の中で乱れ飛ぶ。
思わず顔を上げると、泣きそうな顔をした千佳と目が合った。
「ヒロくんのこと……私、ずっと好きだったんだよ」
涙が流れ落ちる。
「だから、少しでも一緒にいたかった……」
小さな声は濡れていた。
「私、寂しかったの。ヒロくん、剣道のことばっかりで……」
「それは……悪かったよ」
思い当たる節はあった。中学、高校、と三歳差ゆえに同じ学校に通えなかったことも大きいのだろう。でも一番は――剣道だった。
千佳が剣道を始めるまで、繋がりが切れてしまったのは間違いない。
「俺は、その……剣道が、好きなんだ」
千佳の前では言いにくいが、隠しようもない事実だ。弱小校なのに、バカみたいに練習へ打ち込んでいた。
全国大会に出たい、全国優勝したい、努力する目的はあった。でも、その原動力となったのは、単純に好きだったからでしかない。
「知っている。私、そんなヒロくんのことが好きだったの」
「えっ、剣道が嫌いだって言っただろ?」
「……頑張っているヒロくんは、カッコ良くて好きだよ。でも、剣道は嫌いなの」
恥ずかしそうに、千佳は顔を背ける。
「私から、ヒロくんを取ったから」
「そ、そうか……」
照れで声が上擦る。千佳が剣道に嫉妬したなんて、想像できなかった。ただ、正直に嬉しい。
にやけそうになる頬を抑えるように、心の中で小さく息を吐く。すると唐突に、千佳に頬を突かれた。
「気持ち悪い顔になっているよ」
ツン、ツン、ツン、と三回繰り返した後、頬を引っ張られる。
痛くはないし、千佳が楽しそうなら構わないけれども、やられっぱなしでいるのもつまらない。
指で突く千佳の手を押さえ、今度は俺が頬を指で突き返す。……千佳の頬は想像以上に柔らかかった。
しばらくすると、そっと千佳のまぶたが落ちる。
無防備な姿に、平静を保てなくなるのは間もなくのことだった。指先から手のひらに、千佳への触れ方は変わっていた。
「千佳」
名前を呼んだのは、逃げ場を塞ぐため。頭を占めているのは、千佳だけだった。
「好きだ」
「うん」
「俺、千佳のことが好きだよ」
言葉が溢れる。
「千佳、俺と付き合ってくれないか?」
何年も言えなかった言葉ですら、簡単に口から飛び出していた。
「……はい」
小さな肯定の声で、心はどれだけ満たされるのか。
衝動のままに、千佳を抱きしめていた。
「ありがとう」
背中に恐るおそるまわされた千佳の手が、お互いの身体をより密着させる。
千佳の髪からは、優しいシャンプーの匂いがした。
「好きだ、千佳」
その言葉を合図に、千佳の顔が静かに上向いていく。啄むように唇を触れ合わせていた。
一回、二回と繰り返し、三回目は何秒もキスで繋がる。初めて思えるほど、心の満たされる時間だった。
「俺もずっと好きだった……千佳に、先に言われるとは思わなかったよ」
「そんなの、ヒロくんが鈍感だからだよ!」
少し怒った声で言うが、次のキスを求めてきたのは千佳の方。
「悪かったって」
四回目のキスは、今までの倍近く長かった。唇を離そうとすれば、その分だけ千佳の唇が追いかけてくる。
千佳、もう離してやらないからな――その思いのままに、強く、強く千佳の身体を抱きしめていた。
◇
朝の習慣を変えるのは、なかなかに難しい。それが好きなことであるならば、尚更のことだった。
「別に、もう付き合わなくてもいいんだぞ?」
隣で防具を身につけ始めた――道着姿の千佳に声をかける。朝稽古に向かう俺に、いつものようについて来ていた。
「私がいたら迷惑?」
「そうは言わないけれど、嫌いなことを無理してする必要はないぞ」
「嫌いだよ、剣道なんて嫌いだけど……」
そこで言葉を切る千佳は、恥ずかしそうな顔だった。なにやら瞳が潤み始めたと思っていたら、
「――千佳!?」
唇を押し当てられる。前かがみの千佳はスッポリと俺の胸の中に収まった。
「言わないとわからない、ヒロくん?」
「俺としては、言ってくれた方が嬉しいかな」
「……意地悪」
「男なんてバカばっかりだぞ。知らなかったのか?」
当然、俺自身も含めてだ。好きな相手が、彼女が甘えてくることを嫌がる男は少ないのではないだろうか。
特に付き合いたてのカップルならば、例外の方が少ないに違いない。
「千佳、言ってくれないのか?」
「……バカ、バカ、バ~カ」
「怒った顔も可愛いぞ」
冗談めかして言うが、紛れもない本心。
幼馴染の一線を飛び越え、恋人に変わった。それだけで、恥ずかしい言葉もスラスラと口にできた。
「ほら、言ってみろよ」
催促するように、千佳の膨らんだ頬を指で突く。実に子供染みた、怒ったぞアピールだった。
何度も、何度も繰り返して突いているうちに、千佳がひとつ大きく息を吐いた。突くのを止めて見つめていると、小さく口が動いた。
「――」
剣道の試合前に、千佳が呟いていた言葉の正体だ。それは、何度聞いても嬉しい言葉だった。
「聞こえないぞ、千佳」
「ふんだ」
声に出して拗ねる様も可愛い。
「千佳が言えないのなら、俺から先に言うからな」
「えっ?」
「大好きだぞ、千佳。だから、千佳のために頑張るし、そんな俺をずっと見ていて欲しい。千佳のことも、ずっと見ているからな」
「……ヒロくん」
「ほら、千佳も言ってくれないか?」
これからの二人に向けた約束になるはず。
『ヒロくん、大好きだよ。だから、頑張る私を見ていてね』
千佳の試合は、毎試合応援に行っていた。それが、千佳の力になっていたことが嬉しかった。
「ああ、一緒に頑張っていこうな」
それだけ言い終えると、千佳にキスをする。
千佳の頑張る理由が俺であるように、俺が頑張る理由も千佳だった。
言葉にしなかっただけで、きっと昔から変わらない。
「どんな嫌いなことでも、ヒロくんと一緒なら頑張れるよ」
「それだけでもないだろ?」
「何のこと?」
「顔、笑っているぞ」
慌てて千佳は顔を引き締める。しかし、手遅れだった。
『剣道なんて嫌い』
その言葉が嘘だと悟ったのは恋人として一晩を過ごしたからだ。頭に少しだけ言葉が欠けている。
『一緒にしてくれないのなら、剣道なんて嫌い』
本当に、可愛い嫉妬だった。
「さあ、いくぞ」
「待ってよ、ヒロくん」
防具をつけて立ち上がると、慌てた千佳の声が響く。面で顔が隠れることを良いことに、存分に顔を緩ませる。
しかし、準備を整えた千佳と向き合う頃には、顔は引き締まっていた。
全国学生剣道大会の開催はもう二週間後のことだ。千佳の応援で、今度は俺が全国優勝する番だった。
「――お願いします」
千佳と声が揃う。互いに礼をし、顔を上げたタイミングは同時。
大会本番まで厳しい練習を重ねることだろう。
でも、千佳が一緒ならば頑張れる。一人きりで頑張らなくてもいい、その事実だけで勇気が湧いてくる。
「――!」
気合の声と供に、全力で竹刀を振り下ろしていた。
ふたりの関係が進むとき 古森屋睡 @suikomoriya
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