第89話 取り戻せた心
その後、聞いた話によれば兄は医者を辞めて、妻である義姉さんを引き取って田舎へと引っ越しをしたらしい。
他の医者から話を聞けば、心を壊された人間は極力誰かとの接触を避け、誰も居ない場所で時間をかけて治すしかないとのこと。
それで心が回復するかどうかは、本人次第だということらしい。
兄との絆が壊れたといっても、ボクには何の感情も湧かなかった。
言ってしまえば、自業自得だ。
だけど、義姉さんには何の罪も無い。
彼女の回復を心から祈るしかなかった。
そしてボクといえば、相変わらず彼方の病室に居た。
「それでね、桐島さんときたらさぁ······」
どんなに話しかけても顔色一つ変えず、反応もしない彼方にボクは毎日声をかけ続けていた。
もちろん黒羽さんや美白さん、桜さんだけではなく、桐島さんや岸さんも度々来ては彼方に声をかけるも、ピクリとも動かない。
食事もままならず点滴で栄養を摂ってはいるが、日に日に痩せていく一方だ。
それでも、ボクらは諦めることなど出来なかった。
「はははっ、笑っちゃうだろう?」
ボクは彼方に話しかけ続ける。
端から見れば、独り言をただ呟いているだけの哀れで滑稽な光景だ。
だけど、それでも構わなかった。
こうしていないと、ボクは罪悪感に潰されて彼方の顔すらまともに見れないのだから。
「は、はは···」
けど、寂しかった。
反応が無いとは、これほどまでに苦痛で耐え難いものなのか。
今なら、少しは兄さんの気持ちが分かる気がする。
兄さんはこんな寂しくて悲しい気持ちを抱えたまま、いつか訪れるかもしれない希望にすがって好きな人に寄り添ってきたんだ。
ボクもまた、同じ状況にある。
そのためか、自然と涙が溢れてきた。
「彼方ぁ···なんとか、言ってくれよ···っ」
分かっている、これは自分たちが招いてしまった自業自得の結果だということは。
だけど、やはり辛い。悲しい。苦しい。
好きな人から反応を貰えず、その瞳にはボクは映っておらず、彼の頭の中にはボクの存在が無いと思うと、それだけで死にたくなる。
「ねぇ···頼む、からさぁ···っ、一言だけでも、いいんだ···喋ってくれよ、ぉ··っ、話しかけてきてよぉ···お願い、だからぁ···っ」
ボクは嗚咽を漏らしながら、彼にすがり付くように懇願する。
それでも、ボクの悲痛な叫びは届かない。
「彼方ぁ···こ、んなに好きなのにぃ···大好き、なのにぃ···っ、なんで笑ってくれないのぉ···っ。う、あぁ···っ、あぁあああっ···!」
ボクは彼の胸に顔を埋めて泣き叫ぶ。
もはや我慢の限界だった。
塞き止めていた感情と想いが一気に溢れ出し、慟哭が止まらない。
こんなに素直に感情を吐き出したのは、いつ振りだろうか。
分かっている、これはただの自己満足だ。
自分の感情を出したところで、この状況が変わることはない。
好きな人がこんな目に遭っているのは自分たちのせいなのに、とんだエゴイストだ。
だけど、泣かずにはいられなかった。
「お願いだよ、ぉ···彼方ぁ···っ」
声を上げて泣くなんて、本当に久しぶりだ。
彼方の前では弱音を吐くことはあっても、泣くところなんて見せたことは無かった。
いつも彼方の味方でいたくて、親友でいたくて、彼を悲しませまいと負の感情を出来るだけ隠し続けてきた。
それが今、初めて全ての感情を彼方にぶつけている。
悲しみ、苦しみ、辛さ、後悔···そして、好きという気持ち。
それら全てを余すことなく伝えていた。
恥ずかしさなんて微塵も感じなかった。
だって、本当の本音なのだから。
「彼方ぁ···っ、か、なたぁ···っ」
ボロボロと止めどなく涙が溢れる。
―――すると、不意に。頭に感触を感じた。
「·········えっ?」
あまりの突然な出来事に顔を上げることが出来ず、ただ呆然と目を丸くするのみ。
何が起こった?理解が及ばない。
ボクの頭が触れられた感触があった。
もちろん、この場にはボクしか居ない。
いや、違う。もう一人居た。
「···何、泣いているんだ···?」
ボクの声では無い声が耳に届いた。
呆れたような、でも無感情を秘めた声。
その声は、聞き覚えがあるといった生易しいものではない。
いつでも、どんな時でも、ずっとずっと聞いていたい声。聞きたかった声だ。
「···あ、あぁ···っ」
ボクはゆっくりと顔を上げ、目線をその人物に移す。
涙で視界がぼやけ、その人を鮮明に捉えることが出来ない。
でも、ボクにはそれが誰なのか理解している。
ボクの頭を優しく撫でながら、彼は困ったような顔をして言った。
「そんな泣き崩れた顔をしてると、せっかくの美人が台無しなんだが···?」
「···か、彼方···?」
ボクの想い人が、苦笑いではあるが笑顔を見せてくれている。
「おはよう、紡」
「···あ、あぁ···っ、か、彼方···っ、彼方ぁ···彼方ぁっ···!」
そこには、いつもの姿を見せてくれていた彼方の姿があった。
あまりの嬉しさと驚きが入り交じり、何を話していいか分からなかった。
ただただ、今のボクには彼方に抱き付いて涙を流すことしか出来なかった。
言いたいことはいっぱいあった。
話したいこともいっぱいあった。
でも、そんなことよりも何よりも、ボクはこの一言だけ言いたかった。
「愛···してる···っ、彼方ぁ···っ!」
ボクの想い人、花咲彼方の温もりを感じながら全ての感情が詰まった一言を言った。
虚像やまやかし、幻や夢なんかじゃない。
彼方は今、こうしてボクの目の前にいる。
笑って、ボクの頭を撫でてくれている。
この温もりが夢幻であるはずがない。
「心配、かけたようだな···ごめんな、紡···」
「ううん···ううん!ボクの···ボクのほうこそ、本当に、ごめんなさい···っ」
謝るのはこちらのほうだ。
彼方を信じきれず、守りきれず、こんな目に遭わせてしまった。
約束を違えてしまったのはボクのほうなのに、彼方はそれでもボクに謝ってくれる。
「彼方···こんな、ボクで良かったら···また、一から友達になって···くれる?ボクと、やり直してくれるかな···?」
恋人になってなんて言えなかった。
言える資格などボクには無い。
優しくしてくれる彼方に、こんな卑怯なやり方で彼の心を掴みたくはない。
だから、また一からやり直してからこの想いを改めて伝えたい。
「···馬鹿だな、紡は。そんなの、当たり前だろう?俺たちは、前から親友じゃないか」
「っ···か、なたぁ···彼方ぁ···っ!」
「うぉっ!?」
彼の優しさがとても嬉しくて、ボクは感極まって彼方に抱き付いて涙をまた流す。
ボクは、もう逃げない。迷わない。
選択肢をもう間違えない。
今度こそ、信じきってみせる。
この温もりを、二度と失わないために。
彼の笑顔を、二度と消させないために。
「ありがとう、彼方···愛してる···」
ボクは再び、愛の言葉を囁く。
彼はボクの言葉に返事はしなかった。
代わりに、ボクを優しく抱きしめ返してくれた。
今は、それだけでいい。
今は、この温もりだけ感じていればそれでいいんだ。
彼方、改めて誓うよ。
ボクは、二度と君を裏切らない。
何があっても、どんな未来がこの先待っていたとしても、ボクはもう二度と過ちを犯さない。
君だけを愛しているから。
「おかえり、彼方···」
ボクは、ずっとずっと言いたかった言葉を彼に捧げた。
この日、彼方は失った心をようやく取り戻せた。ボクは、そう思えたんだ。
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